23話・旅の終わりに見つけたものです。
サラが列車に乗るのは初めてのことだった。
もちろん旅をしたことも、これまでに一度だってない。
村で暮らすことが当たり前で、誰もが家の中で過ごすことを望んだ。
そんな育ち方をしたからか、出かけることさえめったになかった。
父親を探すという考えが浮かんだ時、同時にエリックに会いに行けばいいという考えも頭の片隅を過りはした。
だがもし、捨てられていたのだとしたら?
サラはエリックに迷惑がられ、捨てられた事実を突きつけられるのが何より怖かった。
だったら綺麗な思い出のまま心に秘めておくほうがずっといい気がした。
固い座席でもぐっすりと眠ったサラは、窓ガラスに額を打ちつけ目を覚ました。
もうすっかり朝だ。つまり、サラの誕生日。
額を押さえてここはどこだろうかときょろきょろとし、蒸気機関車に飛び乗ったことを思い出した。
果たして今はどのあたりにいるのだろうか。
曇っていた窓ガラスをこすり、外の景色を覗いてみる。
飛び込んできたのは目に染みるような深緑。その整然と並ぶ木々の間を、列車はずんずん追い越し進んでいく。
寝ている間に、本当に遠くまで来てしまったようだ。
王都に行くにはどこで乗り換えればいいのだろうか。
誰かに聞くのが一番だろうが、まず誰に聞けばよいのかわらない。
(大きな町に停車したら、一旦降りて駅員さんに聞こうかな)
そしていくつもの小さな町を越え、とある大きな駅で、降りようと座席から腰を浮かす人の数が多くなった。
いそいそとその人たちの後に続いて出入り口付近まで行き、サラは流れに翻弄されながら下車することに成功した。
ホームをうろうろしながら駅員を見つけて尋ねると、ちょうどここが乗り換えの駅だったらしく、新しく切符を買うように言われた。
サラは鞄をごそごそと探り、毛糸で編んだ財布からお金を取り出すとその駅員へと手渡す。そうして無事切符を買い、親切なことにどのホームで待てばいいのかも教えてもらえた。
ドーランが世の中悪い人ばかりだと言っていたが、そんなことはなかったらしい。
ベンチに座って色んな人を観察しながら気長に待っていると、やがて夜の気配を連れて列車がやってきた。
ふらりと腰をあげ、そこでふと隣を見て、サラはきょとんとした。
置いておいたはずの鞄がどこにもないのだ。
ベンチの下を覗いても、あたりをぐるりと探しても、それらしい鞄は見当たらない。
(鞄が、消えた……?)
誰かが間違えて持っていってしまったのだろうか。
お金だけではなく切符もしまってあったのに、すべて跡形もなく消えてしまった。
(どうしよう……)
お金がなければ王都に行くどころか、家に帰ることもできない。
腰を抜かしたように、サラはぽすんとベンチに逆戻りした。
目の前で汽笛を鳴らした列車が過ぎ去っていき、ぼんやりとそれを見送った。
やはりドーランに言われた通りだった。世の中、そんなにあまくはなかったのだ。
サラは一人、見知らぬホームで途方に暮れた。
何て災難な日だろうか。……誕生日だというのに。
泣きたい気持ちはどうにか押さえ込むと、みじめな気持ちのまま夜風に吹かれた。
もうどうしていいのかわからず、発熱した時のように頭がぐらぐらとする。
なくなってしまったものはきっと返っては来ないだろう。
せめてドーランにどこへ行くか伝えておけばよかった。伝えたら伝えたで、黙って行かせてはもらえなかったにしてもだ。
ここでこうして待っていても、村の人は誰も助けに来てはくれない。
本当は他の誰でもなく、エリックにこそ来て欲しいと思う。
恋しくなって心の中でエリックを呼ぶと、「サラ」と返された気がした。
「旦那様……」
もうすぐ、今日が終わってしまう――……。
――サラ、すまない。……だけど、愛してる。
切ないエリックの声が彼方から届いた気がした。
「わたしもです」
愛してる。――ずっと。彼だけを……。
* * *
――間に合わなかった。
宵の気配をまとい閑散とした乗り換えの駅で、エリックはふらりと途中下車をした。これ以上進む気力が失われたのだ。
サラの誕生日も、もうあと数時間で終わってしまう。
いくらエリックの気が急いでも、ルイミ村につくには、どうしても一日足りなかった。
あと一日。
時間通りに運行しない列車に焦燥感を駆られながら耐えて、ようやくたどり着いたのは最後の乗り換えの駅だ。
エリックはおぼつかない足取りでベンチに腰を下ろして、項垂れるように頭を抱えた。
もうサラの結婚式は終わってしまっただろうか。
もう、ドーランのものになってしまっただろうか。
これからは仲のよい幼馴染みから、夫婦に愛情の形を変えていくのだろう。
こんなことになるのならば、サラを言いくるめて強引に奪っておけばよかったという紳士としてあるまじき考えがエリックを支配した。
自嘲がもれて、泣きたくなった。
後悔ならばたくさんある。
それこそ数えきれないほどに。
だが一番の後悔は、サラがずっとここにいて欲しいと想いを口にした時に、自分のことばかり考えて頷かなかったことだ。
家族に生きていることを伝えたかっただけならば、手紙で済んだ。
けじめをつけるなどと綺麗事を言って、結局心の底では家に帰りたかっただけだったのだ。
自分のことしか考えずに、サラも家族もアマリーも傷つけた。
死んだことにしておけば、誰もそれ以上苦しむことはなかったのに。
いっそあの日、雪に埋もれて死んでいたら、こんな苦悩など味わうこともなかっただろう。
無垢な子供みたいな少女に、年甲斐もなく恋い焦がれることもなかった。
――だが、もう遅い。
ならばせめて、ドーランと寄り添うサラを見ても、何とも思わないくらいに心が痛みに慣れてから会いに行こう。
遠くからそっと様子を見てくるだけだ。
見苦しい言い訳をして、これ以上惨めな気持ちにはなりたくはなかった。
「……サラ」
名前をこぼすと、「旦那様……」というかすかな幻聴が聞こえてきた。
とうとうおかしくなってしまったらしい。
エリックは苦笑いのまま顔を起こした。
そこにはやはりサラの姿などあるはずがなく、ため息をこぼしてベンチの背もたれに身体を預けた。
サラはルイミ村から出られない。
だからこんな場所にいるはずがないというのに。
「サラ、すまない。……だけど、愛してる」
「わたしもです」
(…………うん?)
またサラの声が聞こえた。今度は、確かに。
エリックは周囲を念入りに見渡す。だがサラらしき人の姿はやはりなく、最後に忘れていた背後へと振り返った。
そこにいたのは背中合わせのベンチに座る女性。
エリックはその後ろ姿を見て、目を疑った。
風になびいてふわふわと揺れているのは、見覚えのある白金の長い髪だったのだ。