壁ドン
荷物が重すぎて、休憩の回数が増えた。
玉田さんはこれをひとりで持ってたのか……。
ほとんど進んでいないうちから、もう日が暮れてしまった。
高層ビルは減っているけれど、建物はぜんぶ潰れている。その廃材が道へなだれ込んでいるから、先へ進むのも一苦労だ。
焚き火はイトたんがやってくれた。
ライターもないのに、原始人みたいに木をグリグリやって火をおこしたのだ。やっぱりホンモノの忍者なんじゃないだろうか。手裏剣まで持ってるし。
「あー、ここもラジオ入んないよー! つまんない!」
仰向けでジタバタし始めた。
頼りになるんだかならないんだか。
「ね、伊藤さん。ちゃんと座って。もっとそっち寄っていい?」
「え、なに? どういう雰囲気?」
「寒いのよ。風邪ひいちゃう」
「もー、エルたんったら」
いちいち茶化してくるのはイラつく。
でも友達。
私たちはスズメみたいに寄り添って座った。
会話が途絶えると、パチパチという焚き火の音しかしない。
「ひとつお願いがあるんだけど……」
「なに? できることはなんでも言って!」
「うん。もし私がアイに戻って、髪を切って欲しいってお願いしても、切らないで欲しいの」
「なんで?」
「伸ばしたいから」
私は伸ばしていたのだ。
なのに地下シェルターを出るとき、アイが勝手に切った。髪が長いと、鏡を見るたび私を思い出してしまうからだろう。
逆に短いと、私はいつもアイを思い出してしまう。
イトたんはいたずらっぽく笑った。
「えー、どーしよっかなー」
「友達じゃなかったの?」
「まーそーなんだけどー。一回くらい壁ドンして欲しいなーって」
まだ言っているのか。
私は溜め息をついた。
「こないだやったでしょ?」
「え、いつ?」
「世田谷に入るとき……」
あれはかなりの壁ドンだった。人を殺すだけなら、あんなに空間を切り裂くこともない。
イトたんはぶちゃネコみたいに顔をしかめた。
「だーかーらー! 壁を壊すのが壁ドンじゃないの! ほら、漫画とかでよくあるでしょ? イケメンがヒロインを壁際に追い込んで、壁にドンって手をつくやつ! アレだよ!」
「そんなの知らない」
「エルたん、情弱だなぁ……」
「じょーじゃく? 専門用語はやめて。分からないんだから」
漫画は分かる。私も読んでた。けど、それ以上のことは分からない。テレビはあったが、インターネットはなかった。情報の入手ルートは限定されていたのだ。
*
その晩はぴったりくっついて寝た。
イトたんは寝相が悪かったけれど、私は冷えないようになんとか身を寄せた。あまり肉がないから、気温の低下に弱いんだと思う。
目をさますと、イトたんがもう焚き火を用意していた。
おじさんより頼りになるかもしれない。
けれども、なんだか表情が怪しい。
「じゃ、始めようか」
「えっ?」
「壁ドンよ、壁ドン! 一回でいいから! 一回してくれたらなんでも言うこと聞くから!」
「待って。それはアイに頼んでよ」
女同士でやって楽しいのだろうか。
イトたんはまたぶちゃネコ顔になった。
「アイくん、やってくれないかもしれないし」
「あいつがやらないなら、私だってやらないわ」
「そこをなんとか! しかもイケメンを演じながら! ねっ? 一回でいいから! お願いよぉ!」
「……」
信じられないことに、土下座が出た。
この子は、そうまでしてやって欲しいのか。
もはや執念のようなものを感じる。それだけ本気ということなのだろうか。しまいには私の足にしがみついてきた。人としての尊厳をなげうっての懇願だ。その姿は哀れでさえある。
仕方がない。
一回でいいのだ。一回やれば、もう二度とやらなくていい。ここで黙らせておきたい。
「じゃあやるけど……。どんな感じなの?」
「っしゃあ! 壁ドンゲットォ!」
「いいから教えて。というか、一回私にやってみてくれない?」
「は?」
「やり方分かんないの。それに、教えてくれたらクオリティもあがるでしょ?」
「それは言えてる」
やるのもやられるのも気が進まないけれど、イトたんはなんでも言うことを聞くと言っているので、せめてあとから文句が出ないクオリティに仕上げておきたい。
「だから……こうして壁際に追い込んで」
「それで?」
崩れかけた壁を背に、私は追い込まれていた。
でも私のほうが背が高いから、追い込まれているというよりは、相撲で寄り切られているような感じさえする。
イトたんはカッと目を見開いた。
「ここでこう、ドーン!」
「……」
「お前、俺の女になれ」
謎のキメ顔。
ウザすぎる口調。
たぶん、想定するモデルがいるんだろうけど。
私としては、率直に、ただ「滑稽」としか思えなかった。
イトたんのセンスを疑う。
「以上。分かった? ちゃんとイケメンでやってね」
「こんなの、誰がやってもイラつくだけだと思うんだけど……」
「大丈夫だから。とにかくやって。あとアドリブで胸キュンセリフ入れてもいいから」
「ムリよ」
きっとこの子は、世界の崩壊とともに精神を病んでしまったのだ。
そうとでも考えないと、現実を受け入れられない。
私は向きを変え、イトたんを壁際に追い込んだ。
ここで雑に対応してはダメだ。ぐうの音も出ないほど完璧に壁ドンしなくては。
少し時間をおき、私はなんとか表情を作った。
「お前、俺の女になれ」
強めに手をつき、途中で吹き出すことなく、最後までセリフを言い切った。
かなりいいデキだったのでは?
しかしイトたんは口をへの字にしている。
「うーん……」
「はっ? いまの完璧だったでしょ……」
「いやー、どうかなー」
「ちょっと待って。約束が違う。私はベストを尽くした。これ以上のクオリティはムリよ」
「エルたん、こんなもんでいいの? あんたの演技力はこんなもんなの? こんなんじゃブロードウェイには届かないよ!」
届かなくていい。
演技力とか言われても知らない。
私はバカらしくなって、火の弱くなった焚き火へ戻った。
いろんな意味で寒くなっている。
「伊藤さん、今後のことについて話し合わない?」
「なに今後って? 次の壁ドンをいつにするかって話?」
「それはもうやらない。だいたい、やるほうもやられるほうもちっとも楽しくないもの」
「いやー、もっとこう……、こいつが反抗したらキスしてやる、くらいの気迫がさ」
「それ犯罪」
「あくまで漫画のキャラになりきって!」
付き合い方を考えた方がよさそう。
盛大な溜め息が出た。
「なんだか不安になっちゃう」
「まあまあ。二人しかいないんだから、楽しくいこうよ」
「精神衛生ってやつね。たしかに孤独は毒だわ」
「難しいことは分かんないけどさ。旅してたらホンモノのイケメンに会えるかもしれないし」
それしか頭にないのかしら。
イトたんはお煎餅を半分に割って私にくれた。
「ありがとう。ね、伊藤さん。もしイケメンが出てきて、一緒に行こうって言ったら、私を置いて行っちゃうと思う?」
「えーっ? エルたんも一緒に行こうよ」
「私の命令をちゃんと聞くならいいわ。けど、そうじゃなかったら?」
「そんなのイケメンじゃないもん。イケメンってのは、心もイケメンだから」
注文の多い少女だ。
私は思わず笑ってしまった。
「きっと永遠に出会えないわね」
「そんなことない。あたしにはアイくんがいる」
「アイは死んだの。もうこの世にいない」
「そうかもだけど……」
ちゃんと理解しているようには思えない。
いっそあの死体を見せてやりたいくらいだ。
*
さらに西へ向かったところで、私たちは見慣れないものに遭遇した。
地割れだ。
道路がブツリと切断されて、底の見えない谷のようになっていたのだ。南北へどこまでも。
簡単には迂回できそうもない。
イトたんは、おそるおそるといった様子で覗き込んだ。
「なにこれぇ。こんなのあったっけ?」
「最近できたのよ。そうじゃなかったら道路が途中で切れるわけないもの」
「だよねー」
さて、困った。
特に西を目指していたわけじゃないけれど、こうなってしまった以上、計画を変更せざるをえない。北か、南か、それとも引き返すか。
「イトた……伊藤さん、どっちがいいと思う?」
「えへへ。エルたんの好きな方向でいいよ?」
「勝ち誇った顔しないで」
「まあまあ。棒でも倒して決めようよ」
「もし海が見たいとしたらどっち?」
「南!」
イトたんが指さした方向を見たけれど、海は見えなかった。
やはり地球が丸いからだろうか。
「となると、東京湾かな?」
私のつぶやきに、彼女は首を横に振った。
「ここからだと、相模湾だね」
「地理、詳しいの?」
「ぜんぜん。お母さんの実家があるからってだけ」
「じゃ、行ってみましょ」
「おっけー」
お気楽なものだ。
あんなに深い谷なのに、海水が入り込んでいない。ということは、海までは続いていないということだ。たぶん。
「エルたん、そろそろアイくんに代わってよ」
「さすがに失礼よ。それでも本当に友達のつもり?」
「ちょっとくらい、いいじゃんかー」
「私そういうのけっこう傷つくから」
イトたんは、たびたび度を越してウザくなる。
それともこれが普通なんだろうか。
私はそんな社会には耐えられないと思う。
けれども、このうるささには、じつは助けられている面もあった。
もしひとりだったら、すぐに玉田さんのことを思い出していただろうから。
あの人に恋愛感情はない。
ただ、初めて出会ったまともな大人だったし、アイにもよくしてくれた。だから感謝している。助かってくれてほっとした。
イトたんは荷物を背負い直した。
「南ってのはいいアイデアかもね。これから寒くなるからさ」
「言えてるわね。寒いと死んじゃうし」
そんなに変わらないとは思うけど。
でも、ほんの少しでも暖かいのは助かる。
「あ、ちょっと待った」
イトたんが足を止めた。
なにか見つけたようだ。
「どうしたの?」
「煙があがってる……」
青空へ向かって、何本もの細い煙がのびていた。
火災だろうか?
それとも生活の煙?
もしそうなら、人がいるはず。必ずしも友好的とは限らないけれど。
「ね、伊藤さん。もし誰かに襲われても、絶対に無茶しないでね。私が戦うから」
もし彼女が撃たれてうずくまってしまったら。
きっと怒りで頭がどうにかなる。
そうすると私は必要以上に魔法を使うし、味方だと思っていた人たちにも避けられることになる。
裂け目の奥にひそむ怪物は、それを望んでいる。だからこそ、思い通りになりたくない。
なのにイトたんは、とんでもなくニヤニヤしている。
「なにいまのセリフ? 胸キュンなんですけど?」
「ウザ……」
「あー、エルたん照れてる! 萌え!」
なにが萌えだ。
彼女は、私をイラつかせることにかけては天才的だ。
顔をつかんで、ぬいぐるみみたいにムニムニしてやりたい。
「伊藤さん、いまから一時間、口閉じてて」
「えー、なんで?」
「壁ドンしたらなんでも言うこと聞くって約束でしょ?」
「いやー、あれはノーカンっしょ。だからムーリー」
「こいつ……」
詐欺だわ。
友達との約束を破るなんて。
あとで絶対に仕返ししてやる。そのためには、この体をアイに渡すわけにはいかない。あいつは彼女に優しすぎる。
(続く)