9.水の精霊
「水の精霊!?」
あたしは思わず大きな声を上げた。
信じがたいけれど、でも、目の前の彼女は確かに水の精霊と言われて納得できる雰囲気の持ち主だった。
「ほ、ほんとに水の精霊なの?」
『ほんとよ。ほら!』
アクアはあたしの目の前で、ぽんっと空に飛びあがった。地から足が離れて、ふわふわと漂う。
あたしはぽかりと口を開けた。
『ねぇ、ローレライとハーゼンファイデはどこにいるの?』
「え……?」
『いきなりいなくなっちゃったのよねぇ……』
アクアは寂しそうに眉を曇らせた。
『どこを捜してもいないのよ。呼んでもくれない』
「呼ぶって……呪文を唱えて操ること?」
あたしが尋ねると、アクアはちょっときっと目を吊り上げた。
『違うわ!人間どもがあたし達を好き勝手に使役する命令とは違うの!ローレライの歌はそれとは全然違ったの!』
あたしは目を瞬いた。
命令って、呪文のことか。
アクアは口を尖らせて説明した。
『あのね。人間どもが使う呪文は、あたし達にとっては嫌でも逆らえない命令なの。あれはずっとずーっと昔に、人間があたし達を縛り付けた呪文なの』
アクアの口調は、人間に対して好意的ではなかった。
『あたし達にとっては、勝手に力を盗まれているみたいな感じよ。まあ、人間どもに扱える力なんて、微々たるものだから、我慢してやってるけど』
あたしが読めなかったあの呪文は、聖騎士が精霊を使役する際に唱えるものだ。あれを唱えて精霊の力を借り、魔物と戦うのが聖騎士の務めなのに、精霊であるアクアが言うには、勝手に力を盗まれているのだということだ。
なんか、ショックだ。聖騎士と精霊の間には、なんかこう、信頼関係みたいなものがあるのかと思っていた。精霊に認められた人間だけが、聖騎士になれる、みたいな。
『でもね、ローレライはあたし達に命令なんてしなかったの。ローレライの歌はね、命令じゃなくてお願いだったの。あたし達の力を勝手に盗んでいくんじゃなくて、あたし達に、助けてーって力を貸してーっていう呼びかけだった』
アクアはそう言った。
『だから、あたし達はローレライに力を貸したの。ローレライのことが大好きだったわ』
「あ、あのっ」
あたしはアクアに尋ねた。
「あたし、精霊王になりたいの。でも、呪文が読めなくて……それに、呪文で命令されるのをアクアが嫌がってるなら、そんな呪文使いたくないけど……でも、使わないと精霊王になれないし……」
あたしは拳を握りしめて俯いた。師匠の顔が思い浮かぶ。いつだったか、師匠が、誰かの嫌がることはしちゃいけないと言っていた。盗みはしちゃいけないとも教えられた。
アクアがあたしの顔を覗き込んで首を傾げた。
『呪文が読めないって?』
「うん。読めないし、聞いても何を言ってるかわからないの。でも、どうしても精霊王になりたいの」
アクアは顎に指を当てて思案するふりをみせた。
『精霊王になりたいなら、ローレライみたいに歌ってよ。あたしは呼んでくれれば力を貸すわよ。ローゼンはローレライとハーゼンファイデの娘だもの』
「歌なんて知らない……」
『何言ってんの?』
アクアがあたしの頭をぽんぽんと叩いた。
『昨日、歌ったじゃない』
あたしはハッと顔を上げた。ティルト達は、あたしが水を操ったと思い込んでいた。
「ねぇ、もしかして、あたし以外の人にはあなたの姿が見えないの?」
『ええ、普通の人間にはあたし達の姿は見えないわ。ローレライはあたし達の声は聞こえたけど、姿を見ることは出来なかったわね』
「なんで、あたしには見えるのかな?」
『たぶん、これが理由ね』
アクアはそう言って、あたしの額をつん、とつついた。
『ローゼンの瞳。魔王の瞳だわ』
「ま、魔王の瞳!?」
『ええ。間違いないわ』
なんだか物騒な響きだ。
確かに、魔王の瞳はあたしと同じ色だった。そういえば、ダンディはローレライの目の色を春の若葉だかなんだか表していたし、あたし、外見は本当に魔王に瓜二つなんだな。
あれ、ダンディはローレライのお兄さんなんだし、ティルトはその息子……ってことは、母方に似ればあたしも天使の外見を手に入れていた可能性があったのか。くっ、おのれ魔王め!よくもローレライをたぶらかしたな!
『魔王ハーゼンファイデはなんでも見通す目を持っていたわ。あなたはその瞳を受け継いだのよ。よかったわね!』
「よかった……って言っていいの?うーん。精霊の姿が見えるなら便利かもしれないけど、外見のせいで人間からは恐れられるわよ」
『どうだっていいじゃない。人間なんて』
うーん。どうもアクアは本格的に人間のことが嫌いらしい。なんか、精霊って人間の味方、ってイメージがあったからとても意外だ。
でも、精霊の側からしたら、勝手に命令して勝手に力を奪っていく人間は好きになれなくても無理はないのか。
聖騎士達は自分達が精霊に嫌われているだなんて思ってもみないのだろうな。
あたしはティルトとアレクの顔を思い浮かべた。
「魔王の瞳を持っています、なんて言ったら、余計に嫌われちゃいそうだな……」
アレクは完全にあたしを魔物の仲間扱いしているし、ティルトはアレクのように態度には出さないけれど、あたしの存在がリーヘルト家にとって面白いものではないと感じているはずだ。
『ねぇ、ローゼン。ローレライとハーゼンファイデは心から愛し合っていたのよ。人間達が何を言ったとしても、それだけは信じていて』
アクアがあたしの頭を抱え込むようにして囁いた。
『あなたは特別な子。あの二人があたし達に贈ってくれた特別な人間なの』
特別な人間。それは、きっとローレライのことだろう。四大精霊から愛され、魔王から愛され、師匠から愛された少女。
聖女とまで呼ばれた精霊王が、どうして魔王なんかに恋してしまったのだろう。
すぐ傍に、彼女のことを愛する師匠がいたのに。どうして、師匠を選ばなかったのだろう。どうして、すべてを捨てて師匠を置いて、魔王の手を取ってしまったのだろう。
あたしには、ローレライのことがわからない。
『あなたはあたし達を呼べるわ。難しいことなんてひとつもないの』
あたしは優しく微笑むアクアの青い瞳をじっとみつめた。
アクアもあたしの瞳をまっすぐにみつめてくる。
師匠は、こんな風にまっすぐにあたしの瞳をみつめてくれたことがなかった。あたしが師匠をみつめても、すっと目を逸らしてしまった。あたしの目を、魔王の瞳を見たくなかったのかもしれない。
師匠は、ローレライを愛していた。
愛した少女が産んだ、他の男の子供で、容姿はその男にそっくり。目の色もその男譲りだったら、それは、直視したくなかったのも無理はない。
あたしはずきりと痛む胸を抑えた。
『あなたが望むなら、あたしが教えてあげるわ。思い出してローゼン。あなたは既に知っている。あなたには歌えるのよ』
アクアがあたしに優しく言い聞かせる。
それに励まされて、あたしはもう一度自分に言い聞かせた。あたしは精霊王になるんだ。そして、師匠に会うんだ。
魔王とかローレライとか関係ない。師匠はあたしだけの師匠なのだから。
お前なら、必ず精霊王になれる。
俺の可愛いロー、愛しているよ。
師匠の手紙にそう書いてあった。あたしは、その言葉を信じる。何があっても。
あたしは目を閉じて、昨日うたった歌を思い出そうとした。
だけど、脳裏によみがえったのは昨日ではなく、池に落とされた時の記憶だった。
ごぼごぼと水の音が聞こえる。八歳のあの日、池の放り込まれておぼれかけたあたしは、必死に願ったのだ。「助けて」と。
「———」
あたしの口から、知らない言葉がこぼれ出た。
「!?」
思わず自分の口を手で押さえる。
『ほら、やっぱり』
アクアが嬉しそうに笑った。
「これ、どうして?あたしはこんな言葉知らないのに……」
『後で教えてあげるわ。今は、ただ歌ってみて。心から湧き上がってくる言葉を、口にのせるの』
アクアがあたしの両手を取って促した。ごくりと息を飲んで、あたしは彼女の言葉に従った。