蒲牢
この瞬間を待っていた。奴は狡猾だった。
竜宮真名子は龍を司る血統。竜宮城とは元より龍の神殿。だから死体の皮だけでも彼女が水の巫女だと気がついた。全てが計画的だった訳ではない。麒麟の消失により危機を察知して訪れた事は事実だ。だが、その大妖怪は見つけてしまった。その女を。
須合正樹と偽った。その土地に住む人間を殺害して、顔を被り彼女に接近した。恐らく日本中でその蒲牢という妖怪を扱える人間は竜宮真名子、たった1人だろうから。だが、彼女は妖力を持っていなかった。代わりに悪霊の波長を胸の底に隠していた。
蒲牢だから察知出来た。咆哮を司る、誰よりも波に敏感な蒲牢だからこそ。その少女が陰陽師の才能を持っている事は間違いない。だが、不自然な波長をしている。この時にはただの疑問だった。だからこそ、自分がより強力な存在になれるチャンスだと思った。この得体の知れない暗黒に手を染めた。
その日から、イチかバチかの大博打が始まった。結果的に大当たりだったとしか言い様がない。蒲牢は賭けに勝利した。最強の陰陽師の力、最凶の悪霊の力。八岐大蛇をも倒せる絶大的なパワー、更には回復力に自然エネルギーを無視した能力。全ての運が巡り巡って蒲牢を無敵の存在へと変えた。
運と言えば自分の宿敵だったはずの化け鯨との再開もある。何もかもの条件が彼の元に舞い込んだ。龍の息子にして、パートナーは最強の陰陽師にして、最凶の悪霊である。その妖力は互いに供給し合うシステムだ。
「だが、俺には1つだけ悪条件があった。お前の意識が高すぎた事だよ。あまりにレベル4の悪霊として強力だから、妖力を奪い取る勇気が無かった。お前に契約を切られて殺されたらオシマイだ。だから、成仏なんぞ言い出さなかったら、このままの関係でも良かったんだけどな」
竜宮真名子の元の人格が意識を取り戻した。お陰で倉掛百花は正気に戻った、そのお陰で波長の主張権は蒲牢にもある程度は回復した。しかし、新たな問題が発生する。倉掛百花の人格が消えてしまうのだ。成仏なんぞされたら、折角苦労して……もいないが、舞い込んできた悪霊の力が消えてしまう。このまま竜宮真名子の式神ともならないだろう。化け鯨の再戦もお預けだ。
「さぁ、倉掛百花。俺に全てを委ねろ。お前の目論見通り、陰陽師を粉微塵に破壊してやるよ。その前に、あの時の屈辱を果たさせて貰う。殺してやるぜ、鯨野郎。お前が骨だけの姿に成り下がっている内に、俺は最凶の力を手にしたぞ」
…………この期に及んでまだ化け鯨と張り合ってる。私が突然の頭痛で意識が飛びそうな間に、勝手に御札から飛び出して来た。本来のサイズである巨大な姿である。空は飛べないので地面に四つん這いで着地して、雄叫びをあげる。その咆哮が衝撃波となり辺りを破壊しつくす。八岐大蛇によって出来た死体の山や、折れた木々、瓦礫や土砂までも吹き飛ばす。
「コッチにまで咆哮がっ」
上空にいた因幡辺も堪らず吹き飛ばされてしまった。倉掛絶花は、真下で衝撃に耐えている化け鯨の骨を握り締めて、辛うじて助かっている。蹲ったままの低姿勢が功を弄した。地面に降り立つと白溶裔にご主人を助けに行くように命じる。白溶裔は遥か空へと消えてしまった。
「勝手に暴れやがって。お前との契約を切ってやる」
「それをさせない手筈は整っているぜ。俺はお前がレベル4の悪霊に覚醒する瞬間も、お前から契約が離れなかった妖怪だぜ。この乙姫の身体は最大まで俺と相性が良いんだよ。俺の波長を魂の最新部まで染み込ませている。切り離せるものか」
狙いは倉掛絶花の式神である化け鯨だ。その後は好き勝手に暴れ回るだろう。残念だが今の段階ではこの愚か者を食い止める方法はない。折角、絶花と再開出来たのに。明るく楽しく最後を迎えられたのに。まさか成仏を式神が拒むとは。
「死にたいなんてそう言うなよ。俺は8匹も兄弟がいるが、他の奴なんて全く愛情はないぜ。お前もそんな細かい関係は気にしなければいいんだ。お前が好きなように生きろって色んな人から言われていただろ。それは生きていなきゃ始まらないぜ」
「ここでそういう良い言葉を言うなっ!! 利用したいだけの癖に……」
倉掛絶花は慌てていた。予想外にも程がある。心が落ち着いたと思ったら、今度は姉が苦しみ始めた。姉や因幡辺は天叢雲剣を捨てろと言ったが、やはり倉掛百花を殺すべきではないか。その思考が過ぎった時点で捨てられるはずがなくなった・
「お姉ちゃん……」
倉掛絶花の頼みの綱は化け鯨のみである。伝説通りならば、二度目の勝利を達成すればいいこと。倉掛百花には戦闘意思はないので、上手く立ち回れば勝てるかもしれない。しかし、そう簡単に行くだろうか。こんな心に深い迷いを抱える倉掛絶花が。
その時だ。聞いたこともないソプラノボイスが鳴り響いた。他の誰でもない、化け鯨の声である。契約を交わして以来、声など絶花ですら聞いたことがない。当然、他の連中に至っても。蒲牢さえも聞いたことがない、生の化け鯨の声だった。
「誰だ、お前」




