バニラ
ぼんやりとしていたら、いつの間にか朝になっていた。
いや、これでも眠っていたのかもしれない。
自分が眠っているのか起きているのかさえ曖昧だった。
頭がぼんやりしているせいだ。
もう「寒い」とか「痛い」とか「おなかすいた」とか個々の感覚を通り越して、まんべんなく衰弱している。
焚き火はとっくに消えている。
イトたんの体温がなかったら凍死していただろう。
浜辺に、煙のあがっているのが見えた。
誰かが火をおこしているらしい。
私はイトたんを起こした。
「なぁに?」
「あそこ。煙がある。誰かいるよ。ご飯もらお?」
「うん」
余裕のある人間なんていない。
だからご飯くださいといって、くれる人なんていないだろう。
それが分かっていて、私は止まれなかった。
地元の漁師だろうか。
男性が五名ほど、火を囲んで魚を焼いていた。
「なんだ姉ちゃん。フラフラじゃねーか」
こんな状況なのに、みんなガッシリしている。きっと魚をたくさん食べているのだろう。
私はなんとか声を絞り出した。
「あの、少し……食べ物を……」
ここまで追い詰められても、まだプライドが邪魔をした。
奪おうと思えばいくらでも奪える。だからお願いなんてしたくない。だけど、それではダメだということを知っている。
男は笑顔を見せた。
「いいぜ」
「ホントに?」
「ああ。けど、タダってわけにはいかねぇなぁ」
ニヤニヤしている。
やっぱりこうなるのか……。
私はいちおう、こう応じた。
「お金はないの」
「じゃあ体で払ってもらうしかないな」
「あの……たとえば?」
「簡単だよ。ヤらしてくれりゃいい。べつに減るもんじゃねーしいいだろ?」
「……」
けれども心はすり減る。
そして戻らない。
そんなことも分からないとは。
ただ、彼らの言い分も理解できなくはない。この魚は、彼らの労働によって得られたものだ。そして私たちは、タダでありつこうとしている。ムシのいい話だ。
「じゃあいらない」
私は断って、その場を通り過ぎた。
イトたんも黙ってついてきてくれた。
男たちは「なんだアレ」などと悪態をついている。けれども、追いかけて乱暴しようとまではしてこない。
このまま別れた方がいい。
*
浜辺を歩いていると、ぎょっとするものに出くわした。
海岸に、折りたたまれた黒のセーラー服があったのだ。上には護身用と思われる刀も置かれていた。
私はイトたんと顔を見合わせた。
この世界で生きる気力をなくして、海に入ってしまったのだろうか。服の感じからすると、きっと中学生だろう。多感な時期だ。
この子も、きっとあのクジラのように、誰にも知られず命を断ったのだろう。
イトたんが手を合わせたので、私もそれにならった。
生きていればいいことあるよ、なんて、無責任に言える気分ではなかったけれど。でも世界がこんなことにならなければ、きっと絶望することもなかったはずだ。
誰であろうとこの世界を壊すべきではなかったのだ。本当に壊してしまったら、傷つく人たちもいる。力の代償は大きい。
「そらわしの服じゃ。とらんでな?」
いきなり海から、素っ裸の少女があがってきた。
オカッパ頭で、痩せこけた体をしている。イトたんよりも背が低い。
「なんじゃオドレら? 人んこと拝みよってからに。まだ死んどらんぞ」
頭をぶんぶんして水を切った。
その冷たい飛沫がこちらへも飛んできた。
「無視すんなや」
返事ができなかった。
彼女は手で体の水を落とすと、ぶるっと震えてから服を拾い上げた。
「のぅ。オドレら、食いモンもっとらんか? ちぃとも魚とれんくての。死んだクジラ食ったら下痢もゲロも止まらんようなるし、さんざんじゃ。このままじゃ、わしゃオダブツじゃけぇ」
「ごめん。なにもないの。私たちも、朝からなにも食べてなくて」
「お互い難儀じゃのぅ」
「あそこの漁師さんからもらえればよかったんだけど……」
「ありゃダメじゃ。人んケツ触りよる。もうちっとでぶった斬るところじゃった」
この子も剣術をやっているのだろうか。
少女が生き延びるには、戦う技術が必要ということなのかもしれない。
*
寒そうにしていたので、焚き火をおこした。
「わしゃ大谷嘉代じゃ。よろしゅうに」
大人になったら美人になりそうな顔だけれど、とにかく目つきの悪い少女だった。
言葉遣いも少し怖い。
怒っているのではないと思うけど。
「ご飯も分けられたらよかったんだけど」
「ええんじゃ。そんなお人好し、いるほうがびっくりじゃけぇ」
それは私も同感だ。
他人に食事を分け与えるなんて……。
でも、もし世界がそうであったら、どんなによかったろう。条件付きではあったけれど、世田谷の人たちはあたたかかったかもしれない。人が人らしくあるためには、やはり文明がなければ。
私は話題を変えた。
「ところで、あのクジラ食べたの?」
「ちぃとだけじゃ。やっぱ生がよくなかったんかのぅ」
「ちゃんと火を通したほうがいいと思う」
「火なんか、こんな簡単につかんわ。そっちの姉さんはすごいの。その道のプロなんか?」
たぶんプロだと思う。
なのにイトたんは曖昧な表情だ。
「プロじゃないよ。ただ得意なだけ」
喋りながらも、ずっと腹を鳴らしている。
あんまり凄そうに見えない。
なのに嘉代ちゃんは、鋭い眼光をさらに鋭くしている。
「いーや、プロじゃな。身のこなしが違う。わしゃ騙されんぞ」
「もー、考えすぎだって! こんなのカッコだけだから!」
「その刀は? どこの流派じゃ?」
「いちおう伊藤流……」
「一刀流か!?」
「違う違う。無関係な伊藤。家が道場だから、名字を名乗ってるだけ。ぜんぜん有名じゃないよ」
「そうか……」
日本には、こんな武士みたいな少女がいっぱいいるんだろうか?
地上のことはよく分からない。
嘉代ちゃんは溜め息をついた。
「じつをいうと、わしも似たようなもんなんじゃ。オジキが道場やっとっての。大谷流なんて名乗っとる。で、大会に出よう思って東京来たら、こんなことになってしもうてのぅ……。電車も止まっとるし、しゃあないけぇ、歩いて帰る途中じゃったんじゃ。ところで正露丸もっとらんか? また下痢が来そうじゃ」
身体能力だけでこの状況を生き延びてきたようだ。
私はリュックから水と薬を分けてあげた。
「正露丸じゃないけど、抗生物質ならあるよ」
「なんでもええ。この借りは必ず返すけぇ」
「気にしないで」
それにしても、海から吹き付けてくる風が冷たすぎる。
南へ来れば寒さもマシになるかと思ったのに、アテは外れたみたいだ。防寒着がないと野宿も厳しい。
食べ物だって、なんとかしないと。
お金があれば買うことができるんだろうか。
どうやって手に入れるんだろう。
やっぱりレストランでアルバイトするしかないのか……。
*
一緒に来たいというので、嘉代ちゃんと三人で砂浜を進んだ。
道路は乗り捨てられた自動車でいっぱい。とても歩けるスペースはない。
だけど、急にひらめいた。
「ねえ、もしかしたら車の中に、食べられるものあるんじゃない?」
「……」
ふたりが目を見開いた。
かと思うと、信じられないスピードで車道のほうへ駆けあがっていった。まだ体力があったんだろうか。それとも燃え尽きる前の花火みたいなものか。
私が追いついたときには、もう瓦礫で窓ガラスを破壊しているところだった。ずいぶんアグレッシブだ。
「カップ麺じゃ!」
買い物帰りの車だろうか。
人の気配はない。
生モノは腐敗するどころかすでに干物になっていたが、包装された保存食は無事だった。
私たちは袋を開けると、かたいまま齧った。なんでもいいからとにかくおなかに入れたかった。噛んでいると甘味が出た。
水も飲んだ。
むかしは蛇口をひねれば水が出た。言えば食事も出てきた。スイッチを入れれば明かりがついた。
なのに、いまは、そのどれもない。
こうして誰かのものをあさらないと生きていけない。
私たちは砂浜へ続く階段に腰をおろし、食後の余韻にひたっていた。
日は高い。
穏やかな波の音。
そしてイトたんの腹の音。嘉代ちゃんのおなかもギュルギュルと鳴っている。
「下痢、まだ止まらない?」
「いや、たぶん平気じゃ。出したらもったいないけぇのぅ」
本当にもったいない。
もっと探さなくっちゃ。
魚が食べたい。
油がのってて、焼きたてであつあつの魚が……。
でも、あのおじさんたちに体を許す気にはなれない。そんなことをするくらいなら、魔法の力で奪ってやる。でも、それもしたくない。
なんとかして自分たちで食べ物を手に入れるのだ。
そうでなければ、これまで忌み嫌って殺してきた連中と同じレベルになってしまう。
*
ぼうっと考え事をしていた私は、いつの間にか道路の真ん中に立っていた。
となりには、裂けた空を見上げるアイ。
地面にはウサギ。
私は衝動を抑えきれず、突発的にウサギの顔面を蹴りつけた。ぬいぐるみがアスファルトの上を転がってゆく。
「ひどいよエルちゃん!」
「あなたがムカつく顔してるからよ。それより、いくつか質問があるの」
「教えなぁい」
ウサギはわちゃわちゃしながら起き上がった。頭が重たそうだ。
私は蹴り飛ばしたいのを我慢しつつ、こう尋ねた。
「どういうつもり? あなたは私に寄生してるオマケみたいなものなんだから、質問に答える義務があるでしょ?」
「ないよ。だって私、エルちゃんのこと嫌いだもん」
「私も嫌いよ」
「じゃ、もうお話はおしまいだね。そのまま永遠に混乱してて」
「……」
混乱してる?
そう。
私はずっと混乱している。
このウサギは、私の知らないことまで知っている。正確には、私が思い出したくなくて封印した記憶を持っている。
「ウサギ、私はあなたのご主人サマよ? 命令に従いなさい」
するとウサギは、振り子のように左右に揺れた。
「えー? なにそれー? ご主人サマなの? お友達じゃなかった?」
「勘違いしないで。あなたみたいな綿のかたまりが、私の友達になれるわけないでしょ?」
「でもエルちゃん、毎日泣きながら私に言ってたよね? あなただけが友達なの、私のこと嫌いにならないでー、って」
「やめてよ……」
余計なことを言うものだから、当時の記憶が急によみがえってきた。
私は「ママ」にお願いして、このぬいぐるみをプレゼントしてもらった。
飛び跳ねるほど嬉しかった。
毎晩ベッドで一緒に寝た。あのときは、すべてが満たされた気がした。ほかになにもいらないんだと思った。
ウサギは黒い目で、じっとこちらを見つめていた。
「私の名前、思い出せたら質問に答えてあげる」
「名前……」
「まさか忘れてないよね? だって、たったひとりの友達だもんね?」
「……」
どうしても思い出せなかった。
色は白い。だからシロかもしれない。ユキかもしれない。ウサコか。ピョンちゃんか。どれも違う気がする。
ウサギはキャハキャハ笑っている。
「苦しんでる苦しんでる! たーのしー! もっと苦しんで! 私、あなたが苦しんでるのもっと見たいの!」
ひどいセリフだ。
けど、思い出した。
私はいつの頃からか、このぬいぐるみをいじめるようになっていた。いま言われたのは、そのとき私が吐いた言葉だ。
興奮していた私は、耳まで引きちぎってしまった。
とってもかわいくて、不安なんてひとつもなさそうなウサギ。たくさん話しかけても、ちっともお返事してくれない。そんなウサギに、当時の私はだんだん憎しみをつのらせていた。
名前も、そのとき忘れたんだと思う。
「ごめんね、バニラ。本当にごめん。耳、痛かったよね?」
「痛くないよ。綿だもん。キャハハ!」
この子がこんな性格になってしまったのは、きっと私のせいだ。
ぎゅっと抱きしめると、むかしの気持ちが湧きあがってきた。本当に幸せな気持ち。私だけの友達。
「エルちゃん、なにが知りたいの?」
「なんでもよ。私が忘れてることぜんぶ」
「もう思い出してるんじゃない?」
「分からない。まだなにか欠けてる気がするの。思い出すの手伝ってくれない?」
「いいよ。私たち、友達だもんね」
私を許してくれたのだろうか?
分からない。
この際、ウソでもいい。
ウサギが私にひどいことを言わないなら、なんでも。
「ね、バニラ。消えた人間たちはどこに行ったの?」
「どこって?」
「だって、死体もなかったんだよ? どこかに消えたんだよね?」
大量の人間が一瞬で消え去った。
でも、本当にそれだけ? どこかへ行ったのではないの?
するとウサギは、身を震わせて笑った。
「ねえ、エルちゃん。天国ってどこにあるか知ってる?」
「えっ?」
「上だよ。あの裂け目の中。みんなもそこにいるんだ」
「ウソでしょ……」
まさか、怪物の餌にされたとでも言うのだろうか?
それとも、あそこで生きてる?
ウサギは愉快そうだ。
「ウソじゃないよ。みんなドロドロに溶け合って、ひとつになってるの。とっても満たされた気持ち」
「でも、あそこには怪物が……」
「ひどいなぁ、エルちゃん。怪物だなんて。そんなふうに言ったら、あの子きっと哀しむよ」
「じゃあなんなの?」
「私からは言えないよ。エルちゃんが自分で考えて」
答えを知っている気がする。
なのに、記憶が、届きそうで届かない。
私は思わず頭を抱えた。
「あれは悪い存在なの?」
「エルちゃん、それは愚かな質問だよ。なにがよくて、なにが悪いかなんて、人によってバラバラだもの」
「混乱させないでよ。あれは光の力なんだよね? だったらいい存在のはずでしょ?」
「みんなを救済したのは確かだね」
「でも、救済されなかった人たちもいる。なんで取り残されたの?」
するとウサギは、ピタリと動きを止めた。
「知りたい?」
「知りたいよ。もったいぶらないで。なにか重大な秘密でもあるの?」
「ううん。秘密なんてないよ。残された人たちは、救済されなかったわけじゃないの。自分たちの意思で残っただけ」
「なんで?」
「満たされるのが怖かったから。あなたもだよ、エルちゃん」
「私が……?」
本当に?
組織の人たちは、ひとりも消えていなかった。
あれだけ救済を待ち望んでいたのに。
私も同じだというの?
でも、ウサギがウソをついているとは思えなかった。彼女はちゃんと知っているから。ううん。私がちゃんと知っているから。
なぜなら、あの怪物から直接聞いたことがあるからだ。
その記憶を、私は自分で封じていた。
(続く)




