唾液
震える右腕を必死に左手で押さえた。大きく振りかぶって女子らしい投げ方で放り投げる。奴が噛み付いてこないことが不思議なくらい、かなり百足とは接近していた。どんなに下手な投げ方でも、この距離ならば外さない。そう直撃したのだ。爆風が私にも飛んできた。衝撃派は崩れかけていた窓ガラスを破壊し、花瓶を倒した。まるで震度の高い地震にでもあったかのような光景となる。
当然、あんな図体の大きいムカデにはクリーンヒットしたに決まっている。そして、全くのノーダメージであった。奴が笑っているかのように見える。まるで無意味な抵抗をした私を嘲笑するように。結論は唐傘に聞かずとも分かった。以前に唐傘は虫の妖怪が苦手であると言っていた。それは奴が土属性であることを意味するからだ。私の式神は両方とも水属性。相性が最悪なのだ。それを差し引いても、あの強靭な甲殻の前には並みの攻撃では歯が立たない。衝撃波では致命傷どころかダメージにすらならないのだ。
ムカデの口先から垂れる紫色の液体。煙を帯び、ムカデの息の荒い呼吸と共に地面へと滴る。ムカデには毒がある。あれに触れれば皮膚が腫れる程度の怪我では済まないだろう。絶体絶命だ。
「弱点があります……」
微かな声で唐傘が私に話しかけた。今にも消えてしまいそうな風前の灯火のような声で。
「奴の弱点は伝承では『唾液』でございます。効果がないように思える気持ちはわかりますが……実はそれで撃退できるのです。唾液を付けた矢で射抜いたことで藤原秀郷は大百足に勝利したのです。地元の方は未だに一般的な百足にも唾液を付けることで駆除できると思っている人もいるくらいです」
ありがたい情報だが、どうやって唾液を奴に付けると言うのだ。今の私に弓などという都合の良い武器はない。まさかあの黒い殻を舐めろとでもいうつもりか。そんなことをするなら死んだほうがマシだ。
「万事休すかな……助けて……絶花」
頼みの綱はそこしか無かった。もう動く気力も残っていない。助けを呼ぼうにも声が出ない。怖くて足が動かない。防犯ブザーを武器としてではなく、救援要請として使う手段もあったが、悲しいことに先ほどの衝撃と共に破裂してしまった。もうこの手は使えない。食べられる……もう抗う手段がない。泣いても笑っても助からない。絶花が助けに来るなんてそんなご都合主義なこともない。
「もう……いや……」
それにしても疑問がないと言えば嘘になる。奴が攻撃してこない。まるで誰かの指示を待機しているかのようだ。そう思い、ふと奴がこの家に侵入してきた経路である庭の地面の穴を注視した。すると……。
「よっこらせ」
今度は男が現れた。細身の体つきだが身長はかなり高い、180cmはあるだろうか。真っ赤な髪の毛に、学ランをきている。まさか高校生なのだろうか。耳には赤いピアスをつけている。恐らく1世代前の不良を意識してのアレンジだろうが、それにしては刺繍で髑髏のマークを縫い付けてあったりと、奇抜な衣装が色々とセンスを間違えていて気持ち悪い。この前の黒鬼を使う緑画高校の陰陽師とはまた違った意味合いで変な服のセンスだ。陰陽師って今まで服の自由を制限されていたから、いざ自由になって感覚が狂ってしまい、こういう間違った認識で服を着こなしているのではないか、そう考察する。
穴から来たということは、ムカデを操る陰陽師だろう。このデカブツのご主人様だ。片手であのムカデの腹を触っているのだから間違いない。よく障れるな、私なら右手を切断したくなる。どこか余裕のある表情を見せながら、しっかりと私の方を見ている。地面から這い出ると、真っ直ぐ靴を脱がずに私を方へ近づいてきた。どうやらターゲットは私らしい。
「なんでこんな真似をするの? あなたここの地元の陰陽師? もしかして、縄張り争いで他の陰陽師と陣取り合戦しているとか?」
奴は返事をせずに、ただ首をゆっくりと横に振った。
「じゃあ緑画高校の生徒? 世直しとか考えているの?」
「違う」
今度は即答した。あっさりと。どうやら会話を拒んでいる訳ではないらしい。だが、余裕のある顔つきで私をずっと見ているのは変わらない。
「じゃあなんで私みたいな人間を攻撃するの? あなたの目的はなに?」
「俺の目的は……そうだな。色々とあるが、どんなことをするにも手順というものがある。俺はその第一ステップをしている」
意味がわからない。もう後ろに構えているムカデのせいで冷静になれない。
「ずっとあんたを探していた。俺はあなたに合う為にここまで来た。俺はあんたを守りに来たんだぜ。だってあんたは俺の戦争に必要な女だからな」
「…………はぁ?」
「一緒に来てもらうぜ。倉掛百花、いや竜宮真名子!! あんたが記憶を忘れているようだから教えてやるぜ。お前は長年に渡って行方不明になっていた竜宮城の乙姫様の子孫で、龍王の巫女なんだぜ」