行灯
矢継林続期は立ち上がれなくなっていた。地面に這いつくばったまま動けない。地震が起きる際に起こる爆音は聞こえなかったが、その直面化に受けた振動のダメージは半端ではない。車酔いや船酔いなんてレベルじゃない。脳を麻痺させるどころか、体全体への虚脱感と感覚麻痺が矢継林続期を襲う。目が泳いで焦点が合わない。
「ねぇ。それでこれから私はどうすればいいの?」
「……あっ、あ、あ」
「話せないか。取り敢えず、この破壊しつくした体育館をどうにかしないとね。戦う前にカーテンを全部閉めといて正解。こんな破壊跡を一般人に見せられないもの」
だが、物を癒す能力や元に戻す能力は悪霊である柵野眼は持ち合わせてはいない。だから今まで通り、この学校に通っている全員の精神を支配して、この壊れた建物を違和感なく感じるように記憶に埋め込まなくてはならない。
「これ、殆ど私じゃなくてあなたの仕業なんだけど。私は建物は壊してはいないもの。こんなに床に焦げ跡を残しちゃって。まあいいや、喧嘩両成敗ってことで私が後片付けしておいてやるよ」
「…………」
柵野眼は優雅に立ち去ろうとした。宣告した通り矢継林続期を殺すつもりはない。陰陽師に相応しくないと思ったが、その気持ちも晴れていた。彼女も常人なならざる身体能力の持ち主だ。まああと三時間はマトモに立ち上がれないだろうが、深夜にでも自力で脱出ができるだろう。介抱してやるほど、柵野眼は優しくも甘くもない。
と、体育館の扉を開いて外へと出ようと思ったその瞬間だった。何者かの気配を感じてふと振り返る。そこには両足を震わせて、腕は力なく垂れ下がり、前髪で顔面が見えない角度で下を向いている矢継林続期だった。
「もう立ち上がれるのか。やっぱりお前も人間じゃねーよ」
「気張って見たけどやっぱり強いにゃあ。余計な意地は張らないにゃあ。アタシの負けを認める。本当にえすかぁ~」
「えすか?」
「うちの地元の方言で『怖い』って意味にゃあ。佐賀弁って一時期に流行ったでしょ」
「お前、本当に何キャラなんだよ」
彼女には見た目には外傷は少ない。立ち上がって声を発すのも辛い状況だろうが、なんとか両足を肩幅以上に開いて頑張っている。まだ顔面がよく見えないが少し半笑いなようにも見える。彼女の服装が巫女服からウェイトレスの姿へと戻り、泡を吹いていた猫又を御札に戻す。憑依装甲から解除された化け猫が彼女の身体から離れて地面に突っ伏した。
「にゃあ。猫が化け猫になる条件って知っている?」
「…………。そんなに詳しくないけど、確か歳を取ると、とかいう条件じゃなかったっけ。あと人の言葉を話すとか」
「それも合っているにゃ。でも実は、化け猫かどうか見分ける方法の中に間違った判断方法が世の中に浸透してしまったことがあるにゃ」
そう言いつつ、残った項垂れている化け猫の方も御札の中に回収した。そして、やはり立っていられないのか、その場に女の子座りでヘナヘナと座り込んでしまった。
「昔の人は油を舐める猫は化け猫と信じていたにゃあ」
昔の時代は電気なんてなく、ライトや電灯は無かった。代わりに夜の闇を照らしたのは、江戸時代に普及した行灯が照明器具であった。枠に和紙を貼り、火皿に油を入れて点火して、風で光源の炎が消えないように作られている。持ち運ぶもの、室内に置くもの、壁に掛けるものなど様々な種類がある。
「油と言ってもガソリンじゃなくて、昔は安価な魚油を使っていたにゃ」
猫は完全肉食動物で野菜は口にしない。しかし、生きていくためにはビタミンは必要である。だから、油からビタミンを摂取しようとして、行灯の油を舐めてしまったのだ。その時に行灯にもたれ掛かるポーズが垂直立ちしているように見えたらしい。
「今の猫ちゃんだって実は油を舐めるにゃあ。だから、別に行灯の油を舐めるのは猫の習性の一つであって、化け猫の証明じゃないのにゃ」
「何が言いたいの?」
少し冷徹に苛立ちを交えながら彼女に問う。矢継林続期はそんな恐怖は慣れっこのように、特に動揺する仕草も見せず悠々と応えた。
「人間の思い込みって恐ろしい事だと思ったのにゃ。例え事実と違っても、知識として多くの人の知識となり拡散してしまう。妖怪事件や悪霊騒動にも、実は一般人に伝わっている内容とは食い違ったストーリーになっている事が多いにゃ」
柵野眼は少しだけ頷いた。それは身を持って体験してきたことだ。あの温羅の時に知った桃太郎や、竜宮真名子の出身地であった浦島太郎伝説のように。
「思い込み」
「そうにゃ。実は法的な、又は科学的な根拠など全く無くとも、人間は思い込みだけで考えを固めてしまう。自分は正しい。自分は被害者だ。そうやって自分の狭い世界の中で裁判を閉廷してしまう」
それはどういう意味なのだろうか。思い当たる節が全くない。心当たりと思える事がない。
「そうね、それは怖いわね。でも、それがなに?」
「いいや、ここで話はおしまいにゃ」




