トカゲのロードノベル
「コルデリア!」
「イヲ!」
さらさらとした、長い黒髪の少女が駆けてくる。イヲは、学園生活における、わたしの唯一の友人だ。
「卒業パーティー、一緒に出ようって約束したじゃない! それなのに、待ち合わせの場所に来ないなんて、ひどいわ!」
「ごめん。ごめんね、イヲ……」
イヲとの待ち合わせの場所に行こうとしたら、ジュリアンに捕まってしまったのだ。そして、婚約破棄を突き付けられて……。
「それに、謝恩会にも出ないでさっさと帰っちゃうなんて! 私に一言の断りもなく! ひどいじゃない!」
あの時わたしは、動転していた。だって、ジュリアンをカエルにしてしまったんだもん。きっと先生に怒られる……。そう思ったから、取る物もとりあえず、学園から逃げだしたのだわ。
「もうっ! 許さないんだから」
言いながら、イヲは、私の肩の辺りをどん、と小突いた。結構な本気の力だった。
「痛っ! イヲ、相変わらずの馬鹿力ね!」
「だって、知らない人ばかりで寂しかったんだもん!」
「卒業パーティーにいたのは、全員、同級生だったわけだけれどね!」
イヲは再びわたしを小突き、痛かったけど、ぷんぷんと怒る様子が、あんまり突拍子もなくてかわいかったので、つい、笑ってしまった。つられて、イヲも笑いだした。
ひとしきり二人で笑い転げた後、イヲは言った。
「母国へ帰る途中なのよ。学園を卒業したから、もう、寮にはいられないしね。いたくもないわ。コルデリア、あなたはいなくなってしまうし。そしたら、あなたなら、モランシーへ帰ったと聞いたの。だから、立ち寄ってみたの」
わたしより頭ひとつ背の低いイヲは、そう言って、なぜか胸を張った。
「ええと、イヲ。知ってる? ジュリアンが……」
もぞもぞと言いかけたわたしを、イヲは途中で遮った。
「知ってるわ。カエルになったんでしょ? あなたの魔法で」
イヲは、わたしの目の前に右手の親指を突き出し、ぐい、と立ててみせた。
「グッジョブ!」
学園での生活は、引き籠り体質のわたしには、正直、きつかった。自由時間には、部屋で本を読んでいたいのに、しょっちゅう、お散歩やお茶会に誘われる。その都度、おしゃれしてお出かけしなければならない。もちろん、一度着たドレスで出かけるなんて、もってのほか。
他国の令嬢たちは、それはもう、おきれいで、衣装や装身具にもお金を掛けていた。一方、わたしは、着替えるのがすごーくしんどかった。脱ぐのは寒いし、着ると暑いし、その上、ボタンやリボンを、嵌めたり結んだりするのが、死ぬほどめんどうだった。
それは、イヲも同じだったはず……。
だから、わたしたちは仲良くなれた。お互い、身を飾ることにまるで無関心だったから。だって、そんなことにかまけるには、時間があまりにもったいない……。つまり、タイムパフォーマンスが悪いってやつよ!
あ、もちろん、清潔については、充分、心掛けていましたことよ?
わたしは本が好きだ。他の令嬢たちとおしゃれや男子生徒の話をして過ごすくらいなら(いったい何が楽しいのだろう)、図書館に籠って本を読んでいる方が、よっぽど幸せだ。
社交的な人が集まるこの学園に、まさかいるとは思わなかったが、わたしは図書館で同類を見つけた。何よりも本を愛し、大切にしている人。本の虫ともいう。それが、イヲだった。
ある日、わたしが図書館に行くと、文学の書架に、見慣れない本があった。この棚の本は、全て読破していたので、新しく入った本だと、すぐわかった。
複雑に色の混じりあった、少し毛羽だった質感の、きれいな表紙の本だった。タイトルはない。
珍しい本だったので、閲覧室に持ち込み、読み始めた。
すぐに夢中になった。
それは、カナヘビのロードムービーだった。あ、ロードブック? むしろ、ロード絵本ね。絵ばっかりだったから。
一匹のカナヘビが、旅に出るの。途中、悪い子どもに捕まったり、カラスに食べられそうになったりするんだけど、その都度、自ら尻尾を切り取ったり、雑草の密林に紛れ込んで逃げるのよ! それはもう、はらはらどきどきものだったわ!
昼食も食べずに読み続け(もちろん、授業はさぼった)、最後のページに至った時、わたしの頬を静かに涙が伝っていった。
「あっ!」
小さな悲鳴が聞こえた。
「その本! 返してっ!」
学園で、「シューヴェン王女」と呼ばれている少女が、蒼白な顔をして立っていた。本当は王女ではなくて、彼女は、シューヴェン辺境伯の息女だった。ただ、どうしても、自分の名前を教えようとしないのだ。どちらかというと、みんな、彼女に対しては、ちょっと引き気味だった。わたしは、まあ、全ての人に対して引いていたわけだけれど。
「いやよ」
わたしは本を抱きしめた。
「まだ読み終わったばかりなの。もう少し、余韻を楽しむの!」
「読み終わった? 読んだのね? その本、読んじゃったのね!」
凄い剣幕だった。この本には、「鬼」という化け物が出て来て、カナヘビを飲み込もうとするんだけど、その「鬼」って、今のシューヴェン王女のような顔だったんじゃないかな。
「それは私の本なの。返して! 返してよ!」
子どものように駄々をこねるから、わたしはむっとした。
「本はみんなの物よ!」
「違う! 私の!」
本に手を掛け、無理矢理奪い返そうとする。
わたしは怖くなった。二人で引っ張り合ったりなんかしたら、本が壊れちゃう! 背からまっぷたつに破れたら、見開きページの、カナヘビが海を渡ってる絵が、台無しじゃない!
「図書館の本!」
言い返したが、シューヴェン王女は本気で引っ張ってくる。本当に本が壊れそうだったから、わたしは手を離した。反動で、彼女はたたらを踏んで、床の上に転んだ。
「傑作を独り占めするなんて、さもしい料簡よ」
転ばせるつもりはなかったの。ただ、本が心配だっただけで。だから助け起こそうと、手を差し伸べ、でもやっぱり本を奪われたことが悔しくて、わたしは言ってやった。
「けっさく?」
ぼんやりとシューヴェン王女が繰り返す。それから、自分の言葉にはっとしたように、床の上から私の目を見返してきた。
「その本よ」
わたしは、彼女の手の中の本を目線で指し示した。シューヴェン王女の顔が赤らんだ。
「これは、私の本なの」
胸に本を抱きしめ、同じことを繰り返すから、わたしは呆れた。
「強情ねえ。それは図書館の本よ」
「でも、私のなの」
「それに欲張りだわ。みんなの本でしょ?」
「……私が描いたの」
「えっ!」
図書館の、高い窓から、赤い夕陽が、斜めに差し込んでいた。朝から夢中で読み進めるうちに、いつの間にか、夕方になっていた。
「すごーい!」
本気で褒めたのに、シューヴェン王女は傷ついたような顔になった。
「みんなそう言う。でも、上辺だけなのよ。あなたはもっと、人の気持ちがわかる人だと思ったわ」
彼女は泣きそうだ。わたしはびっくりした。
「え? なぜ? わたしは本気で言ったのよ。だってわたし、時間の経つのも忘れてたもん」
その代償として、翌週いっぱい、休み時間を取り上げられるのだが……。
「うそ」
「嘘じゃないわ。つか、まずいわ。数学の課題を提出するのを忘れてた。なんてことかしら、ゆうべ、徹夜で仕上げたというのに!」
「徹夜で数学をやって、今日、私の本を読んだの?」
「ええ! 誓って言うけど、居眠りなんか、これっぽちもしなかったわ! 本を見てよ! 涎の跡なんかないでしょ?」
「本当だ……」
本をひねくり回して、シューヴェン女王は言った。どうやらわたしの言葉を信じてくれたようだ。彼女は真っすぐに私を見つめ、思い切ったように続けた。
「私が書いて、私が印刷したの。学園のプリンターでね! それから、糸と針で綴じて。表紙も私がつけたの。表紙の紙を漉いたのも、私なの!」
「す、すごい……」
心底、感心した。だって、紙まで漉いちゃうって、すごくない?
「私が創った、私の本よ」
彼女はとても、誇らしげだった。
「ねえ。でもなんでその本、図書館の棚にあったの?」
わたし尋ねると、ぱっと頬を赤らめた。
「せめて、一人前の本として扱ってもらいたかったから」
「?」
意味不明だった。わたしがきょとんとしていると、嵐のような勢いで、シューヴェン王女が並べ立てた。
「他の本と並べてあげたかったの。本物の小説家や作家さんの書いた本と! そして、たくさんの人の目につく場所におきたかったの!」
わたしは呆れた。
「そんなことしなくても、読んでもらえるわよ」
「どうやって?」
さっきまでの勢いが嘘のように、しゅんとして尋ねてきた。彼女は、途方に暮れているようだ。だから、わたしは教えてあげた。
「普通に人に勧めればいいのよ」
「そんなことしたって、無駄よ。絶対、読んでもらえないから」
「わたしが読んだじゃないの。感動しちゃった。カナヘビ、かわいい……」
「うそ……」
「うそじゃないから」
シューヴェン王女の顔が、再び真っ赤になった。それから、急に蒼白になり、また、赤くなった。すごい七変化だ。シューヴェンの人って、みんなこうなのかしら。それとも病気? まさかね。
「私の本、他にもあるの!」
勢い込んでシューヴェン王女が言う。
「読ませて!」
思わず口からこぼれた。誤解のないよう言っておくけど、公爵令嬢たるもの、滅多なことで、人にあれこれ強要したり、せがんだりはしないものよ。でも、これは特別。だって、どうしても読みたかったんだもん。
「……ありがとう」
うつむき、シューヴェン王女がぼそぼそと礼を言った。わたしはびっくりした。
「なぜあなたがわたしにお礼を言うの?」
「だって、初めての読者だから」
そういう彼女の顔は、トマトのように真っ赤だった。
「わあい!」
しゃがみ込み、わたしは彼女の両手を引っ張った。
「シューヴェン王女。忘れないでね! わたしが、ファン1号よ」
「イヲっていうの」
周囲を見回し、小さな声で、彼女は告げた。
「私の名前は、イヲ」
わたしの手を借りて立ち上がりながら、シューヴェン女王は言った。それから、驚くべきことを付け加えた。
「シューヴェンでは、女性は、家族と許嫁以外には名前を教えないの」
「困ったわ」
わたしは、途方に暮れた。
「ごめんね。わたし、あなたの許嫁にはなれないと思うの……」
だってその時はまだ、ジュリアンと婚約していたしぃ。
イヲは笑い出した。すぐにまじめな顔になって言った。
「許嫁以上の存在だわ! 作家にとって、読者は、ね!」