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親の発達障害と健康な人格

作者: 鈴木美脳

 毒親という言葉がある。子に悪影響を与える親を意味し、1989年に米国でできた比較的新しい言葉だが、日本でも一定程度定着した。

 毒親の特徴として、価値観の一方的な押しつけといった点が挙げられることがある。世間を間違ったものや劣ったものと見なし、自分からは「ありがとう」や「ごめんなさい」といった言葉をほとんど発さず、実際に内心にそういった感情がない。子供の感情や苦楽への共感が薄く、そもそも子育てへの興味が希薄だ。

 そのような特徴は、発達障害、具体的には自閉症の特徴だ。発達障害や自閉症は、完全に先天的で、後天的な環境要因からの刺激による改善は見込めない。どうという因果関係なく、生誕の際の単なる偶然で生じるのが、発達障害や自閉症だ。ASDやアスペルガーも、同様の意味の言葉だ。

 発達障害の人が子を持つ場合があるだろうか? ありえないと示すことは不可能であって、当然にある。したがって、発達障害の親を持った子がある種の苦労を体験する傾向があるとするなら、そのような苦労をしている人々が実在すると言い切れる。

 毒親という言葉には多様な含みがあり、毒親の種類は一種類ではないが、毒親の少なくない一部が単に発達障害であることは明らかだ。しかしこの事実は、障害者批判につながる側面があるため、言論の禁忌として軽視または隠蔽されている。言う人は攻撃されるし、されてきた。


 子供自身の好き嫌いなどの感情を認めず、ひいては人格や個人としての尊厳を侮辱したり無視したりして決して認めない行為は、精神的な虐待だと言える。

 そのように子供の精神に負担や苦痛を与える環境は、子の人生の社会的な地位を低下させる方向の影響要因になる。そして、人生の社会的な地位と人生の幸福には密接な相関関係があるから、子の社会的な地位を低下させることは、その程度が甚だしい場合には特に、確かに虐待だ。

 生まれ育つ環境は進学のチャンスに大きな影響を与えるが、現代の日本社会では、若い時代の学歴が人生全体のキャリアアップのチャンスの有無に死活的に影響する。大学や専門学校に進学できない高卒の若者は今は少数派であり、高校への進学も許されなかった中卒の若者はさらに少数派で、大企業に新卒で採用されるチャンスなどはその時点で事実上閉ざされる。あるいは、虐待のあり方によっては、十代あるいはそれ以前に深刻な鬱病にまで陥る場合があり、進学についで就職も不可能になる場合がある。

 現実の社会には格差社会や階級社会としての側面があり、良い教育を受けて良い仕事に就くほど、得られる賃金も多い。そして男性の場合特に、経済的な収入は恋愛対象としての価値に直結する。社会的な地位の低い男性は、結婚ができず子を持てないといったことが珍しくない。

 あるいは仮に、名門大学に進学して大企業に就職したとしても、美しい女性との恋愛を楽しんで結婚し複数の子を儲けたとしても、生い立ちにおいて深刻な虐待を受けていれば、その精神的な傷が大きな苦しみを生じつづける場合がある。そのために、他人から見ればすべてを手にしているような人であっても、まだ若いうちに自殺してしまう場合もある。例えば、自己肯定感を感じられず生きることに意味を感じられないといった感覚がありうる。

 ともあれ、進学や就職や恋愛は、劣悪な生育環境から逃げ出すためには一つのチャンスだ。そういったチャンスに手が届かず、いわゆる引きこもりとなり、年齢を重ねながらひたすら追いつめられていく人々もいる。長年の引きこもり生活の末に自殺する人々もいる。

 精神的な虐待はそのように、拷問と殺人を合わせた、人の人生を台無しにする犯罪行為であり、健康な共感を備えた人はまずやらないし、やろうとしたとしてもできない。過酷な虐待を行う親に占める潜在的な発達障害の割合は、極めて大きい。


 しかし一方で、社会的な地位の低い人々については、自己責任論も降りそそぐ。

 人間という動物は、自分に有利に物事を認知したがるから、社会的な地位の高い人々ほど、その地位を自分自身の努力や能力によって獲得したと考えたがる。そして、社会的な地位の高い人々ほど、自分に心地よい認知を他者に強制する権力にも恵まれている。

 したがって、何らかの意味で社会的に成功した人々、例えば高学歴、高収入、恋愛強者、既婚、子持ちといった人々が、そうでない人々を自己責任論で蔑む認知バイアスを持つことは自然だ。そういった自己責任論からの認知は、苦しんでいる人々が苦しみに値するのだという感覚や主張をもたらす。弱者が分け前を要求する態度を傲慢だと否定する感情をもたらす。

 例えば、学歴の高さが個人の知的な資質のほぼ誤差のない指標であるとするなら、学歴の低い人々が社会的に淘汰されていくことは生命界の現象として自然かつ必然であり、そこに一定程度の苦しみが付随することも容認される。生活保護といった再分配の仕組みがあるだけ、能力の高い人々が能力の低い人々を手助けしている社会構造なのであって、弱者は不平を言うよりもそれにひたすら感謝することが妥当だとすら見なしうる。

 現代の日本において、学歴や収入や恋愛についての自己責任論は、強固に存在していると言える。

 しかしそのような自己責任論が実際に倫理的に正当化できるのは、同じスタートラインからの公正な競争が実現されている場合に限られる。


 重度の発達障害は毒親となる明確なリスク要因であり、したがって毒親を例としていわゆる「親ガチャ」は確かにある。

 しかし、「親ガチャを言うことは甘えであって問題は本人の努力不足だ」といった断罪的に一般化する心理も世間にはある。

 世間の公正世界仮説あるいは既存体制への順応主義が強固であるほど、学歴が低ければ馬鹿だと思われ、収入が少なければ能力が低いと思われ、恋愛の機会と縁が薄ければ人格的ないし外見的な短所を備えていると思われる。つまり、社会的な地位の低い人々は個人の資質を否定され、実際の環境要因には関心が持たれない。環境の格差は是正されず、社会体制は公正に近づくことなく、苦しむ人々の苦しみは妥当だと見なされて同情されない。

 そのように、公正世界仮説が強いほど、努力や能力といった個人的な資質によって実際に環境の格差を克服するチャンスは減少する。社会的な地位の高い人々こそが努力をした人々だと歪めて認知されることによって、社会的な地位の低い人々がする努力の実際の効果は際限なく低下する。中卒から高収入にはなれないといった統計的な相関関係が強くなっていき、生まれる環境の影響要因が支配的になって、個人の資質と社会的な地位の実際の相関関係は減滅してしまう。ひいては、有能を自認する無能によって運営される脆弱な社会または国となる。

 既得権益層による断罪的な自己責任論は、そのように社会を不健全にする。しかしそのような自己責任論は広くまかり通っていて、立場の弱い人々ほど侮辱される。少なくない人々が、他者を馬鹿にすることを楽しむ感情を備えているが、それは反撃のできないだろう弱い相手に対して発動される。


 結局、発達障害の親を持つといったことよりも、生い立ちによる社会的な地位の格差を断罪的な自己責任論によって簡略化される被害のほうがずっと大きいといったことがありうる。

 つまり、「人生は親ガチャで決まる」と言ったとき、それはむしろ社会的な不公正の結果だ。環境に恵まれた人々が、権力におもねり、生まれる環境の格差を個人の資質の格差に言いかえて立場の弱い人々をサンドバッグにしつづけてきた結果だ。「親ガチャはある」という主張は、自己責任論によって隠蔽されるそういった不公正への指摘でもある。

 しかし、立場の弱い人々からの妥当な指摘が山ほどなされても、社会の言論や思想にあるそのような不公正は、是正されてこなかった。人間社会の倫理的な問題に関する合理的で妥当で事実的な指摘など、有史以前から出尽くしてきたのだろう。不公正は、人間が構成する社会が分かちがたく伴う生得的な性質なのだ。


 毒親から虐待を受けて育った子供は、自分の環境や苦労や心理を「普通」だと思う。

 発達障害の親が自分を正当化して、世間を汚らわしく間違った愚劣なものだと見下す価値観を、子はいったんいくらか受け入れる。親に従って、世間や友達に馬鹿にされて、馬鹿にした奴らが間違っていると考える。しかし次第に、はじめから世間が言っていたように、おかしいのは自分の親のほうらしいと気づく。気づく頃には普通、とうに社会人になっていて、失ったものは何も取り戻せない。

 気づいて取り戻せないどころか、自分が普通だと思ってきた感覚が普通の社会でひどく生きづらいほどゆがんでいると気づいても、何についてどの程度肯定や否定の感覚で反応することがそこそこ普通なのか、一生いまいち分からない。自然な人間関係を形成する感情的な土台が幼少期に形成されそこなっているので、ちゃんと再建することは結局できない。


 あるいは、肉親に発達障害がいると莫大に投資してしまうという論点もある。

 情緒的な知性に恵まれた優しい人々が、発達障害の子供や親を持つと、愛情をとにかく大量に諦めずにそそぎつづければ発達障害が治ると思ってしまう。発達障害だというラベルが相手にはじめからついているわけではないから、発達障害ではないかもしれないという期待もする。

 それは、動物が死んだ子をかかえて世話をしつづけているがごとき、感情的な執着心だ。

 共感し、思いやり、愛し合うことが、いかに素晴らしい精神的な満足感で報われ、どれほど結果的に合理的か、暴力的な否定で報われつづけても模範を示しつづけることで、いつか少しでも成長してくれないかと努力しつづける。なおかつ、相手が親であった場合には、生まれた瞬間から虐待されつづけながら、愛する美徳をどうにか教えようと苦心しつづける。

 そして、発達障害の親を持った子は、結局親からは少しも尊厳を認められないし、愛されないし、興味の対象とならない。親の笑顔のためなら自分の人生のキャリアなどどんなに犠牲になったって満足していられるという幼心が、不可能は不可能だという絶望にたどり着いて終わる。普通だと思っていたものが普通ではなく、自分の親が実は生まれつきの毒親で、親のためを思って失ったものはもはや絶対に取り戻せないという現実が次第に正しく認知されることは、精神的な苦しみを伴う。

 洗脳が解けたところで助からないなら、洗脳が解けなかったほうが幸せまである。


 しかし、発達障害の親を持った発達障害ではない子が体験する世界は、独特だ。

 なぜなら、自分から親を減算することによって、人間から発達障害を減算することによって、人間から悪魔を減算することによって、何が人間の心を人間の心たらしめているか、人間性の本体をとらえる。

 人間の脳ができそこなうと悪魔になるという現実を目の前で自分の心身の耐えがたい苦痛を通して経験することは、良心と知性の関係についての知識をもたらすが、世間のほとんどの人々はそれを知らない。

 愛こそが価値であり、愛こそが権威だという真理に到達する。


 愛でなければ価値ではなく、愛でなければ権威ではないという真理に到達する。

 いや、それは行きすぎだろう。世俗的な幸福観や世俗的な権威主義をある程度は理解し、現実の社会に適応してそれなりに幸せに生きていけることも大切だ。

 しかし、愛を最高の価値あるいは最高の権威だと信じて疑わない精神は、強固に健全な人格を形成する。


 社会的な地位の低い人々を見て、その尊厳を軽んじない人が世間にいるだろうか?

 社会的な地位の高い人々を見て、その尊厳に少しも追従しない人が世間にいるだろうか?

 人間の人格を心からリスペクトする人は、かくも稀だ。

 そして、人の人格をリスペクトする人々は、もちろん動物や植物、すべての生命を友としてリスペクトしている。

 それが、人間の健康な人格のゴールにある姿なのだ。


 そうであるなら、多少は世俗主義や権威主義にまみれているとはいえ、健康な人格を持った人のいかに多いことか。

 素朴な打算からは決して生じない人情が世間にはあふれていて、人の人情やモラルにおいて日本は決して劣った国ではない。

 健康な優れた人格の分布と社会的な地位の分布について、正の相関は何ら期待できないほど公正の疲弊しきった社会だが、末端に人情を見かけることは難しくない。

 社会がすでにディストピアだとしても、健康な人格を持って健康な人格と関わり、世界の片隅で人生をまっとうするなら、それ以上の人生はない。地位や名誉、ひいては世俗的な幸福なるものに、一方的な価値があるわけではないし、何の価値もないとすら見なせる。


 世俗的な幸福のためには、逆境に生まれて得られるメリットは一つもない。

 しかし、健康な人格に到達するためには、逆境はときに示唆や教えを含んでいる。

 そして義を知り、義と一体になる者は、不公正な時代に虐げられる弱者をリスペクトして世俗的権威に対立し、いかなる学識も武力をも恐れることがない。

 権力におもねって弱者を虐げる人生と、どちらを選ぶべきか? 事実を目撃する知力には選択肢などない。知と愛は同じものの別の名だからだ。

 そこに真の貧富がある。かつてナザレという町のイエスという男が教えた道だ。


 毒親とは単に、発達障害が親になっただけだ。

 毒親の子が味わう山ほどの苦労に、日本社会が強いているのは自己責任論だけだ。

 つまり親であれ世間であれ馬鹿は邪悪で、それは絶対に変えられない。

 しかし、人間から発達障害を減算したところにあるのは無限大の強さだ。

 健康な人格こそ、自己を自己に制約せず拡張できる豊かさだからだ。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  こんにちは。読みました。難解な文章で、どういう内容なのかよく吟味しないことには読めない文章だと思いましたが、とても頷ける内容だったように思えます。自分は発達障害を抱えた親という存在をあま…
2023/04/08 15:45 退会済み
管理
[良い点] いつになく分かりやすかったところ。 今までの鈴木さんの文を足し合わせて、 均した感じ(いまいち上手く言えないです)、 ちょっと毒もあるけど、これは王道と思いました。 うちの毒親は発達障害…
2023/04/03 17:09 退会済み
管理
[一言]  米国で起きたプラシーボを含めた抗精神病薬の多量投薬による弊害から医学界の製薬利権の問題が明るみになり、製薬利権に創り出された精神病名を創設する仕組みもとりだたされ、イタリアでは精神病に絡む…
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