第3話 リビングデッド
「静かに」
陽菜は小さい声でそう言うと、左手をパーにして綾香たちを制した。3人で聞き耳を立てるが、ガラスが割れた音の他には何も聞こえず、階下の状況を掴めない。
仁美が息遣いが荒く、小さく震えていた。ここまで来るにも大変だったのだろう。釘バットには血が付いていた。一方、仁美が肩から提げているサバイバルナイフは汚れていないみたいだった。玄関でもケースからナイフを取り出していなかったっけ。髪を茶色く染めてパーマをかけてはいるが、元々は穏やかな子なのだろう。悪友に影響されたのだ。
綾香には考えがあった。震える仁美を見て、助けたいという気持ちがその考えを後押しした。
前回の送信の時に受信音が鳴ったため、綾香はチャットを書き込んだが送信せずに、「わたしがおりる」と入力した画面を直接2人に見せた。
どういうこと、と陽菜が怪訝な顔で聞いてきた。綾香は予測変換で「大丈夫」と答えた。
陽菜は納得がいかない表情をしていたが、わかったよと姉に任せることにした。
下の階へ行く前に、パンツを穿きたかった。もし、知らない人に出会った場合、下着姿では誤解を与えるかもしれない。というよりも、恥ずかしい。
綾香は「なんかはきたい」とチャットに書いた。陽菜は、やっと理解したという顔をして、小声で答えた。
「吐きたいから下に行くってことね。たしかにゾンビいてもお姉ちゃんなら大丈夫かもしれないしね」
そう、ゾンビ同士なら身の危険は無く平気なのではないかと考え、自ら偵察に名乗り出た。
綾香は立ち上がった。別に吐きたいわけではないけど、半分正解だけど、半分ハズレ~♪と説明する気力はなかった。
仁美が、気をつけてください、と小さな声で労いの言葉をかけてくれた。陽菜が、トイレで吐いてね、と耳元で囁いた。エセ癒し系め、覚えてろよ、と綾香は陽菜を睨みつけた。
ゾンビだからといって、身の安全が保障されているわけではない。綾香は音をたてないように階段を下りる。後ろで小さくカチャという音がして、綾香の部屋のドアが閉まった。1階のほうに意識を集中させる。リビングから気配を感じる。やっぱり、家に入ってきてるのか、と身を引き締めた。
リビングのドアは開いたままだった。部屋の中でガサガサと何かが動いている。綾香はドアから顔の左部分と左目だけを出して、中の様子をそっと覗いた。
中には2人?2体のゾンビがいた。1人は父親の体をクンクンと嗅いでいた。もう1体は、まさにこちらへ向かってこようとしていた。肉、肉と言いながら、こっちに歩いてきている。肉だって?
近づいてくるゾンビは、おうおうと言っているのに、綾香にはそれの意味が伝わった。
もう1人のゾンビも匂いを嗅ぎながら、おじさん臭い、おじさん臭いと言っている。
綾香は小さい頃の記憶を思い出した。
家族で動物園にでかけた日。綾香は、まだ小学校に入る前で、陽菜は2歳だった。
早朝から父親が運転する自家用車の後部座席に座っていた。綾香は初めての動物園に目を輝かせていた。前日の夜には、いくつもの絵本を読んだ。たくさんの動物たちと話したくて、うずうずした気持ちで到着を待っていた。
その移動の車中で、隣に座る母親の腕に蚊がとまった。蚊は、血!旨し!血!旨し!と言っていたので、綾香は驚いた。綾香は顔を近づけて、「そんなにお母さんの血は美味しい?」と聞いた。
次の瞬間、蚊は母親の手によって煎餅の如く潰された。蚊はたしかに返事をしようとしていた。だが、それを聞くことは叶わなかった。
蚊の死を目の当たりにして、綾香は強いショックを受けた。動物園に着いた頃には、蚊のことは、すっかり忘れてしまっていたが、多くの動物に話しかけても、もう会話することはできなかった。
ゾンビは、「肉、肉」と言いながら、綾香の横を通り過ぎようとしていた。咄嗟に「肉って何のこと」とゾンビに聞き返した。
ゾンビは綾香に振り向き、「上から肉の良い匂い」と答えた。きっと、仁美と悪友のことだろう。
綾香は、なんとかしなくてはと考えて、「もう肉食べた」とゾンビに嘘をついた。
ゾンビは、リビングのドア付近で立ち止まり、少し匂いを嗅いでいたが、ダイニングの方に振り返ると、「おじさんも上の肉ももう食べられない」と言うと、2体とも割った窓ガラスから外へと出ていった。
綾香は安堵の溜め息をついて、2階に戻ろうとした。階段の上に、釘バットとショートカットのストレートパーマが見えた。
もし2階にゾンビが来ても、結局大丈夫だったのではないかと、また溜め息が漏れた。逞しく、頼もしい妹である。
陽菜は戻ってくる綾香を見て、大丈夫なの?と言いつつ、1階へ降りてリビングの中を確認した。そして、初めてゾンビになった父親を見た。
「お父さん」
陽菜はそう一言いうと、言葉を失った。
立ち尽くしたまま数分が過ぎた。ゆっくりと陽菜は口を開いた。
「窓の外からお父さんを見つけて、入ってきたのかもね」
動かさなきゃと言い、父親の足を持って引っ張ろうとしたが、中年太りの大人はびくともしなかった。さっき見た時よりも痙攣は小さくなっており、まるで人が眠っているようだった。
仕方なく、陽菜は父親を動かすのは諦めた。代わりの対策として、お父さんの上に毛布をかけて、窓のカーテンを閉めた。
キッチンの冷蔵庫から水と氷菓子を取り、2人は2階へと戻っていった。
(続く)




