2話・今日からよろしくお願いします。
その温かさと柔らかさに、エリックはぼんやりと意識を取り戻した。
ちりちりと暖炉の薪がはぜる音を背中に聞きながら、エリックが初めに目にしたのは、少女の愛らしい寝顔だった。
二十八歳になったばかりのエリックよりも、だいぶ年下のようだ。もしかすると十近くは下かもしれない。
ならば、アマリーと同じ年頃だろうか。
しかし、自分と密着する彼女の身体はすでに女性そのものであり、体臭なのか花のようなあまい匂いまでしている。
平常時ならばやや焦りを覚えたかもしれないが、雪の中を彷徨い続けた身体は、まだ指先一つ動かすのが億劫なほどに疲弊しきっていた。
緩くウェーブがかった白金の髪に、透き通るような白い肌。――ルイミ族の血を引く証し。
死ぬ寸前で、たぶん彼女に救われたのだろう。
エリックは今のこの状況を、そう把握し、周囲に視線を巡らせた。
まるでドワーフでも住んでいそうな狭く天井の低い家ではあるが、すきま風もなく、室内は思った以上に暖かい。
木製の歪な家具や、編み物で作られた衣類やクッションや小物は、暖炉で揺らぐ炎が橙色に染めている。
ざっと見た感じ、やはり豊かな暮らしぶりではなさそうだった。
しかしここを追い出されれば、死は免れない。
どんなことでもするから、命だけは助けて欲しかった。
媚を売ってでも、生き延びたいと、エリックはそう思った。
そしてすがるように少女の身体を腕へと抱き込むと、再び深い眠りに落ちていった。
* * *
(金縛りだ……!)
サラはいつもの時間に目が覚めると、身動きが取れないことに慌てふためいた。
噂には聞いていたが、実際に自分の身に起こるとは。
おっかなびっくり目を開くと、そこには明かりを遮る大きな物体が存在し、更にパニックに陥った。
雪男に戒められているのかとも思ったが、触れた場所は温かい。
サラは自分を締めつけるこの存在が、どうやら人間らしいと気がついた。
「あっ」
そこで昨夜の出来事が思い出されて謎が氷解すると、今度は彼の身体の具合が気にかかった。
きっと寒さの記憶が強すぎて、しがみついてきたのだろう。
サラはのしかかる腕をどけて身動きを取れるようにすると、彼の顔色を窺った。
蒼白だった頬には、しっかりと健康的な赤みが差している。
ほっとすると、彼を起こしてしまわないようにそっと身を起こしてから、はたと気がついた。
(男の人と、一緒に寝てしまった……)
サラの脳裏に、祖母が言っていたことが蘇る。
――男女が閨を共にすると夫婦。
話もしたことがない人と、間違って夫婦になってしまった。
(どうしよう……)
しばし悩んだサラはちらりと彼を窺った。
どうやら背は高そうだ。ルイミ村の男性陣よりは劣るものの、体格もさほど悪くはない。
ならば、何の問題もないのではないか。
屋根の雪降ろしさえ手伝ってくれるのならば、旦那様に対する不満はないというのが単純なサラの考えであった。
しかし祖母に育てられたサラは、夫婦のことについては詳しくない。
何一つと言っていいほどに、無知だ。
お隣(と言っても一キロ先だが)の若奥さんに、夫婦の心得を聞いておけばよかったと少しばかりの後悔をしていると、彼のまつげがぴくりと揺れた。
「……う……ん」
「旦那様?」
呼びかけると、明け方の空のような群青色の瞳に、サラの顔が映り込んだ。
「おはようございます。旦那様」
あいさつをしたが、彼はまだぼんやりとしているのか反応が薄い。
「旦那様?指先はまだ痛みますか?」
彼は戸惑った様子だったが、自分の手のひらを握ったり開いたりして調子を確かめている。
「……ああ、もう平気みたいだ。ありがとう。――それで質問なんだが、その……『旦那様』、と言うのは?」
「こうして一緒に眠ったら、夫婦になるものじゃないのですか?」
「一緒に寝たら……夫婦?」
「違いましたか?わたし、両親がいなかったので夫婦と言うものは亡くなった祖母に教わった、『閨を共にする』ということしか知らないのですけれど……」
サラが素直に告げると、彼は考える素振りを見せた。とても困難な壁にぶち当たったような、難しい顔をしている。
サラは毛布に顔を半分埋めたまま、次の言葉が来るのを気長に待った。
「君は……」
「サラです。サラ・クライツェル・ルイミです」
「……サラ。君は会ったばかりの素性の知れない男を、夫にしたいと思っている……ということか?」
「屋根の雪降ろしを手伝ってくれるのなら」
この村の基準が街の人間には当てはまらないのか、彼は目頭を揉んでいる。
「屋根の雪降ろしくらいは手伝おう。それくらいは、当然させてもらう。しかし雪が止むまでの期間……私を、住まわせても平気か?」
「豪勢な食事は出せませんが、切り詰めたら何とか……」
「切り詰めたら、何とかなる?」
詰め寄られて、サラは首を竦めた。
「質素な食事は、お嫌ですか?」
「嫌という問題ではない。君がいいと言うのなら、私にとやかく言う権利はないよ。ここに置いてもらわなくてはどの道、……命はないだろうから」
彼は沈痛な面持ちでそう言った。
サラもよくわかっている。食事が嫌だからと、簡単に出ていけないことぐらい。
他人をもてなせるような食事が出せそうなところなど村中探しても見つからないだろうが、サラの家よりはましなところはいくつかある。
「……村長のお宅に、お願いしてみますか?」
彼はそれの提案を吟味することなく、すぐに首を横に振った。とても苦々しい表情で。
「村長の家には、すでに断られてる」
「わたしからお願いしたら、何とかなるかも。ドー……、村長の息子さんとは幼馴染で、いつもよくしてくれるから」
「それは村長の息子が君に気があるだけで……いや、待て。村長の息子って、かなり年上なのでは?」
「年はわたしと同じですよ。村長の奥さんは、三人目の後妻さんなので」
そう言うと、彼は露骨なほど嫌そうに顔をしかめた。
「私は好色な村長の家になど行きたくない。君がいいのならば、ここにいさせてくれないか?君が望むのならば、……旦那になっても構わないから」
「……旦那様はお嫌でしたか?」
「……嫌では、ないよ。それに、一人暮らしの女性の家に関係のない男が居座っていては体裁が悪いのも確かだ。サラがいいのなら、私は旦那でも雪降ろしの作業員でも、何でも構わない」
雪降ろしを手伝ってくれる優しい旦那様なら、文句なんて一つもない。
サラはへにゃりと微笑んだ。
「ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
「ああ、こちらこそ。助けてくれてありがとう、恩にきるよ。――私は、エリックだ」
「エリック……様?」
試しに名前を呼んでみると、よし、と頭を撫でられ、サラは火照った顔を俯けた。
なぜだか頰が熱い。
暖炉に薪をくべすぎたのだろうか。
エリックはそこでふと気づいたように、暖炉のそばで乾かしてあった外套を手繰り寄せた。そしてポケットをあさり、銀紙に包まれた小さな塊を取り出す。
「ああ、よかった。溶けてはいなさそうだ」
「それは?」
銀の包みを捲ると、中からチョコレートの欠片が現れた。
「わぁ!チョコレート?」
「好きか?」
「はい!……と言っても、昔食べたきりで味は覚えていないのですけれど」
するとエリックが表情をゆるめて、サラに最後の一欠片を差し出した。
「でも……」
「妻を優先させるのは、どこも同じだろう?」
エリックは紳士だ。
外套も仕立てのよいものなので、本物の紳士かもしれない。
サラはチョコレートの欠片を手にすると、彼の目の前でパキッと二つに割った。
「半分こ、しましょう?」
サラは一方を苦笑するエリックに渡すと、もう一方を自分の口へと入れた。
ルイミ村ではお目にかかれないチョコレート。
あまさと苦さが舌でとろりと溶け合って、サラの顔は自然とほころんだ。
それをエリックが、とても優しげな眼差しで見つめていた。