歓待 1
「本当に良かったのかい?」
膝の上の水槽から声がする。
わたしは馬車に乗り、ジュリアンの入った水槽を、膝に乗せていた。
修道院には入らないことになったので、もう、頓宮に滞在することはできない。といって、他に行く当てもない。仕方がないから、父の城に戻ることになったのだ。
「修道院に入ることは、君のライフプランだったのでは?」
「それは言い過ぎよ」
馬車は水辺の道を、長いこと、がたがたと走っていた。レメニー河とは、もうすぐお別れだ。
「わたしはただ、修道院で骨休めしたかっただけなの」
「僕は、君の休暇を取り上げてしまったんだろうか」
「そんなことないわ。正直言うとね」
膝の水槽に向けて、わたしはくすりと笑った。
「禊の型や、祝詞を覚えるので忙しくて。あれじゃ、修道院へ入っても、ろくに休めなかったと思うわ」
「コルデリア……。君は、なんて優しい……」
本当のことを言ってるだけなのにね。もしかして、本当のことを言えば、人はわたしのことを、優しい公女だと、誤解してくれるのだろうか。
考えているうちに、わたしはジュリアンの身が心配になってきた。
「ジュリアン。あなた、ダマされやすいのと違う?」
「そ、そんなことはないと思う」
ジュリアンは、水槽の縁ぎりぎりまで登ってきた。ガラスの天井に頭をぶつけ、クエッと鳴いた。
「でも、エリザベーヌには騙されたかも」
「彼女は、あなたを騙すつもりなんかなかったと思うわ」
即座に私は答えた。
エリザベーヌは、魚類両生類爬虫類が大嫌いなのだ。全く気がしれないことだけど。これは、学園にいた頃、イヲが教えてくれた。
……「エリザベーヌの上靴に、トカゲを入れておいたらどう?」
真剣な顔で、イヲは勧めてきたものだ。
その案は、いかにも悪役令嬢らしくて素敵だったけど、わたしは採用しなかったわ。だって、エリザベーヌに踏まれたら、トカゲがかわいそうじゃない? そうじゃなくても彼女、巨乳だし。爆乳の分、体重だって重いわけだし? あら、僻んでいるわけじゃ、ございませんことよ?
話がそれたわ。それが何の役に立つかわからないけど、知らないようだから、ジュリアンに教えてあげた。
「エリザベーヌは、魚類両生類爬虫類が生理的にダメなの。ジュリアンが嫌いなんじゃなくて」
「コルデリア! さんざん傷つけられ、悪口を言われていたのに、君はなんて思いやりが深いんだ! 君こそが、天使だ!」
わたしが天使かどうかはさておき、えと、やっぱりわたし、陰口叩かれていたのね? 前にイヲがそんなことを言っていたけど。
全然気がつかなかったわ!
そういえば、在学中、わたしが近づくと、さっとその場を離れる人がいたり、遠くからわたしのことを見て、くすくす笑ったりしていた集団があって、気になっていたの。あれは、わたしの服装がおかしかったわけではないのね? 良かったわ。もしかして、スカートの裾がパンツのゴムに挟まっていたのかしらと、すごく心配だったの。トイレの後とかに、たまにやっちゃうのよね! すごく恥ずかしいわ!
再び水槽のてっぺんまでよじ登ってきたジュリアンが、馬車が揺れた拍子に、また、硝子の蓋に頭をぶつけた。
「あら、ジュリアン、大丈夫?」
「へーき」
涙目になって、ジュリアンは答えた。
わたしと一緒に城へやってきたジュリアンを見て、父は大喜びだった。
「おお! こんなみすぼらしい城に、ロタリンギアの次期国王が! 光栄です! 何もない所ですが、ささ、どうぞ」
カエルのジュリアンをひょいと摘まみ上げ、絹のクッションを山積みにしたソファーに乗せた。
「お言葉ですが、モランシー公爵。僕は、王太子を廃嫡された身です。国王の座は、弟が継ぐことになるでしょう」
丁寧に言いながら、ジュリアンは、柔らかいクッションに埋没しそうになって、じたばたしている。
「なにをおっしゃる!」
父は、芯から意外そうだった。
「ジュリアン殿下におかれましては、間もなく、人間の姿にお戻りになります。ゆえに、問題なく、ロタリンギア王に即位されるはずです」
「それは、どういう……」
力尽き、クッションの底に沈みつつ、ジュリアンが尋ねた。窒息しかかっている。慌ててわたしは、彼を掬い上げた。
そんなわたしを、父が、ぎろりと睨む。
「そこにいたか、コルデリア。詳細は、尼僧長から聞いた。お前は、神に拒絶されたとか」
「拒絶したのは、こっちですわ」
カエルが嫌いな神様なんて。
「正直言うと、儂も、神のやり口には、気に入らないことがある」
不満そうに父は口を尖らせた。
「まあ! お父様が非難されたのは、いったいどのペットですの?」
父が飼っているのは、ドーベルマンとワニだ。ワニは毛がないから、ひょっとして……。
「お前だ」
「はい?」
「正確には、ペットではないが。また、可愛がろうという気も、全くおきないがな! そのお前のおかげで、この先、公爵家の嫁き遅れの令嬢たちの収容先がなくなったらと思うと、心配で夜も眠れんわい」
苦悩の滲んだ父の顔を見ているうちに、気の毒になってきた。慰めてあげなくちゃ。
「大丈夫ですわ、お父様。フェーリアはまだ追い出されていませんし、下の3人の妹たちは要領がいいですから、きっとうまくやります」
「フェーリアはともかく、妹たちを嫁き遅れになぞするものか!」
父は憤激した。
「それに、神と儂の確執の原因は、ペットや娘ではない! 儂が気に入らないのは、神が、儂とは別に、税を課すことだ。おかげで税率が上がって、領民どもから苦情が殺到じゃ!」
膝の上に乗せたジュリアンが、もぞもぞと居心地悪そうに動いた。
「だが、嘆くことはないぞ、コルデリア」
打って変わり、慈愛深げに、父はわたしを見下ろした。正確には、わたしの膝の上のカエルを。
「どうぞ」
にっこり笑って、父は言った。
「はい?」
膝の上で、カエルが首を傾げた。かわいい。もう、食べちゃいたいくらい。
「ですから、どうぞ」
「何をですか?」
「コルデリアを差し上げます」
ケロッ、と鳴こうとして、ジュリアンが息を詰まらせた。驚いたのは、わたしも同じだ。
「ちょっと、お父様! 何を言うの! わたしは婚約破棄されたのよ!」
「ごめん、ごめんよ、コルデリア……」
「謝ることなんかありませんよ、ジュリアン殿下」
ジュリアンはわたしに謝ったのに、父が応じた。
「婚約は、破棄されてはおりませぬ。それでよろしいですね?」
「だってお父様。卒業パーティーの時……、」
「お前は黙ってろ、コルデリア! 呪文を間違えたくせに」
それを言われると、一言もない。
膝の上で、ジュリアンが、ぴょんと跳ねた。
「モランシー公爵は、いいのですか? こんな……僕のように不誠実な男に。大切な令嬢を」
「コルデリアは別に大切ではありませんがね。下の妹たちは、そうでもありませんが。それにあなたは、不実ではありません。自分に正直に生きようとしただけです。ジュリアン殿下。あなたの気持ちはよくわかります。無理もないことです。なにせ、わが娘ながら、コルデリアは、こんなんですからね」
今、微妙にディスられた気が……。
「しかし、僕はエリザベーヌに現を抜かし、コルデリアを……捨て……ま……した」
とぎれとぎれに言う。とても苦しそうだ。
父は、莞爾と笑った。
「あなたは男爵令嬢にダマされただけです。全く、悪い女がいるものだ!」
「……はあ」
わたしの膝の上のジュリアンを、父は、慈愛深げな眼差しで見つめている。
「今のあなたのお気持ち、しかと受け止めましたぞ」
今のジュリアンの気持ち? つか、なぜお父様が受け止めるの?
微笑みつつ、父は続けた。
「よろしければ、今夜にでも。いや、なんなら、今からでも構いません。さっそくメイドに褥の準備をさせます。さすればあなたは、すぐに元のお姿に戻ります。ロタリンギアの次の王位は、あなたのものですぞ、ジュリアン殿下」
今夜にでも?
褥?
元の姿に戻る!?
ジュリアンを膝に乗せたまま、ぽかんと口を開けているわたしを、父は指さした。
「ほら。今でもコルデリアは、昔と変わらず、あなた様のことを、慕っておりまする」