本望
その目は邪悪そのものだった。恐怖に怯えていた姉の姿などどこにもいない。その虚ろなる姿が、背筋を凍らえた。狂気を孕み、混沌を統べて、全身から悪夢の波動を垂れ流す。存在自体が毒の塊。
倉掛絶花でも竜宮真名子でもない。そこにいるのは、柵野眼だ。
「なんだよ」
姉に牙を向くモノがいた。主を殺されて制御不能になり今にも暴れだしそうな大百足である。こちらも平安時代に暴れまわった悪名高い大妖怪なのだが、あの姉に比べるとまだ可愛く見えてしまう。まるで大百足からは覇気を感じない。いや、大百足は弱体化などしていないのだが、あまりにもお姉ちゃんの波動が強大過ぎるのだ。近くにいる大百足の波動を掻き消すように。
しかし、大百足は知性を持たない獣だ。姉がどれほど自分と比べて勝負にもならない程の実力の差があろうとも、そんなことは関係ない。目の前にいる捕食対象に向かって全速前進で突き進むだけ。毒を注入して弱らせてから捕食するだけ。それだけが大百足の脳内にある。
だから、お姉ちゃんに向かって襲いかかった。
次の瞬間には顎は外れていた。
倉掛百花がムカデを心の底から苦手にしていることは唐傘から聞いていた。見ただけで軽く失神し、悲鳴をあげて怖がる。通常のサイズのムカデであろうとも家から逃げ出すほどに。まあ女子高校生ならば百足が好きな奴など毛ほどもいないだろうが、姉のそれは常軌を逸する程の毛嫌いだった。
それがまるで嘘のようである。
右手で払いのけるような仕草をしたのだ。それだけで大百足の顎は粉砕されて粉と化した。泥人形を破壊するかのように、かなり造作もなく破壊したのだ。顔色一つ変えず、無表情のまま。虚ろに大百足を眺めて。
「顔面が無くなった」
絶花が逃げることしか出来なかった強敵を一撃で仕留めてしまった。それと同時に絶花も自分の身の危険を察知する。姉は果たして自分をなんだと思っているのか。解釈を間違えば……自分の姉に殺される。
だが…………。まだ標的は絶花ではなかった。大百足は頭部が完全に無くなったままでも足を動かしたのである。ムカデは即死はしなかった、狂ったように暴れ回ったのだ。大抵の虫は死んでもしばらく脊髄反射で動く。ムカデは生命力が強いのでその時間が嘘みたいに長い。まさかそれが妖怪もだなんて。
だが、それも無意味だった。
「やめろよ。この姿でもムカデは嫌いなんだよ」
姉が小さな声でそう呟いた。その言葉に『姉は今までの自分の自我があるのかも』という希望が見えた。姉は何もかも頭から消えてしまったのではない。そう感じ終えた辺りには、ムカデの姿は跡形もなく消え去っていた。姉のその言葉によって、バラバラになったのだ。
最後に姉が一言。
「言刃」
そう言った。それからしばらく絶花は声が出せなかった。呆気にとられてぼーっと姉を眺めていた。
「絶花、迎えに来るのが遅い」
しばらくすると普通に話しかけてくる。あまりにも今の戦いが衝撃的だったおかげで絶花は呆気にとられている。驚愕と恐怖の面から普通の顔に戻らない。足が震えて動かなく、手が痺れて麻痺している。呼吸もおかしくなっていることに気がついた。肩が上下に動き嗚咽のようになっている。
「お姉ちゃん」
「絶花。ちょっと質問があるのだけど」
……その言葉が怖かった。姉は表情が変わらない。虚ろに地面を眺めたまま、両手は力なくぶら下がっている。そのポーズである限り、絶花は安心できないのだ。あの勇猛果敢でハキハキした姉がいなくなってしまった。
「な、なに?」
「甘いもの食べ過ぎじゃない? 死にたいの?」
この言葉、返答を間違えれば殺される。そう思ったが、何が正解で、何が不正解など1つも分からない。だから、もうここは正直に答えるしかなかった。
「糖尿病で死ねるなら本望だと思っているよ」
「そっか。じゃああんたはそれでいいや」
どうして脱力した姉が生活習慣病について質問したのか定かではないが、どうしても今の一言を楽観的に捉えられない。自分などいつでも殺せる。そういう意味にしか聞こえなかった。いや、それ以上に怖かったのは、もっと別の解釈が出来るからだ。まるで……。
陰陽師を根絶やしにするような。
「明日から学校でしょ。私もあなたも。だから家に帰りましょ。迎えに来て貰っておいて、この態度はないって自分でも思うけど。お姉ちゃん、ちょっとリニューアルしたから、しばらくこの口調を我慢して。今から私一人で帰れないし、化け鯨に乗っけてよ」
今までの倉掛百花の記憶はある。別に自我が死滅したようにも見えない。そしてまだ自分を弟だと思ってくれている。今の自分が安全なのが、逆に怖かった。見逃してもらっただけの自分が。
「そりゃあ、俺だってそうしたいけどさ。お姉ちゃん、どうやってあのでっかいムカデを倒したの? ムカデが嫌いなのにさ」
「嫌いだから殺したのよ。それとこれはレベル3以上の悪霊には特権的な能力が目覚めるの。変身能力はもういらない。本当の自分の固有能力を取り戻したの。それをあのムカデに試し切りしてみただけ? もういい?」
固有能力があるのは本当だ。レベル3の文献通りである。だが、それが今までの柵野眼の『変身』を司る能力ではなく、また別の能力に目覚めたのだとしたら。姉が本当にレベル4になってしまったのだとしたら。もう陰陽師では誰も止められない。
★
「待って、待ってよ。お願いだから待って、真名子」
絶花は声の主の方へ振り向く。その声は聞き馴染みのない声だった。




