海が見たくなっちゃった
半径3キロ以内に入ったら殺すと言ってあるのに、おじさんはついてきた。
しかもなにか喋っている。
もしかしたら僕に話しかけているのかもしれない。
「だからまぁ、ちょっと顔出してくれるだけでいいんだよね。イヤだったらすぐ帰ってもらっていいしさ。ここからならそう遠くないよ? ダメ?」
この人は死にたいんだろうか。
僕は足を止めた。
「おじさん、名前は?」
「名前? 玉田次郎だ。次郎だが、次男じゃないぜ。ややこしい話だがな」
「そこまでは聞いてない」
するとおじさんはニヤリと笑みを浮かべた。
「いや、いいんだ。名前を聞いてくれたってことは、少しは話をする気になってくれたってことだよな?」
「そういう勘違いおじさん、嫌いだよ」
「まあそう言うなよ。人に好かれないのは十分理解してるからさ」
「もっと自覚して」
僕はそれだけ言うと、また歩き出した。
人の姿はほとんどない。
建物につぶされた死体がひとつくらい見つかってもいいはずなのに。
日は暮れかけている。
瓦礫に囲まれた駐車場らしきスペースがあったので、僕はそこへ入っていった。
今日はここで休むことにしよう。
「おじさん、僕の言うことなんでも聞くんだよね?」
「そんな約束したおぼえはないが」
「だったら帰って。三秒以内に」
「まあ待てよ。なにか頼みごとか? いちおう言ってみてくれ。応じられるかもしれない」
たぶんおじさんでも役に立つことはある。
僕はコンクリート片に腰をおろした。
「火を起こしてよ。今日はここで寝るからさ」
「お安い御用だ。じつはライターがある」
「タバコ吸う人?」
「いや、あくまで火おこし用だ。こんな時代だからな。以前は百円で買えたのによ。闇市じゃ五千円もするんだぜ」
「闇市? 人がいるの?」
「街に行きゃな。けど、そんな大規模じゃない。ちょっとした学校程度だ。あれが日本の全人口だって言われても信じるぜ、俺はよ」
もうほとんど人は残っていないみたいだ。
おじさんが作業するのを、僕はじっと眺めていた。瓦礫の間に手を突っ込んで、木の板や段ボール、破けた布などを集めてくる。ジャケットは脱いでいるけれど、ワイシャツやズボンが砂まみれになっている。
「よし、こんだけありゃ十分か」
「早くして。暗くなっちゃう」
「まあまあ。あんまし過酷な労働させると過労死しちまうぜ」
「べつにいいけど」
「……」
おじさんは渋い顔をしただけで、特に反論もしてこなかった。
悪い人ではないのかもしれない。
少なくとも最初に会ったあいつらよりはマシだ。ちゃんと人に謝ることもできる。
「僕さ、ずっと地下にいたんだ。だからこの世界がどんなふうに壊れたか知らないの。教えてくれる?」
僕がそう尋ねると、ライターの着火に苦心していたおじさんが顔をしかめた。
「無茶言わないでくれ。そんなこと、俺だって知りたいよ」
「えっ?」
「妙な夢を見たんだ。そんで目が覚めたら世界が滅んでた。生き残ったヤツの誰に聞いても同じ答えが返ってくると思うぜ」
夢――。
そんなの僕は見ていない。
きっと姉さんも、当日の夢は見ていないと思う。
「どんな夢なの?」
「長い行列ができててな。みんな同じ方向に歩いてるんだ。まだこんなにぶっ壊される前の景色だ。道はアスファルトで舗装されてて、歩道橋もあって、信号もあって……。でも自動車は通ってなくてな。だが、俺は途中で気づいたんだ。この夢はなんかおかしいって。そんで母親に、『みんなどこ行くんだ?』って聞いたんだ。そしたら『知らない』って言うからよ。『引き返そうぜ』ってことになって……。目が覚めたら、俺たちは瓦礫の街にいた」
もしそれが事実なら、人が街を壊したのではないということだ。
寝ている間に建物がつぶれたら、中の人間だってつぶれる。なのにこのおじさんは怪我もせず生き延びている。
きっと悪魔がやったのだろう。
なんだかバカバカしいけれど、そう考えるしかない。
火が付いた。
「ねえ、その段ボールは燃やさないの?」
「こいつぁ寝るとき下に敷くんだ。体温ってのは、地面から奪われるモンだからな。あんたのぶんもある」
「上にかぶるぶんは?」
「そこまでは確保できなかった」
もう日は没している。
地平線ギリギリに、濃いオレンジ色の線が残っているだけだ。それ以外は夜。すぐになにも見えなくなってしまう。
僕が少し震えると、おじさんがジャケットを投げてよこした。
「寒いならそれ使ってくれ」
「えぇっ……」
「イヤなら返せよ。俺だって寒いんだ」
「返さない」
寒いといっても凍死するほどじゃない。肌寒いだけ。でも、これからだんだん寒くなるはず。どこかで服を手に入れないといけない。この患者衣は裾が短すぎる。
パチパチと木の焼ける音がした。
たまに風が吹きつけて、火がぼうと音を立てる。
僕は乾パンをかじった。
おじさんはチューブからなにか吸っていた。歯磨き粉でも食べているのだろうか。
「なあ、ホントに来てくんねぇのか?」
「しつこい」
「いや、いいんだけどよ。ただ、組織が雇ったのは俺だけじゃねぇから、別のが来るかもしんねぇしよ……」
「どんな人なの?」
「金に困ってるヤツだ」
彼は自嘲気味に笑った。
お金に困っているからといって全員が悪人というわけじゃないはず。でも、お金のために悪いことをする人はいる。もし悪いヤツが来て、悪いことをしようとしたら、僕は躊躇なく殺すだろう。
「その人形は?」
「姉さんだよ」
「そうか……」
血まみれのウサギ。
姉さんは壊れていた。いきなり笑いだしたり、無反応になったり……。このウサギだけは大事にしていた。なのに、あるとき急に怒りだして、耳をひとつ引きちぎってしまった。理由は分からない。きっとイライラしていたのだろう。慌ててくっつけようとしていたけれど、もう遅かった。とれた耳はママが捨ててしまった。
*
朝日で目をさました。
体が重かった。
というより、僕は段ボールまみれになっていたのだ。おじさんがかぶせたのかもしれない。どけるのも一苦労だ。
おじさんはもう起きていて、火の番をしていた。
「よう、起きたか」
「おはよう」
「おはよう」
スズメが鳴いている。
このチュンチュンという鳴き声もなつかしい。シェルターに閉じ込められた数年間、聞くこともできなかった。
「この段ボール、探してくれたの?」
「ああ。寝苦しそうだったからな」
「僕、なんか言ってた?」
「まあ言ってたが、気にするこたねぇさ。俺はこう見えても文明人なんだ。人のプライヴェートに踏み込むつもりはない」
なんだか偉そうでムカつく。
僕は裾を直して、コンクリート片に腰をおろした。
火があたたかい。
「なんて言ってたか教えて」
「えーと、まあ……なんか、争ってる感じだったな。いや、いいんだ。家族ってのは、必ずしも円満とは限らねぇしな。うん」
「じゃあぜんぶ聞いたんだ……」
「ぜんぶじゃねぇよ。断片的にな。しかもすぐ忘れる。俺の長所は、すぐ忘れることだ。いや、意外とおぼえてることもあるが。忘れるよう努力する。だからなるべく蒸し返さないでくれ。何度も繰り返されると、忘れるのも難しくなる」
「……」
一理あるように聞こえる。
このおじさんは口がうまい。
あまり隙を見せないほうがいいかもしれない。
夢の中で、姉さんやママとケンカしていたのは事実だ。
ママは「なにもかもおしまいだ」「こうなったのはお前たちのせいだ」と僕たちを非難していた。姉さんはただ笑っていた。ママは姉さんを叩いた。僕は止めに入った。
すべてがムダに終わったんだと思った。
世界を救う光の力――。
それだけが僕の存在理由だった。なのに、気づいたときにはもう手遅れだった。何年も地下に監禁されて、最低の生活を送って、それでも頑張って耐えてきたのに。
意味がなかった。
僕の人生は、無意味だ。
世界を救えなかった。
この力は、あとは人を壊すことにしか使えない。
姉さんもママも死んでしまった。組織の大人たちも死んだ。みんな切り裂かれて死んだ。僕がそう望んだからだ。
あのシェルターは、血でいっぱいになった。
人間の体には、たくさんの血が流れている。体に穴が空くと、そこから血が出てくる。姉さんの血も、ママの血も、その他の顔も思い出せないような大人たちの血も、みんな同じ色をしていた。
きっと僕の体にも、同じものが流れている。
だけど、あのドロドロの怪物はどうだろう。怪物の血は、僕たちと違う色をしているかもしれない。実際は切り裂いてみないと分からない。できれば違う色であって欲しい。赤いのはもう見飽きた。
日が高くなってきたので、旅を続けることにした。
おじさんはよく分からない水を飲んでお腹を壊したみたいだ。ちょくちょく「待って」と声をかけてくる。
せっかく浄水ボトルがあるのに……。
でも、薬をあげたから、そのうち落ち着くと思う。こんなことをしてやる義理もないんだけど。
「いやぁ、悪いな。上澄みならイケると思ったんだが」
「よくいままで無事だったね」
「きっと運がよかったんだろうぜ」
「次からは僕のボトルを貸してあげるから」
「恩に着るよ」
もっと心の底から感謝して欲しいところだけど。
しばらく歩いていると、おじさんが声をかけてきた。
「で、どこ目指してんだ?」
「聞かないで」
「なんで? 大事なことだぜ?」
「僕にとっては大事じゃないの。静かにできないなら帰って」
「もっと優しく言ってよ……」
これでもじゅうぶん優しくしているつもりなのに。
それとも、僕が優しいつもりでも、他人から見たら厳しいんだろうか。もしかすると少し体調が崩れてきているのかもしれない。
瓦礫から飛び出してきたネズミが、またすぐ別の瓦礫にもぐってしまった。
カラスにネズミ、虫、そして人間……。そんなのばっかりが視界に入る。かわいいのはウサギだけ。
この世界は、地球にこびりついたかさぶたみたいだ。存在する意味があるのだろうか。
「なあ、ちょっとアレ」
またおじさんが声をかけてきた。
どうしても僕の散歩を邪魔するつもりだろうか。
「今度はなに? つまらないことだったら怒るよ」
「いや、服だよ、服。そこ。雨ざらしだから、だいぶアレなことになっちゃいるが」
たしかに服だ。
建物が上からつぶされる前に、ワゴンだけ店から飛び出して道路に散乱したみたいだ。もちろんぜんぶ汚れている。
僕は近づいて服を見てみた。
いろんなデザイン、いろんな色がある。裾の長さもいろいろ。どれも試着してみたい。
おじさんも覗き込んで、顔をしかめた。
「あーでもこれ女モノだな」
「それでもいまの服よりマシだよ」
「まあ体が細いから入るとは思うが……」
「試着するからあっち向いてて」
「おう……」
男同士でも、体を見られるのは抵抗がある。
ちょっとしたトラウマもあるし。
それがママを殺す理由にもなった。
僕は誰にも触れられたくない。
*
「終わったよ」
僕がそう告げると、おじさんは遠慮がちに向き直った。
「お……おう。まあ似合ってんな……」
「なにそれ? 素直に女みたいだって言ったら? 慣れてるから」
「まあそうだけど。相手が気にすることは、なるべく言わない主義でな」
「まともな大人ぶってるけど、だったら僕が『帰って』って言ったとき、ちゃんと帰って欲しかったな」
「仕事だからさ」
おじさんは視線を泳がせている。
図星を突かれて焦ったのか、それとも僕の格好を直視したくないのかは分からない。
ニットセーターとレギンス。あんまり男がする格好じゃないかもしれない。けど、これしかまともなのがなかったんだから仕方がない。まさかスカートを履くわけにもいかないし。
僕は姉さんと違って髪を短くしている。これで女だと思うほうがどうかしているのだ。
「あ、キャップもあった。これかぶったら男っぽくない? どう?」
「ああ、いい感じだな」
顔が引きつっている。
似合っていないのかもしれない。僕はそれでもキャップをとらなかった。なんだか悔しかった。
「その人形もさ……なんか入れてやる袋とかあったほうがいいんじゃないか? 耳がもげそうだぜ?」
「……」
言われてみると、たしかに耳がぷらぷらしている。最初からぷらぷらだった気もするけれど。もし耳がなくなってしまったら、たぶんウサギではなくなってしまう。
おじさんは瓦礫の下から布切れを引きずり出した。
「ほら、これ。たぶんエコバッグだぜ。どうだ?」
「いまはいいよ。おじさんが持ってて」
「あ、ダメだ。これ穴開いてる」
「じゃあ捨ててよ」
僕は心の中で、このおじさんを、空振りおじさんと命名することにした。
なにをしても空振りだ。
間抜けな顔でずっとエコバッグの穴を覗き込んでいる。そこからなにかが見えるわけでもないのに。
いや、もしかすると彼にとっての「向こう側」が見えているのかもしれない。たぶんそこには僕しかいないと思うけど。
僕はひとつ溜め息をついて、歩き出した
「もう行こう。先は長いよ」
「先? どこだよ?」
「海が見たくなっちゃった」
ただの気まぐれ。
おじさんは笑った。
「だったら逆だぜ。海はあっちだ」
「あっそ」
おじさんの言葉に従うのがイヤだったから、僕はそのまま逆方向へ進んだ。日本は島国なのだから、歩いていたら最後は海につくのだ。
(続く)