なにがあっても
その後、私たちは西へ向かった。
向かったというよりは、私の歩いた方向がたまたま西だったらしい。玉田さんが教えてくれた。不満顔で。
「麗しの我が家から遠ざかっちゃうなぁ」
そんなことを言ってきたので、私はついムッとした。
「だったら帰れば? 誰も止めないから」
「いや、いま帰ったら職務放棄になっちゃうしさ」
「とっくに放棄してるでしょ」
「まあね」
彼はひとりで大荷物を背負っていた。段ボールをビニール紐でガチガチに縛ったものだ。中身は水と食料。
私は腕を怪我しているからムリできないし、イトたんは重いものは持ちたくないという。それで玉田さんが持つことになった。
イトたんは気楽なものだ。ラジオで音楽をかけている。
「こっち行くとなにがあるの?」
何度も同じことを聞いてくる。
アテなんかないと百回は説明したのに。
「世界の果てよ」
「はぁ? 地球って丸いんだけど?」
「そう。あなた見たの? 証明できる?」
「えっ? いや常識でしょ! ストーカーおじさん、なんか言ってやってよ!」
すると玉田さんは、ここぞとばかりに得意顔を見せた。
「前方にエベレストが見えるかな? いいや、答えはノーだな。なぜなら、それは地平線の向こう側に沈んでいるからだ。海に出た船も、あるところで海の向こう側へ沈んでゆく。逆に俺たちが船に乗った場合、遠ざかる陸地が海に沈むように見える。そして近づいた場合、海からせり上がってくる。なぜなら球体だからだ。以上、ご理解いただけたかな?」
本当に鬱陶しい。
この男は、こんなことをいちいち調べて、なにか人生のプラスにできたんだろうか。年下の女相手にマジレスして勝ち誇る以外に。
私はふんと鼻を鳴らした。
「ご立派ね。きっとあなたのママも鼻が高いと思うわ」
「まあそうだろうな。俺が優秀過ぎて、いろんな仕事を勧めてきやがったくらいだ」
「この仕事も勧めてもらったの?」
「それは張り紙で見かけたんだ」
すると間にイトたんが入ってきた。
「あたしも混ぜて!」
「ちょっと痛いでしょ。押さないでよ」
「ごめんごめん。でも小粋な会話しちゃってさ。あたしにもなんか言わせてよ」
「言ったら?」
「んー」
ぶちゃむくれたネコみたいな顔。
愛敬がある。
きっとこの子は、誰とでも友達になれてしまうんだろう。
ふと、ラジオの音が不安定になった。
電波の届かない場所へ来てしまったのだろうか。イトたんは故障したと思ったらしく、ラジオを上下に振っていた。
玉田さんは振り返って、ひしゃげた東京タワーを見つめていた。
「えー、壊れちゃったの? マジ最悪なんだけど」
私も人のことは言えないけれど、イトたんもラジオの仕組みをよく分かっていなかったみたいだ。
「壊れてない。電波が届いてないだけよ」
「え、そんなことある? ここ東京だよ?」
「ちゃんとした設備がないんでしょ、きっと」
「そんなこと分かるの? すごくない? あ、もしかしてリケジョ?」
「えっ?」
「理系ってこと」
「知らない。私、学校とかほとんど行ってないから」
「またまたぁ」
そういえばなにも説明してなかった。
言っても理解してくれるかどうか。
歩いても歩いても瓦礫。
東京タワーから遠ざかっている感じがしない。
ここは新宿あたりだろうか。それとももっと西だろうか……。なにも分からない。
「あ、アレじゃないですか?」
「あん?」
声がした。
路地裏から出てきたのは、ガラの悪いサングラスの男と、子分らしき栗色の髪の少年。
どちらもスーツ姿だ。
また組織の下っ端だろうか。
けれどもサングラスのほうは、下っ端というには貫禄がありすぎた。背が高く、威圧感も凄い。というか額の血管が凄い。
「お前がエルか?」
「人違いよ」
近づけば切り裂くことができる。なのにサングラス男は距離を保ったまま近づいてこない。もしかすると、私の能力を把握しているのかもしれない。
タァンと音がして、土がえぐれた。
サングラス男が発砲したのだ。
「動くな。おい、ヤス。この女で間違いないな?」
「はい! 写真と同じ顔です! あ、でも弟のほうかも……」
「バカ野郎。弟は現場で死んでたろうがよ。こいつは姉のエルだ」
「はい!」
ただの下っ端じゃないのかもしれない。
遠距離だとこちらが不利。
大きく空間を切り裂けば、理論上は銃弾を逸らすことができる。ただし、タイミングが合わなかったら失敗する。しかも仲間の身は守れない。
これだから一人でいたかったのに……。
玉田さんが、揉み手をしながら卑屈な態度を見せた。
「いやぁ、急にそんな……ねぇ? 鉄砲とか出されても……。この子、人違いだって言ってるわけですから」
サングラス男の血管が太くなった。
「お前は何モンだ? こいつの脱出を手引きした協力者か?」
「えっ? いや、ただのファンですよ。おっかけっていうか。まあストーカー扱いされてますけどね。へへへ……」
相手を油断させる作戦だろうか。
それとも自分だけ助かろうというのか。
まあカッコつけて命を落とすよりはいい。バカはかばいきれない。
「ち、違うんです!」
イトたんが急に震えた声を出した。
「あ、あたし、たまたま行く方向が一緒だっただけで……」
「あん? そもそも、なんなんだよその格好……」
男が困惑気味にサングラスを押しあげた。
「これ? ひ、拾ったんです! ほかに着替えがなくて」
「そうか。じゃあ行け。だがそっちの男。お前は残れよ。不審な点がある」
男にうながされ、イトたんはコソコソとどこかへ行ってしまった。
いまの標的は玉田さんだ。
「え、俺? 不審ですか? いや、まあよく怪しまれますけど、特になんもありませんよ?」
「おい、ヤス。こいつの身体検査をしろ。武器を持ってるかもしれねぇ」
するとヤスは「はい!」と近づいてきた。
子分は射程距離に入った。
けれども、サングラス男は射程圏外のままだ。
いま下っ端に手を出せば、サングラスの男に撃たれる。かといって黙ってみていたら、玉田さんが銃を所持していることがバレる。
もし玉田さんがヤスを撃ってくれたら、私も距離を詰めてサングラス男に専念できる。たぶん。でも隙がない。
「あぐあッ」
サングラスの男がいきなり声をあげた。
一人でのけぞっている。背中に石でも当たったのだろうか。しかし体が大きすぎて、後ろに手が回らないようだった。
かと思うと、パァン、パァンと銃声がして、サングラス男がのたのた後退した。玉田さんが撃ったのだ。
私はサングラス男を殺すつもりでいたから、予定が狂ってしまった。
ヤスはしばし固まっていたが、私と目が合った瞬間、猛スピードで逃げ出してしまった。とんでもない速さだ。玉田さんが発砲したが、当たらなかった。
呆然と背を見送るしかなかった。
いや、終わっていなかった。
まだ息絶えていなかったサングラス男が、震える手で銃を持ち上げ、こちらに狙いを定めていたのだ。
撃たれるかもしれない。
前回の恐怖がフラッシュバックした。
いま空間を切り裂けば、私だけは弾丸を避けることはできる。もし玉田さんを守ろうと思ったら、もっと大きく切り裂かなければならない。そんなに大きく開いたら、あの怪物が出てきてしまうかもしれない。
私は激痛に襲われるのを諦めて、身をちぢこめた。いまから判断しても遅い。
ゴッと鈍い音がした。
それだけ。
いつまで経っても痛みはこなかった。
玉田さんも撃たれてはいない。
見ると、サングラス男の顔面にコンクリ片が乗っていた。やったのはイトたんだ。
「ちょっと待ってよ! あたし、人殺しちゃったかも!」
青ざめている。
一人で逃げればよかったものを、わざわざ助けに来てくれたのだ。おかげで私たちは命拾いした。
「伊藤さん、ありがとう。助かっちゃった」
「ホ、ホント? あたし、悪いことしてない?」
「してないよ。感謝してる」
「最初ね、手裏剣投げたの! でも死ななくて、どうしようって思って!」
手裏剣?
ただのコスプレではなかったの……。
おじさんは「ひー」と情けない声を出して、どっと腰をおろしてしまった。
「死ぬかと思ったぜ」
「おじさんもお疲れさま。死ななくてよかったね」
「ホントだぜ。けど、片っぽ逃げられちまったな。組織に状況がバレるのも時間の問題だ」
「あとで作戦考えたほうがいいかも」
「そうだな……んっ?」
おじさんは僕の顔を二度見、三度見した。
「どうしたの? 僕の顔になにかついてる? もしかして好きになっちゃった?」
「あんた、弟のほうか?」
「えぇっ? なに言ってるの? 最初会ったときそう言ったでしょ?」
もう忘れちゃったんだろうか。
顔が姉さんと似てるのは否定しないけど。
おじさんと伊藤さんは顔を見合わせている。
僕、なにか変なことを言ったかな。
*
僕たちは歩きながら、反省会をした。
特におじさんが必死だった。
「いいか。組織の連中は、必ず報復に来る。今度はきっと少人数じゃないぜ。専門のチームで来る。俺たちも、あらかじめ作業を分担しておいたほうがいい」
「さっきのサングラスの人、僕が倒すはずだった」
「そりゃムチャだ。かなり距離があったろ」
「でも一気に走って距離を詰めて……」
「それで間に合うか? あいつ、かなりの手練れだったぞ」
「じゃあどうすればよかったの?」
「……」
僕のこと信用してないんだ。
姉さんと違って、走るのは得意なのに。
伊藤さんが間に入ってきた。
「ねえ、急にどうしたの? なんで僕? もしかして壁ドンする気になった?」
「えっ?」
「だってキャラチェンしたでしょ? イケメンになる覚悟ができたんじゃないの?」
「なんなの急に。やめてよそういうの。ワケ分かんないから」
「ワケ分かんないのこっちなんだけど……」
するとおじさんが「あとで話すから」と伊藤さんをたしなめた。
あとでなにを話すつもりなんだろうか。
もし僕の悪口を言うんだとしたら哀しいな。でもおじさんはそんな人じゃないはず。きっと大事な話なんだと思う。
おじさんは少し気まずそうな顔で、僕のほうに向き直った。
「あー、さっきは感情的になって悪かったよ。あとでどこかに落ち着いたら、あらためて今後の対策を話し合おう。みんなで知恵を出し合えば、きっとなにか答えが見つかるはずだ」
「うん」
なんだか学校の先生みたい。
先生って呼んじゃいそう。
おじさん、びっくりするかな。
意見が合わないこともあるけれど、いつも僕の気持ちを大事にしてくれる。本当は僕も謝ったほうがいいんだろうけど。
「ね、おじさん。荷物重そう。僕がちょっと持つよ」
「えっ? いやいいよ。まだ腕も治ってないしさ……」
「でも僕、男なんだし。全部任せるわけにはいかないよ」
「いや、いいんだ。ホントに。じつは俺、荷物を持つのが趣味でな」
「ふぅん」
もしかして全部自分で食べるつもりだったりして。
僕はウサギに語りかけた。
「姉さん、僕ってそんなに頼りないかな?」
「……」
なんとも言えない顔に見える。
幼いころから、ずっと女の子っぽいと言われてきた。
それなのに、女子から告白されたことがあった。
ウソかホントかは知らないけれど、僕を好きな男子がいたってウワサも聞いた。
人に好かれるのは、素直に嬉しい。でも、なんだか戸惑ってしまう。
姉さんはどうだったんだろう。
僕のこと、あんまり受け入れたくないみたいだった。
僕は仲良くしようと努力してたつもりなのに。
でも、姉さんは僕を嫌ってはいないと思う。
僕がママにいじめられないように、姉さんはわざと嫌われ役になってくれた。だから僕は、なんとかママとうまくやれていたと思う。
髪を短くしたのだって、姉さんに勧められたからだ。そのほうが男の子っぽく見えるからって。
姉さんは、絶対に僕を見捨てたりしない。
なにがあっても。
(続く)