準備
クローセル伯爵家の屋敷から逃亡した名も無き私は、裏庭から繋がる山の奥深くへと侵入していた。
それほど険しい山ではないが、途中にはなにやら剣呑な雰囲気を漂わせる獣などもいたりして、中々の危険度である。
捜索隊が組まれたとしても、そうすぐにはここまでは辿り着かないだろう。
そう判断し、まず最初にすべき事を始める。
「ふぬ! ぬぐぐぐぐっ! ぐっ!? うぐおぉ!」
気合いを入れて身体を変質させる。
魂から溢れ出した力に触発されて、肉体が急速に活性化され、ちょっと有り得ない勢いで成長を始める。
高い霊格を持つ魂に相応しい器となれるように。
肉体がまるで意思を持つように、魂の形に適した器へと変質する。
変化は僅か数分という短時間で完了した。
完成したのは、二十歳程のナイスイケメン。
いや、まぁ、そういう風に作ったからなんだけどね。
良いじゃないか。好きにカスタマイズできるんだから、かっちょいい姿になったって。
髪の色は白。急激な成長による負荷で元の茶髪が抜け落ちて、代わりに完全に色の消えた白髪が伸びていた。
瞳の色は金色で、縦に割れた龍眼となっている筈である。鏡が無いから分からないが。意味? カッコいいだろう? それ以外に何か必要か?
身長は180後半。細身の筋肉に包まれた、細マッチョという奴である。
そして、全裸だ。
いや、仕方ないんだよ。
服を持ち出してくるのをすっかり忘れていたんだ。
赤ん坊の服なんて着られる訳も無いし、この大森林の中、素っ裸でいなくてはならないのだ。
「作るしか、ないのか……」
流石に化学繊維の類は作れないが、原始時代レベルの衣服なら幾らかノウハウがある。
ほんの少しだけ意識して知覚を伸ばす。
たったそれだけで瞬時に山全体を隅々まで把握した私は、近場の獣に向かって一直線に駆け抜けた。
自分でも驚きの速度が出た。
流石は神謹製。
強化人間時代とは比べ物にならない性能だ。
まぁ、あまり何かをするつもりもないから、宝の持ち腐れも良い所だけども。
ほぼ瞬間移動に近い速度で接触した獣は、勢い余って肉片と化してしまった。
「ありゃま。加減しなきゃならんね」
毛皮を取って服に加工しようと思ったのだが、回収するのも面倒なくらいの細かな肉片となってしまった。
性能が良過ぎるのも考え物だ。
その場で少しストレッチをして身体の感覚を掴み直しつつ、今度は抑え気味に別の獣に向かう。
それでも尋常ならざる速度だが、まぁ肉片になるほどではあるまい。
木々の隙間を抜け出た先にいたのは、体高にして二メートル半ば程もある巨大なサーベルタイガー風の生物だ。
風、と表現したのは、地球では有り得ない事に、四足ではなく六足だったからだ。
もしかしたら虫から進化したのかもしれない。
なんて考えつつ、無防備に突撃をかます。
獣らしく、私の接近に気付いて振り返るサーベルタイガー擬き。
私は構わずその顔に膝蹴りを叩き込んだ。野生生物に反応すら許さない速攻である。
自慢だったであろう鋭い牙が砕け散って、ついでに突き抜けた衝撃により、頭が破裂して脳漿が飛び散った。
しかし、被害はそれだけである。
目的だった獣皮は無事だ。
早速引っぺがしてなめし作業に移る。
久し振りの作業だ。
どうせやるなら楽しんで、徹底的にやろう。
そんな事を思いつつ、作業に没頭した。
…………
気が付けば、一か月以上の時間が経過していました。
集中し始めると周りが見えなくなる性質だけど、どうにも時間間隔も狂う性質も持ち合わせているらしい。
まっ、そうでなければ海底火山に千年も籠もる、なんて阿呆な事もしなかっただろうから、今更と言えば今更な発見だ。
ちなみに、この間、山の中に入ってきた捜索隊の類は皆無である。
伯爵家は、もしかして私の事を探す気が無いのでは? と思わんばかりにノータッチだ。
とはいえ、この山は地球では中々見られないくらいの強獣の群棲地だ。
そんな所に赤子が入れば、肉片一つ残さず食われている、と考えているのかもしれない。
尤も、戻る気も無いから探されるのは面倒なだけだし、放置してくれるならそれで良いんだけどね。
「うっし、完成ー」
色付けもしていない、簡単な貫頭衣であるが、全裸よりかはマシであろう。
何処かで衣服を手に入れられるようなら、早く欲しい物である。
苦労して作った服に対する執着?
そんな物、利便性の前には塵芥に等しい。
遥か原始の時代から現代まで生き抜いてきた人間の順応性を舐めんな、って話ですよ。
ともあれ、服を手に入れたので、ようやく本格的に行動開始だ。
といっても、地球でもそうだった様に、あまり人々の営みに干渉する気はない。
『神は君臨するだけで良いのだ。我が名を利用しようと捨て去ろうと、別にどうでも良い』
それが、私と神の間で交わした約束事である。
まぁ、当時は私は神ではなかったけれども、神の息がかかった常軌を逸した手駒だった事は確かな訳で、それ故に神と同じようにその約束を守って慎ましやかに生きていたのだ。
そして、今回もそうするつもりだ。
この世界を創り、管理している神がどんな奴かは知らんが、少なくとも私は人の世に深く干渉する気はない。
子供じゃないんだから、自分らでなんとかせいよ、という話だ。
「まっ、魔法には興味が無い事も無いんだけどね」
地球には無かったし。
いや、あるにはあったが、習得する前に廃れていたし。
別に私や神は何もしていないぞ?
さっきの約束事通りに傍観していただけだ。
魔法と呼ばれる文化文明が、科学の光の前に消滅していく様を眺めていただけである。
まぁ、そうしている内に習得する機会を逸してしまった訳だが。
私は神じゃないので、時間を巻き戻して消えた技術体系を抽出する、なんて離れ業も出来ないし。
とはいえ、無理に覚えたいとも思わない。
あれば便利かもしれないが、別に無くてもいい物でもあるので、チャンスがあれば、程度に考えておこう。
「技術レベルも知りたいし……ここは一つ、人類文明において絶える事なき土地へと行きますか」
いざ、戦場へ。