世界は壊れたよ
記憶は霞んでいる。
遠い景色。
そして淡い光。
姉の言葉だけが、頭の中でいつまでもリフレインしている。
「世界の壊れる夢を見たわ」
そのとき僕は、本当にそうなればいいと思った。
僕たちには自由がなかった。
生きていても楽しくない。
いっそなにもかも終わってくれれば、閉塞した毎日が終わってくれるのに、と。
*
眩しい灰色の空だ――。
僕が地上に出たとき、本当に世界は滅んでいた。
ビルはみっともなく砕け散ってコンクリ片となり、景色を遮るものはほとんどなくなっていた。地面から上がぜんぶ空だ。
むかし理科の授業で、紙の上に透明なドームを置き、太陽の位置を計ったことがある。あのドームの部分は、つまりはぜんぶ空だったのだ。
空っぽだ。
ひしゃげた東京タワーだけが、死んだ世界のシンボルのように、ぽつんと立っている。
もっと高いタワーもあったはずだけれど、それは見当たらない。
僕は姉とともに地下シェルターに住んでいた。
好きで住んでいたわけじゃない。
誘拐されたのだ。
そこには「ママ」もいた。
でも本当のママなんかじゃない。誘拐犯の一味だ。
「姉さん、外だよ。でも……こっちももう壊れちゃったんだね。楽しそうなことは見つかりそうにないよ」
僕はぬいぐるみに語りかけた。
片耳のとれたウサギのぬいぐるみ。かつて姉が大事にしていたものだ。
本物の姉は、地下シェルターで死体になっている。
ママたちと一緒に。
季節は秋だろうか。
僕は患者衣しか持っていない。冬になる前にどこかから防寒着を手に入れないと、寒さで死んでしまうかもしれない。
食べ物も……。
僕はコンクリ片の上に腰をおろし、リュックの中身を確認した。
そこには生活に必要なものが入っている。
浄水ボトル、乾パン、抗生物質、包帯などなど。
残念だけど、ぬいぐるみを押し込むスペースはない。だからこれだけは手で持っていないと。
これから朝だろうか。
それとも夜になるのだろうか。
それさえ分からない。
ママは「終末が来る」と言っていた。
そして僕たちは、終末に対抗するための鍵なのだと。
けれども、僕たちが鍵として機能する前に、世界は壊れてしまった。姉が「その日」をママに報告せず、ウソの日を教えたからだ。
ウソが発覚したとき、ママは姉をたくさんぶった。
僕はただ見ていることしかできなかった。
たくさん鼻血が出た。
姉は笑っていた。
きっと頭がおかしくなっていたのだと思う。
けど、姉を壊したのはママたちだ。
悪いことをしたからバチが当たったのだ。
*
僕は滅んだ世界を歩いた。
渋谷? 原宿? ここがどこだか分からない。
意外と埼玉かもしれない。
斜めになった電柱に一匹、カラスがとまっていた。
こちらを見ている。
僕は目を合わせないよう、うつむいて通り過ぎた。
この地上で初めて会った生き物なのに。
仲良くできそうになかったから。
僕がここを出る前、ママの仲間が誰かに応援を要請していた。まだどこかに人間が生きているのかもしれない。
「姉さん、僕はどっちに行ったらいいと思う?」
折れ曲がった耳は斜め前を指している。
どうせ行くアテなどないのだから、ぬいぐるみの指示に従ってみるのもいいかもしれない。
*
けれども、姉さんの指示はハズレだった。
不良みたいな連中が、焚き火を囲んでいたのだ。酒瓶も転がっている。あとは袋叩きにされた人間の残骸。丸まっているアザだらけの少女。
不良は四人いた。
「お、生き残りがいたのか。待てよ。お前、女か?」
「僕は女じゃない」
「なんだこいつ、『僕』だってよ」
そいつらはバカにしたように笑った。
僕と姉さんは双子だ。顔がよく似ている。おかげで幼いころからずっと女の子と間違われてきた。母親が女の子みたいな服ばかり着せたせいでもある。誘拐犯のママも、最初は僕を女だと思っていた。
ぼうっとしていると、取り囲まれてしまった。
長い鉄パイプを手にしている。
男のひとりがふんと鼻を鳴らした。
「俺、こいつならイケるかも」
「マジかよ」
「とりあえず足やっとけ」
僕を傷つけるつもりだ。
少し震えた。
怖いわけじゃない。
人が死ぬ瞬間、景色が見える。
ここではないどこか。
見てはいけないなにか。
男のひとりが近づいてきて、斜め下から鉄パイプで僕の膝を狙って来た。
僕は「魔法」で空間を切り裂いて、鉄パイプを切断した。
カラーンと金属の転がる音。
男は体勢を崩して転倒しそうになった。そのまま転んでしまえばよかったのに。
「なにやってんだよリョータ」
「はっ? いきなり折れたんだが?」
「錆びてたんだろ。どけ。俺がやっから」
ナイフを持ったヤツが前に出た。
やたらアクセサリーをつけている。
偉そうにしているから、こいつらのリーダーかもしれない。
「おとなしく降伏して荷物をよこせ。逆らったら刺す。オーケー?」
「君は可哀相な人だ……」
「あ? ああっ!?」
僕はあまり気の長いほうじゃない。
自慢げにナイフをチラつかせていたので、僕はその腕を切り落とした。
人体だけを切断できるわけじゃない。空間を切り裂いて、そのついでに腕を落とすのだ。
空間の切れ目からは、よくないものが飛び出そうとしてくるから、あまり大きく裂くことはできない。
男は絶叫しながら短くなった腕をぶんぶん振って、そこらじゅうに血液をまき散らした。僕の服にも少しついてしまった。
「あーっ! なんだこれっ! あーっ! 痛ぇ! マジで! なんなの!?」
すると鉄パイプの男が逃走した。
別のも逃げた。
彼の仲間は誰も残らなかった。
「た、たしけてっ! ほんのジョークだから! あっ、あっ、メシもやる! 酒も! クスリも! なんでもやるから! なっ?」
「僕、君みたいなヤツ嫌いだよ」
空間を裂いて、男の首を落とした。
頭部がごろりと地面を転がって、胴体からブシャーと血液が噴き出した。
あまりキレイなものじゃない。
でも、善人も悪人も、血の色は同じなんだと僕は思った。
「姉さん、なんで世界はこうなんだろう……」
僕はぬいぐるみについた血液を、親指でぬぐってやった。ただ、そんなことをするまでもなく、ぬいぐるみはもともと血に染まっていた。姉さんの血だ。
僕はアザだらけの少女に近づいた。
この不快な場所から救い出してやろうと思ったのだ。
「ひっ」
少女は息をのんだ。
「大丈夫。怖くないよ」
「……やだ……もうやだ……」
涙が枯れているのに、なお泣こうとしているような顔だ。
恐怖と絶望が入り乱れている。
彼女の下腹部は少し膨らんでいた。
妊娠しているのかもしれない。
こんな世界にも命は生まれる。
僕は尋ねた。
「どうしたい?」
「……殺して……ください……」
「死にたいの?」
彼女は痙攣するようにコクコクとうなずいた。
だから僕は、その首を切り落とした。
人類は楽園を作ることができない。
「姉さん、なんだか哀しいね、この世界は……」
*
僕は食料や薬をリュックに押し込んで、アテもない旅を続けた。
これから出会う人間たちも、どれもあんな感じなのかと思うと、さっそく気が滅入ってきた。
空だってずっとどんよりしている。
「姉さん、僕たちの日常はどこに行ったんだろう……。代わり映えのない平凡な暮らし。でも平和だったよね。運動は僕のほうが得意で、算数は姉さんのほうが得意だった。えーと、逆だったかな。僕たちに点数をつけてた学校も、もうなくなっちゃったんだね……」
つぶれてしまえば、学校も病院も会社もただの瓦礫だった。
道路をふさぐだけの邪魔なコンクリート。
上から叩き潰されたみたいだった。
「あー、そうだ。どうして世界が壊れたのか、あの人たちに聞けばよかったね」
ぬいぐるみが返事をしないことは分かっている。
けれども、話していると気がまぎれた。
日が暮れると、僕は崩れかかったコンクリートの間に入り込んで、リュックを抱えながら寝た。
といっても寒さでよく眠れなくて、何度も目をさましたけど。
僕は「魔法」が使える。
ドクターは「念力」と言っていたし、ママは「奇跡」と言っていた。でも姉さんの言っていた「魔法」がいちばん好きだった。
いちど、空間を大きく裂いてみて、向こう側にあるものがなんなのか確認しようとしたことがあった。
そこは宇宙みたいに真っ暗な闇だった。
奥のほうではズーンとした音が響いていて、まるで人の声のようにぐねぐね揺らいで聞こえた。
僕はその闇に触れようとして、少し指先を切ってしまった。それで、危ないからもうやめようということになった。
何度かその闇を覗いているうち、僕はよくないものを感じるようになった。
ドロドロとした悪い怪物が、隙間からこちら側へ出ようとしている。
そんな感じがしたのだ。
ひとつだけ言えるのは、そいつが世界を滅ぼしたわけではないということ。
なぜなら、ずっと「向こう側」に閉じこもっていたから。
だから、この世界を壊したのは別の誰かということになる。
人間同士の戦争が原因じゃない。
ママの話では、悪魔が世界を壊しに来るということになっていた。だから僕たちが光の力を駆使して撃退するはずだった。
*
何日か経った。
けれども僕は、どこへも来ていない。
同じ場所をぐるぐる回っていたのだろうか。
そもそも、僕の旅にはゴールなんてないのかもしれない。
けれども、もし旅に出ないのだとしたら、あのシェルターで死を待つだけだった。
「見つけたぞ。たぶんな」
歩いていると、いきなり後ろから男の声がした。
無視してもよかったけれど、僕は振り返った。
そいつは拳銃を構えていた。
「妙なマネはするなよ。おとなしくしてろ。そしたら危害は加えない」
「なら銃を向けないでよ」
僕がそう反論すると、男は口をへの字にした。
三十代前半だろうか。スーツを着て、ネクタイまでしている。ただしネクタイを締めるのが得意でないらしく、少し右へ寄っていた。
「この銃は……まあアレだ。ある種の説得力みたいなものだ」
「僕に銃は効かないよ」
「そんなアニメの主人公みたいなこと言うなよ。まあ俺も撃つ気はねぇが……。あー、先に事情だけ説明しておくぞ。俺はある組織から依頼され、あんたを捕まえに来た。傷つけるつもりはない。おとなしく一緒に来てくれ」
そう言って彼は銃をホルスターへ差し込んだ。
本当に傷つけるつもりはない、ということだろうか。
「ある組織って?」
「いや、それがな。俺もよく分からんのだ。ただ、前金で三百万もらっちまったからさ」
「お金をもらったの? それで僕を誘拐しに来たんだ?」
すると彼は首をかしげた。
「僕? もしかして弟のほうか?」
「そうだよ。顔は似てるけど、僕は弟のアイ。姉のエルはシェルターで死んだ」
「そうか。お姉さんの件は気の毒だったな。だが、こっちも仕事だ。一緒に来てもらう」
「行ったらどうなるの?」
「知らん」
ずいぶんいい加減な大人だ。
僕は石ころを蹴飛ばした。
「じゃあ行かない。どうせよくないことになるんだ」
「そう言わないでさ。こっちも前金でもらっちゃってるから」
「さっき聞いた。でも僕には関係ないよ。だいたい、世界が滅んだのに紙のお金なんてもらって、なにに使うの?」
「……」
この男の人は、なにも考えていないのかもしれない。
すると彼は、突然その場に土下座した。
「頼む! 来てくれ! このままじゃ金の持ち逃げになっちまう!」
「あのさぁ、おじさん、自分の都合だけ押し付けようとしてるの分かる? 僕、そういうの嫌いだから」
僕は思わず溜め息をついた。
シェルターにいたときもこんな大人ばっかりだった。
彼は哀しそうな顔をあげた。
「おじ……まあ、おじさんか……。いや、いいんだ。たしかにあんたの言う通りだ。俺は自分の都合だけ言ってる。そこで、どうだ? あんたも交換条件を出すってのは」
「交換条件?」
「あんたが条件を出して、俺がそれをクリアしたら一緒に来る。これなら公平だろう」
「バカみたい。じゃあ『いますぐ死んで』って言ったら、ちゃんと死んでくれるの?」
「いや、そういうのはさ……。もっとマイルドなヤツじゃないと。バランスしないじゃない?」
つまりこの人は、結局、自分の都合のいいように話を進めるつもりだ。
僕は一秒でも早くこの人物との会話を切り上げたかった。
「じゃあ僕の下僕になってよ。なんでも言うこと聞くの」
「なんでもはダメだ。死んでしまう」
「めんどくさい。僕の半径3キロ以内に入ってこないで。じゃないと殺すから」
「平和に行こうぜ。銃を向けたのは謝るからさ」
「バイバイ」
僕はおじさんを置き去りにしてその場を去った。
ちゃんと謝ったから殺すのはやめてあげたけど。
きっとママの仲間だ。ほかにも変なのが来るかもしれない。もししつこいようなら、彼の言う「組織」ごと潰してやってもいい。
僕には失うものなんてないんだ。
(続く)