裸足
皆で協力して一丸となって勝利を目指す。お互いに戦い合えば、拳を交えれば分かり合えて仲間になる。だからムカデ社会なのだ。この社会はある括りの人間と共同を余儀なくされ、それでいて誰かと戦っていなければならない。
薄暗い霊界の平野を月の光が照らす。その眩い光がムカデの漆黒の甲殻を煌めかせた。そして、その巨大な牙も。全身から垂れる殺意のオーラがこの辺一帯を包んでいる。人を襲い殺した過去のある大妖怪。その妖怪が持つ禍々しい妖力の波動は吐き気を催す。ムカデながらに気色の悪い笑顔が感じ取れるのだ。
「お姉ちゃんの趣味も漫画鑑賞なんだよ。お姉ちゃんの部屋には漫画が沢山あってさ。今時の漫画じゃなくて古本屋で昔の漫画を買うみたいだけど」
「俺も漫画は大好きだぜ。共通の趣味を持つっていうのは夫婦としていい事だよな」
「でもね。漫画ってやっぱり空想なんだ。どんなに人物観察したって、実在した人物を元に描いたって、それは所詮は真っ赤な偽物。フィクションなんだよ。どんなに格好良く、さも正しい事を漫画のキャラクターが言っていても、それは『現実』なんかじゃないよ。三次元的な正しさなんかどこにもない」
よく耳にする言葉だ。『漫画が私を成長させてくれた』。『この漫画のキャラクターのおかげで人生を前向きに生きている』。そうじゃないだろ。現実世界なんて人間の脳みそで思い描く世界なんて、現実味がない。
「漫画は人生の教科書になんかならない。だって人間の心は多種多様だ。だからこの世界に悪霊が生まれた。漫画のように上手い落としどころなんて存在しない。どの人間にだってハッピーエンドもバットエンドもない。人間には夢も希望もない。それから目を覆い尽くす為に、人間は他の誰かの描いた偶像に身を染めるんだ」
「フィクションを現実にすることが悪霊を消し去る唯一の方法じゃないか?」
「違う。フィクションなどという嘘っぱちから目を背けないで、ちゃんと現実を見ることが悪霊を倒す唯一の方法さ。戦い合っても分かり合えない。協力しててもお互いの心は分からない。人の痛みなんか所詮は分からない。ご都合主義なんて存在しない。この残酷が現実なんだ!」
陰陽師が戦い合えばいいなんて暴論だ。今、ようやく沈静化しつつある平和を乱すわけにはいかない。人間は夢を見てはいけない。それが他人と戦う理由になるから。人間は希望を持ってはいけない。それはきっと他人が受けるべき希望だったから。必要以上の幸せを求めてはいけない。それは誰かを必ず不幸にしているから。
人間は他人を不幸にすることでしか、幸せになれないからだ。
「俺はそうは思わない。漫画の世界が現実と遠いのは分かっている。でも俺は諦めない」
「やめろよ。その『絶対に諦めない』ってやつさ。それが日本を駄目にしているんだよ」
★
戦いは唐突に終わった。
向かい側の湖から何者かが途端に姿を現したのだ。竜宮城の乙姫様の格好をした十二単に羽衣という格好で、まるでお人形さんのような姿だ。水に濡れて長髪が絡まってしまっている。その目は虚ろで、かなり血色が悪い。靴は履いておらず裸足のままだ。両手には何も持っていない。手は頼りなく垂れ下がっている。顔の向きも自然と地面を向いている。
「お姉ちゃん!!」
絶花は声をあげた。が、全く姉は反応しない。それを見ると七巻龍雅があっさりと絶花に背を向けて、彼女の方へ歩いていった。とても馴れ馴れしく肩に腕を乗せると顔を近づけた。
「なぁ。俺の部下の二人はどうなったか知らないか? さっきから姿が見えないんだが。まだ寝る時間でもないだろうに」
「死んだ」
「はぁ?」
その冷め切った凍える声に絶花は息を呑む。自分が知っている姉じゃないことが一瞬で分かった。今までの倉掛百花は妖力を持っていなかった。しかし、彼女には悪霊と陰陽師、その両方の妖力を感じる。それを常識的な数値じゃない。まるで圧縮されたエネルギーのような、測定不能の塊が見える。
「気づいていないの。あなたの部下は、あなたが旅立つ前に悪霊に殺されていたのよ。あなたに付いていく陰陽師がいるはずないでしょ。今まで私たちが一緒にいたのは、偽装した悪霊よ。まあ、その二人ももうこの世にはいないけど」
「なにを言っているんだ? あの二人がいないなんて」
七巻の声に少し恐怖が混じっていた。彼女の異変に少しずつ気がついたのかもしれない。肩に乗せていた腕を下ろし、驚愕の顔で虚ろう百花を見つめた。それを認めないように少し怒り顔で七巻龍雅が百花を睨む。
「おい、どういうことだ。乙姫、説明してくれよ」
「馬鹿!! 離れろ、七巻龍雅!! ソイツはお姉ちゃんじゃない!!」
と、絶花の個性にも似合わず大声で叫んでみたのだが、完全に遅かった。彼女が忍ばせていた短刀が七巻龍雅の腹を直撃した。白いスーツが一瞬で血に染まる。返り血を浴びて血まみれになる百花。しかし、顔は全く動じていない。それどころか、一瞬だけクスッと笑った。
「ど……どう……して……」
力無くその場に倒れる七巻。それをまるで野生動物の死体を見るような嫌悪した顔で見つめる姉。絶花もこの唐突な光景には言葉を失った。あの常識人で優しかった姉が、目の前で殺人犯になってしまったのだから。霊界は警察の入り込める余地はないが。
「殺害動機は名前を間違えたからよ。私の名前は『乙姫』じゃない。柵野眼よ」




