27. 冷戦
「何を騒いでいる」
ゆったりとした足取りで現れた大司教、ヴァランタイン・シュテファン・クローラリアは、チルマンの前に立つと目を眇めて彼を睨みつけた。
「何をしているのだ、チルマン司教」
「は……大司教様、この魔物が侯爵令嬢に、その……」
クローラリア大司教の迫力に飲まれて、チルマンは身を縮めた。さすがは六家の当主で大司教、立ってるだけで威厳がすごい。
「魔王の娘には関わるなと命じたはずだぞ」
「はっ……申し訳ありません!しかし……っ」
「司教ともあろうものが、城内で声を荒らげるなど恥と知れ」
うおお。この御方は一筋縄ではいかない。貴族の中の貴族だ。さすがは侯爵にして大司教を務める元聖騎士。
本当におのれ侯爵と仲がいいんだろうか。なんというか……格が違わない?
ついついそんな失礼なことを考えたあたしに一瞥をくれると、大司教は悠々と踵を返そうとした。
って、大司教に話を聞くために脱走までしたんだった、今日のあたしは。
「待ってください!」
思わず呼び止めていた。クローラリア大司教は振り向いて感情の読めない表情であたしを見た。
呼び止めたものの、あたしは何を言えばいいかわからなかった。聞きたいことはたくさんあったはずなのに、クローラリア大司教の悠然とした迫力に飲まれて、ただでさえうまくまとまっていなかった疑問が、よけいに茫洋として掴みにくくなった。
しばしの間、あたしとクローラリア大司教は無言で見つめ合った。
「……貴様!大司教様に無礼だぞ!さっさとここから立ち去れ!」
チルマンがあたしに向かって怒鳴った。声が震えている。
クローラリア大司教があたしからすいっと目を逸らしてチルマンを見やった。
「お前は何故そのように怯えるのだ」
「え……?」
「たとえ魔物を前にしても怯える必要などない。我らには創造神の加護があると教えているはずだ」
静かに諭すクローラリア大司教の言葉に、チルマンはさっと目を逸らした。
「い、いえ、私は……」
「ローゼン・ローレライ・リーヘルト」
クローラリア大司教があたしに向き直った。
「焦らずに、時をかけることだ」
「へ?」
「受け入れられるのも、受け入れるのも、急かさず、急かされずに、歩むことだ」
重みのある声で言い含めるように言われて、あたしは目を瞬いた。
「……なんの話ですか?」
あたしは目の前の男性がどういう人物なのか計れなくて眉をひそめた。ティルトとアレクから聞いた限りでは、おのれ侯爵と仲が良くて、こちらを陥れてくる可能性があると警戒されていたけれど、今こうして話している限りではとてもそんな小細工を弄してくるような相手とは思えない。
「私が今、名前を呼んでも、お前はまるで知らない名前を聞いたような顔をしていたぞ」
知らない名前。
そんなの、当たり前だ。
あたしはずっと、そんな名前、知らなかったのだから。
「ローゼン・ローレライ・リーヘルトという名前さえ、自分のものだとまだ認めることが出来ない。そんな状態で真実を求めても、惑わされ、利用されるだけだ」
あたしはぶるっと身震いした。
「何を……」
「お前にはこの国で生きる覚悟がない」
夕の風が吹き始めた空気の中に、クローラリア大司教の声が響いた。
「根付くつもりもなくふわふわと漂っている綿毛を、どのように扱っていいか誰もが決めかねている。咲くことを望むなら、根を下ろすことだ」
クローラリア大司教の言っていることは、アデライトが言ったことに似ている気がした。
この国で生きる覚悟がない。貴族の身内である覚悟がない。
そんなの、だって、あたしは、仕方がなくここにいるだけで、師匠さえ、師匠さえいてくれたら……
ぐらり、と、足元の地面が揺らぐような感覚がした。自分がちゃんと立てているか不安になる。
あたしには、師匠さえいれば……
不意に、ぐっと肩を掴まれて、あたしははっと我に返った。
アレクが険しい顔であたしを引き寄せた。
ちょうどその時、ざくざくと草を踏みしめる足音が聞こえてきて、不機嫌そうな声が投げかけられた。
「いったい、何をしてるんだ」
そちらに首を向けると、宮殿の方から歩いてきたティルトが眉をしかめてあたしとアレクを睨んでいた。後ろにはアルガン君を引き連れている。
アレクとアデライトがほっと息を吐いたのがわかった。二人とも、クローラリア大司教の醸し出す雰囲気に、あたしと同じくらい緊張していたのだと初めて気づいた。
ティルトはあたしとアレクを追い越すと、クローラリア大司教の眼前に立った。
「リーヘルト家の者がご迷惑をおかけしました。お許しください」
「いやいや、構わぬよ」
ティルトを前にすると、クローラリア大司教はそれまでの威厳たっぷりの表情ににやりと人の悪い笑みを浮かべた。
あまりに一瞬で悪人面に変化した人相に、あたしはびくっと肩が震えてしまった。
「しかしなぁ、悪いと思うのであれば、お父上に伝えてもらえるか。「いつでも大司教の座は明け渡すぞ」と」
「ご冗談を。大司教のような崇高な務めは、クローラリア侯爵のごとき優れた人格者でなければ務まりますまい」
「はっはっは。役職を押しつけられただけだと知っているだろう?「大司教は六家の当主が務めなければならない」などという掟のせいで、代々面倒くさい役職を六家の間で投げつけあって、たまたま私が当たってしまっただけだ。ダヴィッドリーの野郎、さっさと領地に逃げやがったからな」
「クローラリア侯爵家はますますのご栄光、素晴らしく、同じ六家の者として羨ましくも思います」
「はっはっはっは。ただ単に人数が多いだけで栄光とは!最年少で第十三聖騎士団の団長を務めるご子息を持つリーヘルト伯こそ輝かしい栄光の持ち主では?」
「いえいえ、ご冗談を」
「はははは」
辺りの空気がぐっと冷え込んだ気がする。
え?なに、怖い。
ティルトもクローラリア大司教も、口調は穏やかなのに目が全然笑っていない。
え?なに?大司教と天使、仲悪いの?
アレクとアデライトも目を伏せて顔を青くしている。やっぱり怖いんじゃない?
チルマンに至っては泡吹きそうになってるんだけど!
やだ、六家って怖い。リーヘルトとクローラリアとジェイベルシュタイン以外の残りの三家は知らないけど、とりあえずリーヘルトとクローラリアは怖い。ていうか、大司教と天使が怖い。
アルガン君だけは頬を赤らめているけれど、彼は親衛隊だから天使しか目に入っていないんだろう、きっと。
空気がビシバシと音を立てそうなほどの緊張状態は、クローラリア大司教がふっと首をすくめたことで解除された。ティルトもふっと肩の力を抜く。周りで見ていたあたし達も「ぶはあぁっ」と息を吐いた。
「失礼いたします」
「ああ」
氷のような声で挨拶をして、ティルトはくるりと向きを変えた。
「戻るぞ」
あたし達の横を通り過ぎて、訓練場の方へ歩みを向ける。アレクがあたしを引っ張ってティルトを追いかけようとした。
だが、その前にティルトが足を止めて「何だあれは?」と呟いた。
その場にいた全員が顔を上げて息を飲んだ。
宮殿の南の方角から、もくもくと黒い煙が上がり、薄暗くなり始めた空の一部が赤く染まっていた。
「火事だ!」と、誰かの叫ぶ声が遠くで聞こえた。




