奈落
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深夜二時、家族は寝静まり、静けさが漂う日常。
「弟よ、説教タイムだ。そこになおれ」
私の怒りは頂点に達していた。私はノックもせずに部屋の中に突入し、鼾をかいて爆睡している弟を叩き起こした。
「お姉ちゃん。どうしたの? 夜這い?」
「腕をへし折られたくなかったら黙れ」
私が腹を立てている要因として、一番にあるのは私を巻き込んだことではない。それよりも他人の気持ちを組まない、暴虐部人とも取れる勝手な行動が許せない。私だけでなく、誰これ構わず標的にして巻き込んで不幸にするスタンスが気に入らない。
「お姉ちゃん。明日は仕事だって言ったよね」
「貴様に私の結論を言いに来たぞ。明日の仕事に同行する気はない」
これで『言いたいこと』を言った。明日の私に特にすべきことはない。だが、私はこいつの気まぐれのせいで戦うなんて御免だ。
「そっか。そうなんだ」
奴の微かな希望を打ち砕いてやったのに、随分とあっさり切り捨てるな。
「まあいいや。ちょっと確率が下がるけど、計画に変更はないし」
確率? なんの話だ? 私がいなくては、男性の方の悪霊を引きつけておく役割がいなくなるだろう。焦らないのか?
「お姉ちゃん。俺の焦り顔を見たかったのだろうけど、甘いよ。確かに悪霊を引きつけておく役割は必要かもしれないけど、それが絶対にお姉ちゃんになるって決まった訳じゃないよね」
……それは何か? 私が可愛くないと、そう言いたいのか?
「そりゃ、私は女子高校生だから……子供っぽいかもしれないだろうけど。それでも顔面偏差値は極めて高くて、膨らんでヘッこんで」
「俺のお姉ちゃんが自信過剰な件については置いといて、相手は悪霊ですよ。そんな容姿とか気にする展開にはならないでしょ。結婚式じゃなくて、お見合いの割合が高いんだから」
…………やっぱり馬鹿にされている気がする。
「問題は結婚したいって願望を持っている奴に吸い付くという話だよ。悪霊の目的は、全てローマの道に繋がるように『道連れ』の一文字だ。いわゆる自分と恋仲になって、そこから同じ死へと引きずり込むという展開だよ」
それは何か? 心霊スポットに行って、幽霊が見たいとか思って、取り返しのつかない状態に陥るようなあれだろうか。ちょっとした好奇心に漬け込まれるような、願望を叶えるがそこから奈落に落ちるような。
「じゃあ私が結婚したいと思うかどうか、ってのが重要で、それがなければ居ても無駄と言いたいのか?」
「そうそう。恋愛対象を探している奴だけが餌になるの」
自分の姉を『餌』って表現しやがったぞ。遂に本性を顕にしやがったぞ、この腐った陰陽師。
「だから……俺の準備は万端ですよ。お姉ちゃんは保険というか、まあ可能性を1%くらい増やすかって思惑だから」
私以外にも、一般の方々を利用しようとしているのか。こいつ、本当に誰でも彼でも巻き込むな。弟はベッドからのっそりと亀が甲羅から顔を突き出すように布団から這い出て、手を伸ばすと、とあるプリントを私に差し出した。
『モテない男子大集合!!
恋愛をしてみようじゃないか!!
明日、とある霊媒場のパワースポットにて
恋愛成就の恩恵を授かろう!!
企画:苫鞠陰陽師機関』
後は詳しい場所や日にちや開催時間まで書いてあった。通常のイベントが開催される場合の広告だと思って貰って差し支えない。
なるほど、弟は私以外にも様々な人材を用意していたのか。下手な鉄砲も数を打てば当たる。好みの相手も数が揃わなくては成し得ない。確率を上げるとはこういう意味か。
「お姉ちゃん。俺だってこんな汚い真似はしたくないよ。でも……陰陽師の世界の常識が変わったんだ。悪霊はまだ無限の増え続ける。俺たちだって絶対に悪霊を仕留めなきゃいけない義務がある。今回の作戦で犠牲が出ないとは言わない。でも、少ない犠牲で多くの市民を守ることが俺に課せられた使命だ」
……饒舌め。そういうのを言い訳と言うのだ。本当の正義の見方は絶対に少しの犠牲も許容しない。誰も傷つけようとしない。元の陰陽師はそれを忠実に守っていたはずだ。時の流れに呑み込まれ、楽をしようと逃れているだけだ。
「お前……それでも陰陽師かよ」
「どうだろうね。もう陰陽師機関という世界が崩壊した今は、俺みたいなフリーの陰陽師を、なんと呼ぶんだろうね」
自虐的だ。自分が悪いことをしているという事実は自覚しているようだ。
「言っただろ。金が必要なんだ。俺と俺の母親がこの家で暮らす為のお金が。悪霊を一匹でも多く始末して、国家から討伐金を頂かなきゃ。時代が変わったんだ、時代が……」
私は陰陽師の世界の規則など知らない。だから今の私にこいつを明確に否定することは不可能かもしれない。ざっくりと、概念的になら否定が出来る。しかし、それではこの腹黒弟を説得できないだろう。だから……言葉ではなく、行動で示さねばいけない。
「気が変わった」
「はぁ?」
「やっぱりお前の仕事を手伝うよ。式神だっけ? あの、折り畳み傘。借りておくから」