3.懐かしい歌
「なっ……」
ダンディが、空を見上げて驚愕する。
あたしも空を見上げて、息を飲んだ。
空一面に、翼の生えた偉業の獣が、無数に蠢いている。
始めて見た。これは、魔物というやつだ。地上を混沌へと還すため、古より人と戦い続ける、悪しきもの達。
そこここで悲鳴が上がり、人々が逃げ惑っている。
ダンディはきっ、とあたしを睨みつけた。
「貴様の仕業か!」
えええ!?ちょっとダンディ、濡れ衣が過ぎる!
一匹の魔物が口から炎を吐いて、建物が燃やされる。
「ちっ」
天使が舌打ちをこぼしてそちらへ走っていく。彼が呪文を唱えると、周囲の空間に水が生まれ、かざした剣に集まっていく。天使はそれを燃える建物へ向かって打ち下ろした。
だが、どう見ても火の勢いの方が強い。黒髪の方も加勢するが、魔物達は次々に炎を吐いて街があっという間に火に包まれる。
うわわわ。大変だ。師匠はどこだろう。無事でいるよね?
「おのれっ」
濡れ衣ダンディが渋い声で吠えて魔物に斬りかかる。しかし、魔物は空へ逃げて攻撃は当たらない。
聖騎士でも適わないのか。こんなにたくさんの魔物、どうやって追い払えばいいんだろう。
ああ、なんで今日に限ってこんなにたくさんの魔物が襲ってくるの?
今日はあたしの誕生日なのに!
「師匠……」
とにかく、師匠を捜さなければ。
そう思って辺りを見回したあたしの目に、倒れた女性に襲いかかろうしている魔物の姿が見えた。
「危ないっ!」
咄嗟に体が動いて、あたしは女性に覆いかぶさっていた。
視界いっぱいに、振り下ろされる魔物の恐ろしい鉤爪が広がる。
あ、死んじゃう。
どうしよう。師匠、泣いてくれるかな。
十五の誕生日に、初めて降りた街で魔物に襲われて死ぬだなんて。
運がないなぁ。
これからたくさん、師匠に恩返しして、師匠と一緒にずっと楽しく暮らすつもりだったのに。
師匠。ごめんなさい。
あたしは死を覚悟してぎゅっと目をつぶった。
だが、振り下ろされる直前で、鉤爪がぴたりと止まる。
「王……」
呆然としたような声が、魔物から発せられた。
あたしが目を開けると同時に、目の前の魔物が悲鳴を上げて空へ飛び上がった。
黒髪の聖騎士が、横から魔物を斬りつけたのだ。
あたしはほっと安堵の息を吐いた。よかった。助かった。
強ばっていた肩の力を抜いたあたしを、腕の中の女性が悲鳴を上げて突き飛ばした。
「た……助けてっ!」
尻餅をついたあたしは、恐怖にひきつった声を上げて逃げていく女性を呆然と見送った。
いや、別に感謝してほしかったわけじゃないけど、その態度はないんじゃない。まるで、あたしのことまで怖がっているような……。
「おい!」
あたしの腕を掴んで、黒髪がぐいと力任せに引っ張り上げた。
「痛っ……」
「お前が仲間を引き込んだのか!」
「え?」
「この魔物がっ!」
黒髪の聖騎士があたしに向かって剣を振り上げる。
魔物の手から助かったと思ったのに、今度は聖騎士に殺されそうになっている。
いったい、どうなってるの?
「死ねっ!」
輝く刃が振り下ろされる。
やだ。今度こそ死んじゃう。
師匠。
「助けて師匠っ!!」
あたしは叫んだ。
次の瞬間、体がふわりと浮き上がり、安心する気配があたしを包み込んだ。頭をぽんぽんと軽く叩かれる。
小さい頃から、あたしが泣いているとそうやって慰めてくれた。
「師匠……」
目を開けると、あたしを抱き上げて微笑む師匠の顔が見えた。
師匠はあたしを地面に座らせると、頬を撫でてこう言った。
「歌え、ローゼン」
歌……?
あたしは師匠の顔を見上げて目を瞬いた。
師匠はまっすぐにあたしを見ている。そして、もう一度「歌え」と言った。
歌えって……歌なんて、歌ったことない。師匠は歌なんて教えてくれなかったし、そりゃ鼻歌や自分で作った適当な歌を口ずさんだことはあるけれど、こんな魔物の大群に襲われている状況で、歌うような気分にはなれない。
「歌うんだ、ローゼン」
師匠はそう繰り返す。
ローゼン、て、なんだ?あたしはローだ。師匠からは、ローとしか呼ばれたことがない。
あたしはロー、師匠は師匠。それしか知らない。
「お、お前は……クロイツフェルト!」
人型の魔物と斬り結んでいたダンディが、こちらを見て驚愕の声を上げた。
師匠はそちらを振り向きもせずに、あたしに向かって命じる。
「歌え、ローゼン」
「師匠……?あたしは、ロー……」
「俺の可愛いロー」
師匠があたしの名を呼んで、優しく頬を撫でた。
「お前の本当の名前は、ローゼン」
師匠は、そう言った。
「ローゼン・ローレライ・リーヘルト」
師匠の声は、けっして大きくはなかったのに、周囲の者達はーーー人も魔物もーーー大きく息を飲んだ。
ダンディがわなわなと唇を震わせ、天使は目を大きく見開いてあたしを凝視している。
なに?師匠はなんて言った。あたしの、本当の名前?
「歌え、ローゼン。思い出せ」
師匠があたしの目を見て言った。
歌なんて、歌ったことがない。歌なんて……ああ、でも。
ふっと、記憶の底から何かが湧き上がってきた。
何か、聞こえた気がした。そう、確か、昔師匠に池に落とされた時だ。ごぼぼ、という水音の中に紛れて、誰かの声が聞こえた気がした。
懐かしい、声が。
何かが、聞こえる。
小さな声。
高く、低く、紡がれる歌。
その声が、自分の口から零れ出ていることに、あたしはしばらくの間気づかなかった。
自分が歌っている。
そう気づいた時、頭の中に声が響いた。
『やっと呼んでくれた!』
え?
『池に落ちてきた時以来じゃない?』
誰?
あたしは目を瞬いた。
あたしの目の前には師匠がいる。
その背後に、青い髪の少女が立っているのが見えた。
見たことのない少女だ。
少女はにっこりと微笑むと、細い腕を一振りした。すると、空中に大量の水が生まれ、蜘蛛の巣のように広がって、街を包む炎に降りかかった。
じゅうう、と音がして、燃えさかっていた炎が消えていく。
「馬鹿なっ……」
ダンディが信じられないといった様子で呻くのが聞こえた。
「これは、ローレライの歌だ……っ」
人も魔物も、動きを止めて、何故か驚愕の表情であたし達を見ている。
「どういうことだ!?あの娘はいったい……」
街を包んでいた炎がすべて消えると、少女が操っていた大量の水も消えた。そして、少女自身も、あたしに向かってにっこりと微笑みかけると、ふっとその姿を消した。
「消えた……」
呆然と呟くあたしに、師匠が言った。
「よくやった。ローゼン」
いや、あたしは何もしていない。火を消したのはあの少女だ。あたしはただ、歌っただけ。
それなのに、師匠はあたしを褒めるように優しく頭を撫でた。
そして、力強く響く声でこう言った。
「ローゼン・ローレライ・リーヘルト。魔王ハーゼンファイデの娘にして、精霊王ローレライの娘」
師匠が何を言っているのか、あたしにはわからなかった。
ただ、周囲にざわめきが起きたのは聞こえた。
「バルドバーン様!」
「……一時、退く」
人型の魔物が、仲間達に撤退を指示したようだった。街にひしめいていた魔物達が一斉に空に飛び立ち、黒い山の方角へ飛び去っていく。
「またな、ローゼン」
師匠は立ち上がると、目を見開いてこちらを見ているダンディに顔を向けた。
「ローランス。お前の姪を守れ。頼んだぞ」
そう言うと、師匠はダンッと地を蹴って人々の頭上を飛び越えて、走り出した。
「ま、待て!クロイツフェルト!」
ダンディが追おうとするが、戸惑う人々と崩れた建物の瓦礫に足を取られて進めずにいる。
あたしは小さくなる師匠の背中に手を伸ばした。
待って。師匠、まって。ししょう。
「おいていかないで……」
急に意識が遠くなって、あたしはそのまま地面に倒れ伏したのだった。




