9話・欲しいものは、手に入らないものです。
――近頃、サラの様子がどこかおかしい。
「おやすみなさい。……エリック様」
「……ああ、おやすみ」
同じ寝台に入ってきたサラは、前ならばぴたりとくっついてきたのに、最近は肩が触れるだけの距離を保っている。
そしてここのところ感じていた違和感の正体に、エリックはたった今、気がついた。
(旦那様と、呼ばなくなった……?)
いつからだろうか。
思えばあの村長の息子が訪れた日からかもしれない。
あれ以来、夫婦ごっこの頻度が極端に目減りした。
それでも、安楽椅子に座っている時に呼び寄せれば、ちょこんと膝の間に収まる。
暖炉の前で揺られながら眠るサラを胸に抱き、この家にある蔵書を少しずつ読み進めるのが、今やエリックの日課だった。
当然雪降ろしも、朝夕の二回は行っている。……指圧は拒絶しているが。
あれから村長の息子も何も言っては来ないし、サラものんびりと過ごしているようにも見えていた。
しかし、旦那様呼びだけが、なくなった。
それを寂しいと思う自分がいる。
エリックは自嘲するように歪んだ顔を片手で覆った。
雪がやんだら村を出る。ここには一時的に留まっているに過ぎない。――そう何度も言い聞かせた。
(明日も朝から雪降ろしだ)
もう寝なくては。
エリックがこぼしたため息は、雪の積もる音に消されて、薄闇へと溶けていった。
* * *
サラは傷ついていた。
エリックは他の人とは違うと信じていたのに、あの時確かに、『仮』と口にした。
サラが、『仮の妻』であると。
つまりはすべて嘘だったのだ。
ずっとは一緒にいてくれないのだ。
どれだけ尽くしても、雪がやめば行ってしまう。――サラの知らないどこかへと。
お隣さんが言った通りだった。
「……サラ?編み物はしないのか?」
安楽椅子に座って、本棚の真ん中あたりにあった詩集を読みながら、エリックが尋ねてきた。
サラは絨毯に座ってぼんやりとしていたが、適当に相づちを打ってから、ワンピースやブラウスに刺繍をしていたことを思い出し、針をちくちくと動かし始めた。
これは町に下りる際に、お小遣い稼ぎに売る服だ。
雪の雫という高価な宝石が産出されるルイミ村は、とくに働かなくとも収入はある。
それでも村の決まりとして、村人たちが一年を無事過ごせる量しかそれらを市場に回さない。
なのでエリックのように、雪の雫を探しに来て遭難する者がいる。
――そうだった。
エリックは雪の雫を探しに来たのだ。
つまりは、どこかにいるだろう、本当の妻になるべき女性へと贈るために――。
「サラ、こっちに」
優しく呼ばれて、やめておけばいいのに、サラはエリックの膝の間に座る。
彼は片手で本のページを器用に捲り、もう一方でサラの髪をくすぐる。
サラはちくちくと針を刺す。
「私は何か、……気に障ることをしたか?」
どきっとした拍子に、針が指の皮膚を貫いた。
ぷっくりとした血が浮き、それを後ろから見ていたエリックが、慌てた様子で自らの口へと含んだ。
指を食まれて、サラはどきどきする胸を押さえつけるので精一杯だった。
「だ……エリック様、もう、大丈夫です……」
エリックが最後にちゅっと指に吸いつき、サラはその手を胸へと大事にしまいこんだ。
「あとで薬をつけておくといい」
「はい。じゃあ、今……」
あげた腰は、すぐに戻された。
安楽椅子がぐらぐらと揺れる。
「まだ答えを聞いていない。私はサラに不快なことをしただろうか?」
「どうして、そう思いますか?」
「サラが旦那様って、呼ばなくなったから」
「……旦那様がいいのですか?」
「今さら変えられると、距離が開いたようで心許ない」
彼は今さらこの家を追い出されるとでも思っているのだろうか。
ここでサラが気まぐれに放り出せば、エリックは数時間もしないうちに死んでしまうだろう。
生きるために身売りをしなくてはならない彼が、サラにはひどく憐れに思えた。
「雪がやむまで追い出しはしませんよ。安心してここにこもっていてくださいね」
「……雪が、やむまで?」
「だって雪がやめば帰……っ、……わたしも気分転換に町に下りたりしますから。お花を摘んだり、木陰で寝転がったり、お買い物したり」
町には楽しいことがいくつもある。
村の人はあまり行こうとしないが、サラはたまに遊びに行く町も好きだった。
だから一度外へ出て行ったら、二度と帰っては来ないのかもしれない。
それでもサラは、雪に埋もれたこの不自由な暮らしを、嫌とは思わない。
どこへ行ったとしても、きっと最後にはここへ帰って来るだろう。――この、雪の村に。
「町に下りたら、サラの好きなものを好きなだけ買うといい。お金は気にしなくてもいいから」
「わたしの欲しいものは、町には売っていませんよ」
今サラが欲しくてたまらないのは、……好きなものは、今一番近くにある。
だけどこの想いは、エリックには届かない。
だって彼は、本当の旦那様になってはくれないのだから。
「サラは何が欲しい?」
腕がお腹に回ってきて、エリックの唇がサラの耳を掠める。
胸の奥がきゅんと疼いて、サラは誤魔化すために目を擦ってみせた。
「うぅ……ん。……眠くなってきました」
ふわりとあくびをしてエリックの胸にもたれかかると、頭の上で彼が苦笑した気配がした。
「おやすみ、サラ」
(おやすみなさい、……旦那様)
サラはまぶたを落とし、心の内側でだけ、そう返事をした。