第9話 祭囃子
知っている子供だった。莉子は近所に住む小学生で母子家庭の一人っ子だ。
母親が仕事でいない土日に、綾香は面倒を見ることがあった。
莉子はとても素直な子で、宿題を自発的に始めては、ニコニコしながら綾香に丸付けをお願いしていた。
花屋の方にもう一度、視線を向けた。ゾンビは捜索を続けている。
誰も犠牲になってほしくはないが、もう少しゾンビに花を見ていてほしいと願った。
綾香はバレないように静かに莉子のアパートの階段を登った。
莉子のいる部屋番号は分かる。肘でインターホンを押した。
でない。音もしない。そりゃそうだ。いくら綾香と気づいていたとしても、目が合ったゾンビが訪ねてきて迎え入れたりはしない。
でもね、ピンポンを押すゾンビはいないんだよ。
こんな状況でそんな緻密な分析は大人にもできないだろう。自分で自分のことが分かっても、人間の心が残っていることが伝わらない現状は変わらない。部屋の中で莉子は怯えているだろう。
子供に冷静な判断を期待しておいて、そもそも無心でここまで来たけど、会ってどうするのか考えていなかった。
綾香の家に連れて行ったら安全が増すのか。守り抜く計画もない。母親がいれば返り討ちにあうかも。
だけど、悩んでいる時間はない。
自分を信じて進むしかない。
莉子に鍵を開けさせる方法を考えなくては。
バッグに携帯が入っていたが、綾香には手がないし、莉子は携帯を持っていなかった。
何か方法はないかと悩んだ結果、思いつきでドアをリズム良く叩いてみることにした。
どんどんどん、どんどんどん、どんどんどんどんどんどんどん
三三七拍子は少し古いかな、と思ったが、それ以外に思いつくリズムが無い。
それに肘で打つ三三七拍子は、なんだか荒々しい。指なら小刻みで心地良いビートを奏でられるのに。
とっとこ、とっとこ、と馬の足音も再現するのは難しかった。
ドアに耳をくっつけて中の音を聞いてみたが、莉子はが出てくる気配はなかった。
綾香は座り込んでしまった。陽菜を連れてきたほうがいいのかな、と綾香は考えていた。
しかし、今、ここら一帯はゾンビが集中していて危険だった。2人を危険に晒したくない。
綾香は莉子と過ごした日のことを思い出していた。
普段の土日には、莉子は学童保育に行っていたが、綾香が面倒を見るというと、莉子は喜んで学童を休んで綾香と過ごした。
そういえば、つい先週末も莉子と過ごしていた。2人で夏祭りに参加した。思春期の中学生は別行動だった。
莉子の浴衣姿は可愛かったな。帰り道にお祭りの音頭を莉子が口で真似していた。
「どん、どん、どどーん、どん、どん、どどーん、どん、どん、どどーん、どどどんどん」
――綾香は、はっとして立ち上がった。これだ。
玄関のドアの正面に立ち、鼻がくっつきそうなぐらいの距離に立った。自分の腕をバチに見立てて、頭上に振り上げた。
どん、どん、どどん、どん、どん、どどん、どん、どん、どどん、どどどんどん
3回繰り返して、止めた。莉子じゃなくて、ゾンビが集まりそうだ。
アパートの周りを2階から身を乗り出して調べた。まだ、気づかれた様子はなかった。
綾香はお手上げと言わんばかりに、2階の廊下の手摺に頬杖をついた。
諦めたわけではなかったけれど、1人でやれることはなくなったと、ため息が漏れた。
その時、後ろから、か細い声が聞こえた。
「お姉ちゃん・・?」
キッチンの小窓が開いて、莉子が不安そうに顔を覗かせていた。
綾香は慌てて、肩掛け鞄から自分の携帯を口で咥えて取り出した。
それを莉子の目の前に差し出す。
「え・・」
戸惑いつつも、莉子は携帯を受け取った。
わっ、と声がした後、ドンという音がした。
シンクの上にいた莉子が弾みで床に落ちた音だった。
莉子は涎がついた携帯の待ち受け画面を表示させた。
画面には、「この人はゾンビですが人間の気持ちを持っています。殺さないで」と書かれていた。
陽菜が出発前に、そうやって設定していたのだ。
ほんとにお姉ちゃんなの、と莉子がドア越しに話しかけてきた。
綾香は、どんどんどどん、とドアを叩いた。
莉子はゆっくりと玄関の鍵を外した。
(続く)




