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僕は一体、だれだったの?

作者: 遊馬潤


 質がよさそうなシャツを羽織り、家の中にしては少々濃い化粧を施して控えめだが主張の強いアクセサリーを身に纏った女は今にも泣きだしそうな顔をしながら、その時を待っていた。それこそ身が焦がれるような思いで、まだか、まだか、と先程から時計を見てはため息をつくばかり。いくら気持ちばかり先走っても時計の針は規則通りにしか進まない。

 そう頭で理解していても、確認せずにはいられない。

 急いてしょうがない気持ちを何とか落ち着かせようと淹れた紅茶は折角飲み頃を迎えているのに、猫舌のせいで飲めそうにない。

そんな中、無機質な時間の終わりを告げるように玄関の扉が開いた音が聞こえた。女は急いでアツアツのティーカップを置くと腰を上げ、彼らを迎えに行く。玄関には女の夫が大事そうに抱えながら帰ってきた。

「ほら」

 そう言うと男は妻である女にそっと手渡した。

 小さい。のに微かに重い。小さい。のに温かい。

一年ぶりに懐かしい感覚が女の手に戻ってきた。夫が連れて帰ってきたのは生まれたばかりの子犬だった。家に迎え入れられるくらいには大きくなっていたが、それでも新しく誕生した命は自分の中にある様々な感情を奮い立たせる。

 生まれたての生命はこんなに儚いものだっただろうか。こんなに愛おしかっただろうか。どの感覚も久しぶりで、込み上げてきた涙は乾いた目を潤した。

「おかえりなさい、レオ」

 少し力を入れたら壊れてしまいそうなほど脆い。そんな子犬はその場で「レオ」と名付けられ、朝比奈家に戻ってきた。




 今日雨降るのはいやだなぁ。折角パパさんがいるのにお散歩にいけないじゃないか。

 記憶がはっきりある頃からレオはこの朝比奈家の一員で、レオのことを実の息子のように可愛がる朝比奈勝・美智子夫妻は些か高齢だった。しかしそれを感じさせないほどどちらも非常に元気で、パパさんに至っては「お仕事」とやらを未だやっているらしい。そんな多忙なパパさんが珍しくずっと家にいた。レオが二人と暮らし始めて一年をとうに過ぎて二年目を迎えているが、こんなことは滅多にない。レオは夕方のお散歩がとても楽しみだったのにお昼を過ぎてから急に雨が降り始めたのだ。

 勝は雨になると決まって家から出ようとしない。雨が降っていると気づいたら、無言のまま窓越しにシトシトと降る雨に向かって顔をしかめるほどだ。そんな勝と外に出て散歩が出来る可能性は極めてゼロに近い。いつも歩く道には自分にそっくりな奴がひょっこりと水が溜まっている場所で出会えるし、世界を包んでしまうような音が存分に楽しめるので、レオ自身、雨が嫌いではなかった。嫌いじゃないだけあって、哀しかった。

 よりによって何で今日なんだよ…。

 天候ばかりはどうしようもない。そう分かっていても、この状況がどうしても悔しいレオはゴロンと床に寝そべり、そのままふて寝していた。

「レオ、元気ないわねぇ。どうしたの?」

 顔を上げると心配そうにママさんが声をかけてきた。レオには二人の言葉が分かるのに、どうやら二人にはレオの言葉が伝わないらしい。美智子がレオを抱きかかえどうしたの?ともう一度訊ねてきた。

ママさん見てよ、雨だよ。

 窓に顔を向け、レオは弱々しく鳴いた。すると美智子はレオの言いたいことが分かったように微笑むと、レオの頭を優しく撫でた。

「あぁ、今日は雨だものね。勝さんと散歩に行けないから淋しいの?」

レオはこくんと頷くと、美智子は自分の子を慰めるように背中をさすった。

「しょうがないわよ。レオったら晴れだろうが雨だろうが関係なくはしゃいじゃうんだから。一回だけ勝さんが雨の日に散歩へ連れて行ったけど…。ふふ、その日なんて凄かったのよ?二人とも泥だらけで返ってきたんだもの。勝さんに聞いたら、元気よく水たまりに飛び込んじゃったんだって。いくら泥だらけになっても帰ろうとしなかったらしいじゃない」

 懐かしそうに美智子はクスクスと笑っていた。しかしそんな話、全く身に覚えのないレオは首をかしげた。そんなレオの考えごとなんて露知らず、美智子もう一度レオの頭を撫でてから体をゆっくりと床に降ろした。

「今日はウチで遊びましょう。それならきっと勝さんも遊んでくれるわ」

 美智子は「いってらっしゃい」と言うと、ちょっぴりボロボロボールを手渡した。正直あまりこのボールは好きではなかったが、毎度渡されると嫌でも慣れてしまう。

 うん。ママさん、僕行ってくるよ!

 返事代わりにレオはボールを咥えると元気よく勝の元へ走った。

以前よりボールを毛嫌いしなくなったものの受け取るときの尻尾は未だ下がったまま。聞き訳がいいからか、しっかりボールを咥えこんでいても、お気に召してはいないらしい。

何も知らずに駆けていくレオの後ろ姿を見て、美智子はぽそっと呟いた。

「だいぶ似てきたけど、まだ完全には[レオ]じゃないのよね…」




 憂鬱な雨も何処かに帰り、眩しい太陽がやっと戻ってきた。いつもより気合が入った服装の美智子は朝からご機嫌のようで、先程から鼻歌交じりでお出かけの準備をしている。

ママさん、ママさん。そんなにおめかししてどこ行くの?もしかして僕、お留守番?

美智子が楽しい時間を過ごすのならレオは嬉しいが、誰もいないこの広い家で長い時間待つのはかなり退屈だ。褒めてもらえないし、撫でてももらえない。そして何より寂しい。

…まぁママさんが帰ってきたらまた撫でてもらえるんだけどさ。

 憂さ晴らしにあのボールをガジガジと噛んで気を紛らわしていると、美智子はお出かけ用の首輪とリードを持ってきた。

「レオ、あなたもお出かけよ」

 えっ?!僕もいいの?!

 思いがけないお許しに、レオは齧っていたボールをすぐさま放り投げると、小走りして美智子の元へ向かった。

「あら、レオもご機嫌ね」

 もちろん!ママさんとお出かけだもの!デートだ、デート!

 レオは尻尾を千切れんばかりにブンブンと元気よく振った。嬉しいことがあるとレオはよく尻尾を振る癖はずっと変わらない。それが凄く愛らしくて美智子はレオに声を掛けた。

「今日はね、久々に順子さんとランチなの。しかもあなたが大好きなところで」

 ジュンコさん?僕の好きなところ?

 レオにとって聞き慣れない単語で分からないことだらけだった。それはともかく、一緒にお出かけする事実に変わりはない。その喜びをレオは短く大きな声で「わん!」と応えた。




 うわぁあ!

 美智子に連れられるがままデートの目的地に到着すると、そこは磯の香りがほんのり届く、何ともオシャレなカフェだった。レオの視点からでは分からなかったが、美智子曰く、見晴らしも凄くいいらしい。レオは初めて訪れる場所にテンションが上がり、走り出した。

しかし突如として喉にくいっとストッパーが働く。その苦しさと驚きでレオは思わず顔を上げると、美智子の顔は微笑みながら困った表情を浮かべていた。

「レオ。お願い、待って。元気なのは良いことだけどそんなにはしゃいじゃったら私、あなたに追いつけないわ」

 あ、そっか。

 つい好奇心で動いてしまったが、レオは朝比奈家にやってきた頃よりも随分成長していた。レオが本気で走ったら朝比奈夫妻のどちらも追いつけない。

普段の散歩する時は駆け出したい気持ちをセーブしつつ、散歩の時間を楽しんでいた。けれど、危うく美智子に迷惑をかけるところだった。

 ごめんなさい。

 レオは少し下を向いてしょぼんと反省していると美智子は頭を撫で慰めた。

「私の体がもう少しレオに追いついたら大丈夫なんだけど…。ごめんね」

 いくら美智子が元気とはいえ、歳の波には抗えないところは当然出てくる。レオは微弱ながら勘付いていたのに、ついつい気持ちに身を委ねてしまっていた。

 ママさんは悪くないよ!僕がはしゃいじゃったから悪いんだよ!

 テコテコと美智子の足元へ移動し、レオは一言も鳴かずに擦り寄った。レオには美智子の心を察して寄り添うようにやってくる癖がある。ズボン越しから伝わってくる重量感抜群の熱はレオが生きている実感を与えてくれる、新鮮な感じだ。大体レオがそれをやるのは自分の気持ちが落ち込んでいる時か、何か悪戯をして怒られる前に多い。ちゃんと叱らなきゃと思っていても、レオのことになるとどうも甘くなってしまう。

 甘くなってしまうのはしょうがない。

 心の中で自分を正当化しながら美智子は浅くため息を吐いた。

「ちょっと!ため息ついたら幸せが逃げちゃうわよ!」

 普段の美智子以上にハツラツとしたご婦人が後から遅れてやってきた。全く知らない女性だったが、声を掛けてきたということは恐らく美智子の知り合いなのだろう。ご婦人の姿を目にした美智子の顔が一気に明るくなったのをレオは見逃さなかった。きゃあきゃあと盛り上がっては喜んでいる姿は、さながら女学生たちの姿を見ているような雰囲気だった。

 そして一通りの挨拶を終えた後、にっこりと微笑んだ美智子はそっと順子に耳打ちした。

「幸せならもうやって来たのよ、順子さん」

 あ、なるほど!ここに来る前に話していたこの人がジュンコさんか!

女性の正体を完全に理解したレオは美智子の元から離れ、挨拶代わりに順子へ近づき、元気よく「ワン!」と吠えた。

「もしかしてこの子…レオ君?」

 美智子が嬉しそうに頷くと、順子は豪快に笑いながらわしゃわしゃとレオを撫でまわした。少々荒いが愛ある撫で方だったので、レオは撫で終わるまでの短い時間、ちょっとだけ我慢した。

「もうちょっと凛々しかった気もするけど、良かったじゃない!お久しぶりね!レオ君!」

 …あれ?僕、お久しぶりなの?

 順子とは初めましてのはずなのに久しぶりなんて、おかしい。だが小さいころに会ったきりならレオが覚えていないのも不思議ではない。仮に間違えてるよ、と鳴いたところで二人には伝わらない。

 …まぁいっか。

 そういう結論に落ち着いたレオはさほど気にならなかった。

「きっとうちのポッキーも喜ぶと思うわ~」

 ポッキー?一体誰だろう?

 そう言って順子が軽くリードを引っ張ると、見た目厳つい大型犬のポッキーはのそのそとレオの目の前に出てきた。

 ちょっと待ってよ!ポッキーって顔じゃないじゃん!

 ポッキーに比べると小型犬であるレオがかなり小さく見えるほどの体格差。見た目で決めつけるのは良くないが、ポップで可愛らしい名前と随分ミスマッチしているようにレオは感じた。想像していたポッキーと違っていたこともあり、レオは怖気づいてしまっていた。しかしその一方、ポッキーは驚いた顔をしている。何をそんなに驚いているかは分からなかったが、先に「ワン」と話しを切り出したのはポッキーからだった。

“お前、レオか…?会わない間に随分ちっこくなったなぁ”

“レオは僕なんだけど…。君、僕のこと知っているの?”

“はぁ?何言ってるんだお前。長い付き合いだろうが。久々過ぎて俺のこと忘れちまったか?”

“君こそ何言ってるの?僕、君と初めて会ったよ”

“…?あぁ、よく見ればお前だいぶ若いな。すまない、俺の勘違いか”

“そうでしょ?だってまだピチピチの一歳だもん!君は僕を誰と間違えていたの?”

“レオさ”

“何言ってるの?レオは僕だよ?”

“違う、お前じゃない。別のレオだ”

“別のレオ?”

「ほらやっぱり。レオとポッキーたら相変わらず仲いいわねぇ。あの子たちの言葉が分かれば良かったんだけどね。あんなに喋って何を話しているのかしら?」

 美智子や順子からすると、二匹の犬の会話はキャンキャンと吠えながらじゃれあっているだけにしか見えない。そんな微笑ましい光景を横目に、二人は予約していたことを店員に伝え、愛犬たちも引き連れて店の奥にあるテラス席へ移動した。




 美味しい!美味しい!

 美智子たちの後で運ばれてきた犬専用のランチは、家で出る食事より見た目が華やかで味は文句なしの美味しさだった。普段から美味しいものを貰っている自覚はあったのだが、それに勝るとも劣らない旨さに感激し、レオは夢中になって食した。それに比べポッキーの食事は量は少なく、質素なものだった。しかもあまり口にしていないようで、皿の上に盛り付けられたお昼が殆ど減っていない。

“どうしたの?お腹空いてないの?”

“いや食べようと思えば食べれられるのだが…。やっぱり違うんだなって思ってな”

“…ねぇ、レオは僕なんだけどさ。さっきから君が言う[レオ]って誰のこと言ってるの?流石に失礼じゃない?”

 先程から初対面の相手から誰か分からない[レオ]と比べられることに嫌気が差したレオは一旦食事を中断し、短い首を傾けてポッキーに訊ねた。するとポッキーは懐かしそうな顔をして、どこか遠くを見つめ、呟いた。

“俺の古い友さ。お前より前に美智子さんのところで世話になっていた奴だよ”

“え?僕の前にママさんたちと暮らしてた奴がいたの?”

 予想だにしない告白にレオは思わず美智子の方を見た。当の本人は順子と楽しそうにお喋りしながらランチを満喫している最中で、全く此方には気づいていない。

“ま、そんな悲しそうな顔をするな。美知子さん前見かけた時よりもずっと明るいぞ”

“そうなの?”

“そうさ。以前、前にいたレオを連れて来ず美智子さんだけウチに来たことがあったが…。その時は順子に細々と話し始めたかと思えば辛そうに涙を流していたからな”

“えっ、そんなことがあったの?”

 そんな姿今まで見たことない。俄かに信じられないがもしその話が本当で、朝比奈夫妻のどちらかでも悲しませたのなら許しがたい。

“お前一体何やってたんだよ!悲しませちゃダメだろ!”

と自分よりも前に朝比奈家で世話になっていたという奴に面と向かって云ってやりたかったが生憎どんな奴だか知らない。

“僕の前にいた奴ってどんな奴だったの?そんなに僕と似てた?”

“…あぁ似てたな。正直あいつが若返ったんじゃないかって見間違えるほどにはな。不思議なものだ”

“ふぅん。そんなに似てるんだ。僕とそいつ、何がそんなに似てるの?もしかして…顔?”

“…全部だな”

“全部?”

“顔も、人懐っこいところも、生意気なところも、馴れ馴れしいところも。…雰囲気も全部。言うなればあれだな、瓜二つってやつだ”

“へぇー、変わったこともあるんだね。そんだけ似てるなら会ってみたかったなぁ。ねぇ、そいつの名前なんていうか君は知ってるの?”

“だから最初に云ったじゃないか。[レオ]だって”

“…嘘でしょ?僕を揶揄うためのジョークだったんじゃないの?”

 作り話にしては少々内容てんこ盛り過ぎだと思い、騙されたふりをしながら冗談半分に話を聞いていたのに。

 困惑しているレオの表情を見たポッキーはしばし豪快に笑った後、話を続けた。

“初対面に近いお前を騙して俺に何の得になる。嘘じゃあない。そいつは、お前よりも前に美智子さんのとこにいた俺の友は[レオ]って名前だったんだよ。さっきっからそう云ってるじゃないか”

“だって…。あまりにも話が出来すぎてるからジョークだとばかり…。[レオ]って、僕と丸っきりおんなじ名前じゃないか!”

“だから俺もお前の名前聞いたとき驚いたんだ。まさか、ってな”

“じゃあ君が最後に、その[レオ]って奴に会ったのはいつ?”

“はて、どうだったかな。随分前だったから正確には覚えてないが…。多分二年くらい前だった気がする”

 二年前。僕がまだ生まれてないから、その頃に何があったなんて知らない。しかし僕より前に[レオ]が朝比奈夫妻と暮らしてたということ。僕にとっても似てること。それに加え僕と同じ名前だったというのはあまり気持ちいいもんじゃない。

 なんで僕にレオって名前をくれたの?僕は[レオ]の代わりなの?

これまで一心に受けてきた朝比奈夫妻の愛情は、自分に注がれていたわけではないのかもしれない。レオの心の中で何かがじわじわと広がって蝕み始めた。

 何故か一気に食欲がなくなったレオの舌では、さっきまで美味しかった料理の味を全く感じられなくなっていた。




 さ、レオの皿も片付けなきゃ。

 自分たちの夕飯も終わった美智子はレオのお皿を回収しようとしたが、皿の中身は全く減っていない。何故かずっとこんな調子で健康的な肉付きだったレオの体は徐々にやせ細ってきていた。なんとか食べてもらおうと朝からレオの好物を用意したが、口にしないどころか興味すら示してない。これなら上手くいくと思っていただけあって流石に美智子の表情は曇った。

「レオ今日も食べないの?最近全く食べないじゃない」

 ごめんねママさん。僕、食欲がないんだ。それに何だか体もだるいし…。

 ふかふかの寝床から起きる気力もなく、尻尾を少し上げて代わりに返事をする。

レオは順子たちと会って以来、すっかり元気がなくなった。毎度きっちり完食していた食事は日を重ねるごとに残す量が増えた。それに大好きだった散歩も拒否し始め、とうとう一日の大半を睡眠か、起きてもぼおっと寝床で過ごすだけになった。いくら美智子が声をかけ、頭を撫でようも、レオはこの場に留まっていないみたいだった。

「ねぇレオ。一体どうしちゃったの?ついこの間まであんなに元気だったのに」

 哀しそうに問いかけるで美智子であったがレオは返事をしなかった。

 …僕にも分からないんだ。ママさんか順子さんが言っていた[僕らの言葉]が伝われば何か変わったのかな。

 ホントは聞きたいことがいっぱいあるんだ。知りたいことがいっぱいあるんだ。伝わらないのがこんなに辛いなんて分かりたくなかった。体の内からゆっくりやってくる逃げられない寒さも。自分が単なる器であるような妙な空虚感も。

 考えすぎと体のだるさが睡魔の誘いを手伝って、レオの瞼はどんどん下がっていく。この状態で今眠ったらきっと、ロクな夢を見ない。それが嫌でレオはなんとか頑張って抗ってみるも、その抵抗は空しく終わった。




 あったかい。

 気づくとレオはどこか明るい場所にいた。全く見覚えのない場所で誰もいなかったが思いのほか怖くなかった。

ふと、どこか遠くのほうで自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。微かではあったが大好きなあの人達の声だ。辺りをキョロキョロと見渡すと朝比奈夫妻が穏やかな顔をして立っていた。二人はレオの目を見てもう一度、しっかりはっきり“レオ”と呼んだ。

 ほらやっぱり!僕のことだ!

 急いで駆けていくと美智子は年季を感じるあの優しい手でレオを抱きかかえ、勝はレオの頭を撫でて微笑んでいた。これは紛れもなく、二人から愛情を注がれていることを表していた。

レオの目から自然と涙が零れた。本当は不安で不安でしょうがなかったのだ。実は二人から愛されていなかったのではないか、と。

でも違う。それを体中から感じる人肌の体温が証明していた。二人はちゃんと僕をこんなにも愛してくれている。レオはパタパタと尻尾を振って喜んだ。

 ママさん、パパさん。大好き‼‼‼

 嬉しさのあまり、レオは美智子の顔をペロペロ舐めた。

「やめてレオ。くすぐったいわ」

 困ったように笑いながら美智子はゆっくりレオを降ろした。レオの足の裏からしっかりと自分の体重を感じる。

 ほら、僕は空っぽなんかじゃない。

 何だかくすぐったくて、その場でくるくる回って足が地についていることを確認する。

 僕は一体何を悩んでいたんだろう。

 自分の中で芽を出し、絡まってきた悩みの種はとうに枯れ、長いこと頭の中にかかっていた靄がキレイさっぱりなくなった。

 ママさん!パパさん!もう一度撫でて!もう一度名前を呼んで!

 再び二人の元に駆け寄って行こうとすると、真反対から悲しそうにレオの名前を呼ぶ声が聞こえた。レオは驚いて振り返ってみても誰もいない。しかし何度も何度も、聞こえてくる。レオがその声を聞き間違えるはずがなかった。

 変なの。パパさんもママさんもここにいるのに、なんで声がするの?

 この状況が分からなくなり、さっきまでいた朝比奈夫妻に訊ねようと体の方向を元に戻すと誰もいない。物音一つ立てずに朝比奈夫妻は忽然と消えてしまったのだ。驚くな、と言っていなすのには少々無理がある。

 あれ⁈二人とも、僕を置いてどこに行っちゃったの⁈

 どこに行ったかなんて検討つかないが、とりあえず追いつこうとレオは必死に走った。走った。走った。しかし二人の姿は全く見つからない。

 …嫌だ!嫌だよ!もう顔を舐めたりしないから!パパさん、ママさんの言うことちゃんと聞くから!いい子でいるから!だから、だから置いて行かないで!

 少しでも気づいてもらうため、レオは目一杯吠えた。どこに居るか分からない朝比奈夫妻へと届くように、聞こえるように吠え続けた。それでも現状は何も変わらない。

 どこに行っちゃったの?僕のこと、本当は嫌いだったの?

 レオは走り、吠え続けていたせいか、これまでにないほど体は疲れていた。しかし足を止めてのんびり休んでいる暇なんてない。

 一刻も早く見つけなきゃ。

 心でいくら思っていても足は全く動かず、喉はとうに限界を迎えていた。

 なんで?なんで…?

 力尽きてその場にしゃがみ込むと、再びレオに嫌な眠さが襲ってきた。しかし前と違ったのは、誰かがレオを起こそうと一生懸命体を擦っていたことだった。




「レオ!レオ!」

 うっすら目を開けるとレオの体を触れながらボロボロと涙を零している美智子がいた。レオが目が開いたことを確認するとよほど安心したのか、より激しく泣き出した。

 美智子の傍には勝もおり、心配そうにレオの見つめていた。これもまた夢の続きなのではないかとさえ思った。そうではないと判断できたのは腹から伝わる程良い冷たさと若干固めの診察台のおかげ。

頭や首を動かすのも一苦労のレオは目の可動域をすべて使って辺りを見回すと、やはり見覚えのある部屋の中だった。

「良かった」

 温和な笑顔が結び付かない渋めの声が頭上から聞こえた。少し上を向くと、いつもお世話になっている、二枚目風の神野医師の額には玉のような汗が残っている。神野は普段より暗めな面持ちでレオを見つめていた。

「今こうして目を覚ましましたが、いつ容態が急変してもおかしくない状態です」

 案外自分の体の異変は気づくもので、レオが目を覚ました直後に医師が言った意味も、意外なほどすんなり飲み込めた。それは今まで経験したことのない寒気や、目を開けるだけで精一杯だったのも関係しているかもしれない。

 やっぱりそうか。

 身体を動かすのは億劫だから、ではなく動かす力も残っていない。身体とは対照的に頭が冴え切って、この状況分析も容易だった。しかしいくらレオが冷静に受け入れようとも美智子は「嘘よ、嘘よ」と何度も嗚咽と共に吐き捨てている。その隣では勝が背中を擦って落ち着かせようとしていたが、美智子にはその配慮に気づくほどの余裕がない。

 医師には手を尽くしても救えない命があった。手の施しようがなくて看取るしかなかった命もあった。命の灯が消えて広がる悲しみの波。大体の飼い主が迎えるこのケース独特の光景を何度も体感してきた。だからこそ、その事実が嘘であってほしいと願う飼い主の気持ちは痛いほど知っていた。

 そんな状況でも例外はある。邪魔だから死んでくれてよかったなどの思考が駄々洩れの輩。これは様々な場面に立ち会った医師でも到底理解できなかった。そしてこの例外の中には理解出来るが賛同しかねることもあった。例えば我が子同然に愛するがあまり同じ遺伝子の子を複製する。

 つまりクローン技術を使って同一の個体を新たに誕生させる、とか。

「先生お願いします。なんとか助けてください!」

「…残念ですがいくら手を尽くしても同じ結果を迎えるだけです」

「それならもう一度、もう一度あの[レオ]を誕生させてください。お願いします…!!!」

 レオがいなくなってしまう、また死んでしまう。あの堪えがたい悲しみを思い出した朝比奈夫人は混乱と焦りから軽いパニック状態だった。それだから出た言葉なのかもしれない。かといって、神野はその頼みを直ぐに受け入れることは出来なかった。

 最近ようやく日本でもクローンに関する認可が緩くなった。それによって一般人でもDNAを元に複製依頼することは可能となった。その値段はお手頃価格とは言えない。それでもそこそこの需要があるので、もう数年経ったらクローン受注の値段も下がってもっと多くの人にクローン受注は広まる事だろう。

 しかし、いいことだけとは限らない。

 クローンで生まれた子がクローン元の子としてしか見られないことが起こりうる、ということだ。愛情が深ければ深い程、一個体として見られがちになってしまう。飼い主にとってはそうかもしれない。しかし本人たちはどうなる?

 クローンとはすなわち、分子・DNA・細胞・生体などのコピーとされているが、学者たちの中でも意見は分かれる。例えばそう、クローンとは年齢の異なる一卵性双生児だ、という見方。

 実は神野も『クローンは一卵性双生児だ』という側の立場だった。だからと言って違う意見はおかしい、と思ったことはない。人の意見は千差万別だし自分が正しいとも限らない。だからこそ。そういった類の依頼が入ったら、希望者とゆっくりじっくり耳を傾け、議論を重ねながら行っている。勿論、朝比奈夫妻も他の依頼者たちと同様に議論を交わして行った。

 しかし今回ばかりはちょっと話が違う。確実に朝比奈夫人は生まれてきたこの子を以前の [レオ]としてしか見ていない。つまり生まれてきたレオはレオとしてではなく、[レオ]として愛されてきたことになる。

 代用品。

 神野の頭の中でそんな言葉が浮かんだ。もし今立てた仮説のような日々を過ごしていたなら、この子は一体何のために生まれてきたのか。

 私はどうすべきなのか。

 医師は[レオ]も担当していたので[レオ]が亡くなったときの朝比奈夫人の落ち込みっぷりは今思い出しても胸が痛むほどだった。だから朝比奈さんの申し出を受け、協力した。その結果が今に至るのなら、再び行っていいものなのか。

 医師は衰弱したレオをちらりと見ると彼の目から涙が溢れていた。犬にも感情はあるが、人と違って彼らが涙を流すのは悲しいからではない。

そんなこと、頭では十分に分かっているはずなのに、彼が流した涙は哀しくて泣いているようにしか見えなかった。

 神野は拳を握り、下を向いて口を強く噤んでいると「わん!」と元気のいい鳴き声が部屋中に響いた。この部屋に犬は一匹しかいない。神野も朝比奈夫妻も驚いてパッと目を向けると、若干ふらつきながらレオはしっかり立っていた。ゆっさゆさと尻尾を振りながらもう一回大きな声で「わんっ!」と吠えた。


 …ママさんが泣いてる。僕がしっかりしなきゃ。

 

 その思いがレオを奮い立たせた。ほとんど力は入らないし、そもそも残っていない。けれど、無理を分かっていても動かなきゃいけない時がある。それは人間だけじゃなかった。レオの場合、『今』がその時。

“お願いだから泣かないで。僕はちゃんとここにいるよ。”

正直、現状立っているだけでも辛い。だけどそんなこと知ったことではない。この気持ちを伝えるという強い意志だけで立っていた。

「レオ…!」

 相変わらず美智子の涙は収まりそうにないが優しく抱きしめてくれた。いつの間にか手狭になった腕の中は、レオ自身がもうじき迎える最期には十分すぎる場所だった。

レオは腕の間から顔をひょっこり出して神野を見つめた。きっと自分がいなくなったら二人は神野を頼ると察したレオは神野と目が合ったのを確認し、ゆっくり瞬きして挨拶をした。

どうかお願いします、と。

 レオの想いが伝わったかどうか分からないが、神野はぎこちない笑みをしながら慣れた手つきでレオの頭を撫でた。

 あぁ、この人の手も優しい。

 レオは自分が死ぬところを見られたくなかった。二人が悲しむ顔を見たくなかった。だからひっそりと独りで死にたかった。しかし自分に近づく死に気づかれてしまうのも、案外悪くないかもしれない。

 自分の死を悲しみ、悔やんでくれる人がいるということは、その人達から愛されていたことを教えてくれる。

 さっき見た質の悪い夢なんかじゃない。この感覚は現実(リアル)だ。肌で直に感じ、想いを視覚し、しっかりと聴こえる。僕はなんで今まで疑っていたんだろう。

緩まっていく瞼の力に最期まで抗い続けたレオは、最後の力を一番愛してくれていたママさんに向けた。“ありがとう”その気持ちを一杯に詰め込んだ。

 しかしレオの眼に映った美智子の姿は、最後の最後に見たくない姿だった。

「レオ、レオ…!またすぐに会えるから…!今度はもっと長生きさせてあげるから、安心して戻ってきてね!!今度もあなたが大好きなもの揃えて待ってるから!今回はちょっと違うところはあったけど、何度生まれてきても私たちの家族で、あなたは[レオ]なんだから!!」

 神様が好意で、最後の夢として見せてくれたというのなら。それはとてつもなく残酷で、そして意地悪だ。

 ねぇ、僕は僕だよ?僕は他の誰でもないはずなのに、ママさんは誰のことを言ってるの?誰のことを言っていたの?愛してくれたのは僕じゃなかったの?愛していたのは僕じゃなくて別の[レオ]だったの?僕は[レオ]の代わりなの?じゃあ僕は、僕は…。


―僕は一体、だれだったの?


 その答えが分からないまま、レオは目を閉じたっきり二度とその目を開けることはなく、目を閉じたと同時にレオの頬には一筋の涙が空しそうに零れ落ちた。




 レオが死ぬ間際何を思い死んでいったか、なんて知らない朝比奈夫妻は以前の[レオ]と同じ墓にレオを埋葬し、再び色褪せた日々を迎えた。

 レオと過ごした時間の0.2倍速に感じるほど一日一日が長い。この時間スピードを元に戻す解決策は一つしかない。一度経験済みの朝比奈夫妻は身を以て知っていた。しかしその最適解ですら待たなければならない。

 それでもまた日常が訪れるなら。また会えるのなら。

 気が滅入ってしまう代償を払ってでも、手に入れたかった。その代償がお金であろうと、時間であろうと、確率が低かろうと、何だっていい。子供たちが一人立ちして、本当に一人でいる時間が増えた。夫もまだ現役バリバリで仕事をやっている。広い家でぽっかり空いた穴を、無垢な瞳で愛情を求める[レオ]が埋めてくれた。ただただ、美智子は[レオ]が好きで、好きで、たまらなかった。…本当にそれだけだった。

 勝の方は美智子の心の傷を知っていた。日に日に弱っていくレオとともに美智子自身も少し思いつめたような顔をしてため息をつくことが多くなっていたから。そして、知っていたからこそ何とかしてあげたくて必死に探した。探して…見つけてしまったのだ。民間でクローンを取り扱っている事例を。運よくレオのDNA情報を記すもの。要はデータとなりうるものを[レオ]が死ぬ間際、すんでのところで残しておくことが出来た。

 民間で取り扱っているにしても、事例は少なかったので[レオ]が亡くなってから随分時間がかかった。それでも生まれたてのレオが来たときは心底ホッとした。美智子の表情はまるで花が咲いたようだった。そこまでは良かった。

 美智子がやってきた子犬にレオと名付けてからだ。少しずつ変わったように感じたのは。レオに[レオ]を重ねて見るのではなく、重ねていた。

 一度死んだ者はもう蘇らない。いくら似ているとはいえ、あくまで似ているだけだ。そうだと頭の中で分かっていても、美智子には言えなかった。とうとうそのことに関しては何も言えずにレオを亡くしてしまった。

 いくら物を落としても拾えるというのに、命だけは落としたら拾えない、拾ってあげられない。一度失った命は戻ってこない。


―戻ってこないにしても、繰り返すことは出来るのでは?


 そんな儚い希望からの始まりだったはずなのに。結局妻の背を擦り、零れ落ちる涙を眺めることしかできなかった。

 再び同じ涙を見るくらいならやらない方がいいのかもしれない。そう思っていたのに、妻はレオが目を閉じるすんでのところで、繰り返すことを望んでいる文言を口走った。もう一度痛い思いを味わうことになるかもしれないと分かっていても。

 辛いと分かって、美智子がそれを望むなら。

 勝が次にとる行動は既に決まっていた。例えその行動が不特定多数の人間から賛同を得られずとも、歪だと言われようとも。いつの時代のどの分野であっても、先駆者は周囲から理解されにくい。そもそも先駆者がいて、追随する者が出てくるのだから、そんなちっぽけなこと。ほんの少し時間が経てば誰も気に留めない。

 やることは一つ。

「暫く会えないけど、またすぐに会えるからな」

「…えぇそうね、そうよね。また会えるわよね。今度はもっとちゃんと迎えてあげないと」

 弱々しく笑う美智子の目に微かに光が差した。

 その目に光が戻るなら。

 その為なら、周りから吹聴されようと奇異な目を向けられても構わない。




 レオが死んで数か月が過ぎた頃。あの狂いそうなほど無機質な時間も今日でやっと終わる。その事実を念押しするかのように、普段使わない携帯に連絡が入った。

『これから連れて帰る』

 あぁ。あの子がやっと戻ってくる。その連絡をどれほど待ちわびたことか。

 連絡が入ってからも落ち着かずに部屋の中を行ったり来たりしていたが、カチャリとドアの鍵が開いた音が聞こえてきた。

 急いで玄関へ向かうと、男が大事そうに抱えながら連れて帰ってきた。

「ほら」

 そう言うと男は妻である女にそっと手渡した。またあの懐かしい感覚が女の手に戻ってきた。すでに一生分使い果たしたと思っていた涙がホロリと零れ落ちた。

この子が好きなものは既に新しい物を揃えてあり、迎える準備は万端だった。

「おかえりなさい、レオ」

 少し力を入れたら壊れてしまいそうなほど脆い、子犬のレオは朝比奈家にまた戻ってきた。その問いかけに返事をするかのように、たった今名付けられた子犬のレオは弱々しく「くぅん」と鳴くと、その鳴き声は水面に落ちた一粒の滴みたいに静かながらも部屋中に広がった。

 それはまるで、再び始まる二人と一匹の生活の合図のようだった。


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