酒樽
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苦戦は必須。そんな事はわかっていた。八岐大蛇は日本最古の妖怪であり、その持つべき力は半端ではない。土、水、木の三種類の妖力を合わせ持つ複合体であり、不死身で巨大な山脈のような怪物である。幾千にも予習はしてきた。幾万の対策は施した。それでも、実力差が埋まらない。
蛇石までやって来た。ここまで土御門カヤノと倉掛絶花の二人だけである。伝説になぞり各配置に酒樽を設置した。蛇の弱点は頭部である。なるべく頭を狙って攻撃する。全てを相手にしていてはキリがない。九匹ある頭部の中の八匹を眠らせて、最後の一匹だけを仕留める。そう作戦プランを思い返す。絶花は息を飲んだ。それを薄らとした顔で見つめる土御門カヤノ。
長野県佐久市常和の山田神社の裏側。霊界で封印されている蛇石へと来た。ここに八岐大蛇が眠っている。封印開放の方法は、石の上に蛙を置くこと。次の瞬間に石は蛙を飲み込んで、瞬く間に巨大化した。祀ってあった祠など容易く崩壊する。
まず規格外だったのは妖怪のサイズである。石は巨大化が留まらず、蛇の形になる頃にはもう山脈となっていた。九頭竜という捕獲不能の妖怪がいる。絶花も遭遇した事のある巨大な妖怪なのだが、まだ見上げて顔が確認できた。しかし、今回の相手はそんな大きさではない。もう土地そのものと融合している。怪獣という大きさですらない。
咄嗟に土御門カヤノを乗せて化け鯨で上空へと逃げた。次の瞬間に驚くべき光景が連続して起こる。付近の八岐大蛇と融合した川が、鮮血に染まり上がった。まるで傷口から血流が湧き出したように、川が真っ赤な色に濁っていく。上流ではその鮮血が多すぎたのが、土石流が氾濫して洪水が発生している。川の氾濫により、破壊された跡地が蛇の鱗を思わせる鱗状砂洲へと変貌した。上空から山々が破壊されていく姿を見て、呆気に取られて声も出ない。口を大きく開けてひたすら困惑するしかなかった。
なんて作戦プランを練っていたのだが、それが笑えるくらい意味がなかった。相手は正真正銘の災害のような存在である。これが神々の領域。人間はいくら進歩しても自然界には叶わないとされるが、まさにそれを彷彿とされる瞬間である。これが天地創造時代に君臨した日本最古の妖怪なのだ。自分が取り返しのつかない化物を呼び覚ましてしまったという罪悪感が、絶花の胸を握り締めるかのように締め付けた。
「ねぇ? スマホゲームで描かれている八岐大蛇が、いかに原作を馬鹿にしているか分かったでしょう」
「スサノオはどうやってこんな化物を倒した……。もう完全に地形そのものじゃないか」
「これが原点にして頂点。複合属性の妖怪。八岐大蛇のオリジナルです」
絶花が泣きさそうな顔をしているのに対して、土御門カヤノはまだ余裕の表情である。なんなら楽しんでいる感じすらある。彼女の式神はのっぺら坊と野槌だが、二匹とも真面に戦って叶う相手だと思わない。絶花の化け鯨と唐傘お化けだって、もう相手にもならないだろう。頼みの綱は絶花が握り締めている天羽々斬だが、こんな先の折れている十束剣で致命傷を与えられるとは思えない。
「坊ちゃん、坊ちゃん。アソコを見てください」
絶望に浸っている絶花を無視して、土御門カヤノが指差す方向には酒樽があった。戦う前に設置しておいたのである。伝承通りの場所に等間隔で。丁度、奴が目を覚ました瞬間に目の前に現れるように。
「おい、まさか嘘だろ……」
「どうやら知能は低い妖怪みたいですね」
飲んでいる。2000年ぶりの封印開放で眠気が覚めない内から、目の前にあった酒を九匹とも疑いもせずに頭から樽に首を突っ込んだ。凄い勢いだった、飼い犬でももう少し遠慮しそうな感じである。好物を目の前にチラつかされて我慢出来なかったのか。2000年も酒を飲めなかったのが、よほど苦しかったのか。理由は考えても結論は出ない。
「酒を飲んで寝ちまったからスサノオに殺されたんだよな。だったら少しは警戒しないのか」
「まぁ、寝ながら封印されたので、それが原因とも覚えていないのでしょう。もうきっと、闘いの記憶とか忘れているのでしょうね。まあコッチとしては作戦に見事ハマってくれて好都合ですけど」
好都合、確かにそうだ。だが、こんなに簡単に倒せる相手なのだろうか。頭部が弱点だと睨んだが、そこを攻撃した事が原因で奴を叩き起こす結果にならないか。奴がこのまま眠らずに酔って暴れ回ったらどう対処するのか。奴が蛇らしく毒などの攻撃を持っていたらどうすべきか。本当にこのまま奴が酒を喰らう様を眺めているだけでいいのか。
心の中の不安が胸を染色する。姉を救いたい一心でこんな化物を倒す覚悟を決めた。しかし、今の自分の行動が姉を食い止める方向に繋がっているのか、不安で仕方がなくなる。絶望が脳裏を侵食して何事もマイナスに考えてしまう。この場から逃げ出したい。今抱えている不安を全て捨ててしまいたい。全力でそう思ってしまった。ただ、今更どこにも逃げられない。




