スニーカー
その日も夢を見た。
いつもの広い道路。
でも、いつもの夢じゃなかった。
黒く裂けた空をアイが見つめている。
足元には片耳のウサギ。
そして見知らぬ少女。少年かもしれない。白い布を一枚だけ身にまとった妖精のような存在。
「ごきげんよう、灰田エルザさん」
「誰なの?」
とても柔和な笑み。
雰囲気もほわほわしている。
でも、なんだか作り物みたい。
「私は天より使わされたもの。名前はありません」
「天使ってこと?」
「そのようなものです」
にこにこしている。
それはいいけれど、早く本題に入って欲しい。まさか、人をイライラさせるために天から来たわけでもないでしょうし。
「それで、ご用は?」
「あなたにお願いがあるのです。天が虚無へ放った子を、どうか傷つけないで欲しいのです」
「あの怪物を? 殺したらなにか不都合でもあるの?」
「ええ。天が哀しみます。かわいいペットですから」
「あれは神さまの愛玩動物ってこと?」
「神とでも悪魔とでも、好きにお呼びくださいな。地上の人間はいずれ滅びるでしょう。しかし虚無に取り込まれた子たちは、永遠に生き続けます。天は人を愛している」
愛?
そんなもの、ちっとも感じたことはないけれど。
「滅びるって、いつ?」
「それは人間次第です。千年後か、二千年後か、あるいはもっと先かもしれません」
「怪物を殺したら、あなたは私を殺すのかしら?」
「いいえ」
表情ひとつ変えない。
まったくわけが分からない。
彼女はこう続けた。
「あの虚無には、もともとなにも存在しませんでした。しかしある錬金術師が、興味本位から覗き込み、ついに中へ入り込んでしまったのです。もう二度と出られないのに。天はそれを哀れに思い、虚無へ一匹のワームを放ちました。人間を取り込み、人間として生きるワームです。錬金術師はそのワームと一体化し、いまなお生き続けています」
「理解できない趣味ね。結局は怪物じゃない」
「あなたがどう思おうと結構です。天があの子を愛しているという事実に変わりはないのですから。だからどうか、傷つけないであげてください」
「そう。なにも約束できないけど、いちおう拒絶しないでおいてあげるわ」
たぶんやらない。
あんなにデカいものを殺すのは大変だ。それに、やったところで一円にもならない。誰かが褒めてくれるわけでもない。それどころか天から恨まれる。私のストレス発散以外に、なにもメリットがない。
天使はうなずいた。
「素敵なあなたには、ひとつ祝福を授けましょう」
「祝福?」
寂しい私に、素敵な恋人でもあてがってくれるとでもいうのだろうか。だとしたら余計なお世話だけれど。
「あなたの体に入り込んでいた灰田アイトさんを、天へ召します」
「えっ?」
「じつはあなたは、ただの多重人格者ではありません。ちょっとした事故で、灰田アイトさんの精神を取り込んでしまったのです。私の祝福で、それを分離します」
病気なのかと思ってた。
妙だとは感じていたけれど。
そもそも私には空想癖があった。自称ママにひどく叩かれていたときには、ウサギのぬいぐるみになりきってやり過ごしていた。だから、自分でもそういう傾向があるんじゃないかとは思っていた。それが神がかり的な事故だったとは。
天使はアイに寄り添った。
「さ、灰田アイトさん。お姉さんに最後の挨拶を」
すると空を眺めていたアイは、私へ向き直った。
少し哀しそうな顔。
「ごめんね、姉さん。僕が勝手なことしちゃったから……」
本当に?
本当にアイが私に語りかけているのだろうか?
私が命を奪った弟が……。
「そ、そうよ。全部あなたのせいよ。あなたが世界を壊しちゃうから……」
「僕ね、どうしても外に出たかったんだ。だって、スニーカーだけ手元にあるのに、僕には自由がなかったんだもの。だから姉さんの夢に便乗して、魔法を使っちゃった」
「アイ……」
アイはいつでもスニーカーを大事にしていた。
寝るときも。
勉強のあとも。
時間さえあればスニーカーを眺めていた。
「僕は海が見たかったんだ。そこでイヌと追いかけっこして、太陽を追いかけたかった」
「太陽には届かないわ」
「そうだったね。姉さん、僕を止めてくれてありがとう。世界はこんなことになっちゃったし、姉さんにも迷惑かけちゃったけど……。僕のこと、嫌いにならないでね」
さらっと言ったけど、たぶん、そこを一番気にしているのだろう。
私は溜め息をついた。
「嫌いになるわけないでしょ。あなたは、私の弟なんだから」
「ありがと」
泣きそうな顔して……。
*
目をさました私は、ベッドの中で丸くなって、ウサギを抱きしめて一人で泣いた。
弟を手にかけてから、そのことで涙を流したことは一回もなかったのに。
これで本当にさよならなんだと思うと、やっぱり、どうしても抑えきれなかった。
なにもかもが清算されて……。
アイが大事にしていた新品のスニーカーは、もうボロボロになってしまった。いろいろあった。生きるのに必死だった。
もう恨む気力さえないけれど、この件は、やっぱり大人たちがよくなかった。
救済が実行されると、一人の人間だけが世界に取り残されてしまう。その事実を隠蔽するために、組織はウソの悪魔をでっちあげた。その洗脳が解けないように、私たちは隔離された。
閉じ込められたアイは、外の世界が恋しくなった。
世界は壊れた。
どうしても弟を責める気にはなれなかった。
アイのしたことはよくないことだけれど、そうなるよう仕向けたのは大人たちだ。自分たちが救済されるために、私たちを道具にしていた。その裏では莫大なお金も動いていた。
だから、この事件の火薬庫をつついたのは、大人たち自身だった。
私だって、原因が自分だけにあるのなら、自分を責めたいと思っている。だけど、そうはならなかった。
*
昼、私はひとりで病院を訪れた。
いつぞやとは異なり、周りの人から魔女と呼ばれることはなかった。それどころか「プリンセスだ」と称賛の眼差しまで向けられる始末。
大人というのは現金なものだ。
「足の具合はどう?」
玉田さんは、疲れ切った顔でベッドに横たわっていた。
「たいしたことない。すぐ退院できる」
「昨日は大変だったわね、婚約者の……」
「見てたのか」
彼は照れくさそうに笑った。
白石さんの愛は重すぎる気がする。私がこうして親しげに話していたら、後ろから刺されるかもしれない。
まあそんなことは言わないけれど。
「ところで、ちゃんと食べてるか? 少し痩せたように見えるが」
「いろいろあって大変だったの。例の組織に捕まって殺されそうになって、そのあとメトロ帝国に捕まって……」
「メトロね……。中にも入ったのか?」
「少しだけ。玉田さんも知ってるの?」
「まあな。いまみたいなデカい組織になる前だ。旧友がひとり参加してた。あの国が、軍隊の真似事を始める前後だったかな」
ニートなのにお顔の広いこと。
私はたわむれに尋ねた。
「なんて人?」
「佐伯健一。電車好きで、地下鉄の駅員をやってた男だ。まあ言っても分からんだろう。あいつ、上層部が過激化するのを悩んでる様子だったな」
私が殺した少佐と同じ名字。
「過激化って?」
「帝国主義を採用したこともそうなんだが、内部でもな……。市民をランク分けして、階級を意識させていたらしい。『争奪戦』と称して、市民同士を争わせたりな。鋭いガラス片を、素手で拾わせるんだぜ」
「なんでそんなことするの?」
「愚かな人間を罰するためさ。欲に目がくらんだ人間は、みずからの意思で手を傷つけることになる。あそこの幹部はエリート意識が高かったんだろう。だから愚かな人間を傷つけずにいられなかった。天罰を代行してる気分だったんだろう」
「その佐伯さんは、悪い制度をなくそうとしてたの?」
私がそう尋ねると、玉田さんは寂しそうに首を振った。
「いいや、その逆だ。頑張って受け入れようとしてた。自分は組織の中で生きる人間だから、組織の体質に早く慣れたい、ってな。ムリする必要なんてねぇのにさ。ま、無職の俺とは根本から考えが違ったんだろう。どっちが正しいのかは分からん。いまごろあいつも出世してるだろうし」
「そうね」
でも、玉田さんの考え方のほうが好きだ。悪いことだと分かっているのに、組織のために自分を変えるなんてバカげてる。
*
イトたんたちとご飯を食べた。
炊き立ての白いご飯。
おかずは、よく煮込まれた大根。
いっそここに定住したいとさえ思う。
以前、空腹で海岸をさまよっていたとき、本当に、あのまま死んでしまうんじゃないかとさえ思った。
風も冷たかった。
理由はどうあれ、マリオネット氏には助けられた。
誰かの気まぐれが、誰かを救うこともあるのだ。
*
数日後、私たちは北を目指した。
今度こそ、魔女の集落へ。
衛星の映像によれば、老女だらけの村らしい。もしかすると、特別なことはなにもない場所なのかもしれない。
それでも、少し覗いてみたかった。
人類の存在理由を、ひとつ見つけられるかもしれない。その逆かもしれないけれど。
「またお団子もらっちゃった」
イトたんははしゃいでいる。
今回も白石さんが醤油団子を焼いてくれた。
きっといい人なんだとは思う。
きちんとお話しできればもっとよかったけれど。
鈴木さんが溜め息をついた。
「で、なんで魔女なの? 世田谷に住めばよかったのに。ご飯だって食べ放題よ?」
「だって気になっちゃったから」
「なによそれ。自分勝手なんだから。その態度を改めない限り、友達だって増えないんだから」
「いいよ。鈴木さんは私の所有物なんだから、私の命令に従って?」
もちろん本心じゃない。
それは彼女も分かってるはず。
「ふーん。そういうこと言うんだ。ま、いいわ。借金肩代わりしてもらったわけだし」
「そうよ。無料だったけどね」
「む、無料? えっ? いやいやいや。五千万は?」
「もちろん踏み倒したわ。脅したらゼロ円にしてくれたの。だから鈴木さんはゼロ円の女よ。どう? 驚いた」
「……」
驚いたというよりは、不服そうな顔になってしまった。
早く挽回しないと。
「あ、でも違うの。悪いのは、鈴木さんに勝手な値段をつけたあいつらだよ。それに、鈴木さんは私のウサギ直してくれたし。もう誰の所有物でもないから。ねっ?」
「なにその雑なフォロー。腹立つわ……」
「怒らないで」
「怒ってはいないけど……。でも無料って……」
本気では怒ってないみたいだけれど、釈然としない顔。
言わないほうがよかったかも。
親しくなると調子に乗ってしまうのは悪いクセだ。直さないと。もう嫌われたくない。
「あ、そのー、もし疲れたら言ってね? ちゃんと休憩時間つくるから」
「うん……」
イトたんからも「仲良くしなさいよねー」と苦情が来た。
反省します。
(続く)




