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五月雨記念日

作者: 草津 辰

 


 激しい五月雨が地面を濡らす。空気は湿り、人々はせわしなく雨を避けられる場所を探している。

 そんな雨の中、やっとのことで梅雨を避けられる場所を見つけた一人の少年が溜息を吐く。少年は左手につけている黒いシンプルなデザインの腕時計を見る。

「くそ、間に合わない……梅雨をなめてたな」

 そう呟き、再度深い溜息を吐いた少年。どうやら豪雨のせいで予定していた用事に間に合わないようだ。彼は河川敷に架かる橋の下で、雨を避けていた。

「チカに電話するか……」

 ズボンのポケットから携帯電話を取り出し、慣れた手つきで電話帳の〝千佳〟と書かれた項目を選択する。

 携帯電話を耳に当て、三回目のコールで千佳が電話に出た。出たのだが、言葉が聞こえない。少年は恐る恐る、もしもしと声をかけた。

『朝倉……遅いよ……馬鹿野郎』

 朝倉の耳に届いた声は、不機嫌な、女性の声だった。

 ああ、確実に怒っている……。

 朝倉は、雨に濡れて体が震えてるのか、それとも千佳の声で震えてるのかと考えたが、どう考えても声を聴いた瞬間に膝が笑っている事実はぬぐえなかった。朝倉は千佳に頭が上がらないようだ。

『今日、雨降ってるしな……それでか』

「自転車で行こうと思ったんだけどさ……」

『馬鹿だな……今週はずっと雨だぞ。確認しないから……』

「はい、すみません。ごめんなさい。申し訳ありません!」

『謝罪は一度でいい……。迎えに行くよ、どうせ傘も持たずに、あの河川敷の橋の下に避難してんだろ』

「ご名答です。ありがとう、恩に着ます」

『別にいい……後で……覚えとけよ』

 不気味な捨て台詞を聞かされてから、電話を切られた朝倉の胸中は到底おだやかな気持ちにはなれず、目の前を流れる川のように荒れに荒れている。いっそ川に飛び込んで逃げてしまおうかと、朝倉は川を眺めながら思った。


 謝罪パターンを何個も頭の中で再生しつつ、朝倉は千佳の到着を待った。電話をしてから二十分くらい経過した頃、突然背後から背中を叩かれ、驚きつつも朝倉は振り返る。

「待たせたな」

 打撃の犯人は千佳だった。短い黒髪が、少し雨に濡れている。上は英字がプリントされている半袖の黒いTシャツ、下は七部丈のタイトなジーンズという服装。右手にチェック柄の赤い傘を差し、左手には黒い傘を携えている様子を見るに、おそらく先ほどの凶器は黒い傘だろう。

「ほら、貸すよ」

 千佳は凶器を差し出す。会釈しながら、それを受け取る朝倉。

 なんとなく、二人はすぐに動く気になれず、日も雨も当たらない橋の下にたたずむ。

「あの、怒ってるよね?」

 朝倉が千佳の顔色を窺う。

「むろんだ。記念日がどれだけ大事なものか、お前は全く理解していない」

「どう償えば……」

「さぁな」

 そんな殺生な、と朝倉はうなだれ、力なく、息を吐く。

「溜息の多い奴だな」

 あきれたように笑って、千佳は赤い傘を畳んだ。千佳の言葉を聞いて、朝倉が苦笑いを浮かべる。

「溜息製造機と友達に言われているよ……」

「もっと実のあるものを製造できないのか」

「ケーキなら作れる」

 ショートにチーズ、何でもいけるぜ。ちょっぴり自慢だ、と朝倉は笑う。

「それはいいな、じゃあ今日、なんか作ってくれよ」

「それで機嫌、直すか?」

 不安げに千佳を見つめる朝倉。千佳は、頭に手を当てる。そして、

「きっと直る。……よし、そろそろ行こう」

 雨は、少しだけ弱くなっていた。


     *


「アサ君、遅い、遅すぎる! 雨の中で自転車走らせて、すっころんでんじゃないかって心配したよ!」

 目的地であった千佳の家に朝倉がたどり着くと、千佳の妹であるヒナが二人にタオルを持ってきてくれた。千佳には手渡しで、朝倉には力いっぱい顔面に投げつけて。

「まぁまぁ、ヒナ。今日は朝倉がケーキ作ってくれるらしいぞ。そんな頭ごなしに怒ってやんなよ」

千佳が、ぷりぷり怒るヒナをいなす。

 今日は、記念日。

 朝倉とヒナが彼氏彼女の関係になった記念日。

 千佳は、なんとか機嫌を直してくれそうなヒナと、少し安堵して笑顔になった朝倉を見比べる。

 あれからもう、一年が経つのか。

 千佳は、二人を残して自室に向かう。昔の記憶を振り返りながら。


     *


 私が朝倉と仲良くなったのは、二年前。高校二年生の頃だった。

 当時から私は全然女らしくなく、男から言い寄られたことなんて、なかった。なんの手違いか、女子に告白されて心底困惑したことは何度もあったが。

 私はどうにも、上手くできないのだ。良くも悪くも、裏表がなく、男に対しての仮面を作ることができない。女だけで集まるときは陰口をバンバン言ってる人が、男の前だと清純派を装うなんてのは、ざらにある。私には、それができない。駄目なとこが見えたら、仲の良い相手でも、指摘をしてしまう。それで、大概嫌われる。

 繊細なしぐさも、柔らかい笑顔も、可愛い言葉遣い、絵文字たっぷりのメールも私にはとても遠いものなんだ。髪だって、短いし。それで、私は私なりに苦悩の日々を送っていたんだ。愛読していた少女漫画の主人公のようになりたいなんて、馬鹿みたいなことを考えたりしてた。

 

 だから尚更、あの日のことは今も明瞭に思い出せる。


 あの日の私は、ヒナが誕生日にプレゼントしてくれた、髪飾りを着けて学校に行った。赤い小さな花のついたヘアピン。派手すぎないから、お姉ちゃんも気に入ると思うな! と満面の笑顔でヒナがくれた大事なヘアピン。

 私は普段ヘアピンなんてつけないから、妙に緊張しちゃって、手に汗をかいた。女友達に、ついに千佳も女になったか、なんて言われた。元から女だと全力で突っ込んだのは言うまでもない。

 放課後、日直の仕事があって、私は夕日の差し込む教室に一人残っていた。学級日誌を書いていると、突然教室のドアが開いて、

「ん、佐々木、仕事中? 邪魔しちゃった?」

 朝倉がいつもの申し訳なさそうな笑みで、私を見ていた。

「別に、邪魔じゃない。杉田は?」

 杉田も今日、日直のはずなんだが。

「あいつ、弟が病気したらしくて、面倒見るからって早く帰ったよ。佐々木によろしく言っといてくれと頼まれた」

「そう、わざわざありがとう」

「どういたしまして。あ、杉田の代わりに、仕事手伝おうか」

 朝倉は、お人好しだった。

 よく言えば優しい。クラスで困っている奴を見つけたら必ず、なにかしら力になろうとする。容姿も、まあ……そこそこ良いので、クラスの人気者だ。だが、誰にでも優しくして、特定の人に肩入れしないせいか、良い人で止まっちゃうのよねー、とか一部女子に評されていた気がする。

「いや、別にいい。もうすぐ日誌書き終わるし」

「そっか。ん、黒板、消すくらいなら手伝っていいか?」

「あ、ああ。ありがとう」

 そういえば消し忘れていた。朝倉並みの身長を私は持っていないので、正直助かった。黒板の上方にかいてあった白い文字を、軽々と朝倉は消していく。

「よし、終わった」

 朝倉が両手をはたきながら私に近づいてくる。そして、私の座る席の隣に朝倉は座った。私はそれを気にも留めず、日誌の続きを書いている。

「綺麗だな、それ」

 なんのことかと思った。発言の意味がわからなかった。

「ヘアピン、佐々木、似合うな」

 世界がひっくり返るかと思った。

「に、似合うか?」

 世界の前に声がひっくり返って、もうなんか顔がすごい熱くて。でも、朝倉は挙動不審な私を馬鹿にすることもなく、感心したような声で、

「似合うよ、赤っていうのが佐々木らしいと思う」

 そんな風に言ってくれた。

 父親以外の男の人に褒められたのは生まれて初めてで、びっくりした。そして、嬉しかった。

 女子として見てくれたんだろうか、なんて考えて、それで、私は。

 朝倉のことが気になるようになったんだ。


 それから私は以前より朝倉とよく話すようになった。

 あの日、一緒に帰ったときに好きな歌手の話になって意気投合したのがきっかけで、CDの貸し借りとかをするようにもなった。

 私は人を好きになったことがなかったから、自分の気持ちがよくわからなくて、何度も、眠れない夜を過ごした。しだいに、朝倉が私を名前で呼んでくれるようになって、でも私は照れくさいからメールの中でだけ朝倉を名前で呼んだ。

 日に日に、朝倉との距離が近づいていくのを感じた。

 このまま仲良くなれれば。近づいていければ。

 いつか、朝倉と一緒に、同じ道を歩けるかもしれない。

 けれど、それは、私の勘違いだったんだ。

 私達の距離は、確かに近づいていた。

 友人、としての距離は。


 その相談をされたのは学校帰りのファミレスだった。

「千佳の妹のこと、好き、かもしれない」

 その一言で、全てがわかった。

 私は、同じ道を歩けないんだということが。

 私と、朝倉の間では、好意の違いがあったということが。

 大事に、胸にしまってた言葉は、一生、言えなくなった。


 ヒナと朝倉は同じ部活に入っていて、先輩、後輩の仲だった。

 ヒナから朝倉の話を聞くことも結構あった。すっごく良い先輩だと、ヒナは笑っていた。

 朝倉の話をするとき、心なし、ヒナの顔が赤らんでいたことを、私は見ないフリをしていた。

 ヒナと朝倉は、両想いだった。

 それを知ってしまった夜、私は布団に潜って、声を殺して、嗚咽を噛み砕いて、目から涙をこぼした。涙は一晩中、止まらなかった。泣きながら、よく考えたら、当然じゃないかと思った。そりゃ、男の人は、ヒナを好きになるよ。ヒナは私と正反対。長い黒髪は人形のように綺麗で、しぐさも女らしくて、明るいワンピースが似合って。本当に、女の子なんだ。そして、私の世界で一番大切な妹。朝倉は一番大切な友達。

 一番大切な二人が幸せになるなら、私は、私はそれが幸せだ。


その後、キューピット役を私が買って出て、一年前の今日、朝倉とヒナは恋人になった。

こうして、私の初恋は終わった。


     *


「千佳、寝てんのか」

 朝倉が、千佳の部屋のドアをノックする。返事はない。聞こえているかわからないが、朝倉は言葉を続ける。

「千佳。ケーキ焼けたぞ。おかげでヒナちゃん、機嫌直してくれたよ。ありがとな」

 このとき、部屋の中で千佳は起きていた。けれど、変に昔のことを思い出してしまったために、非常に朝倉に会いづらい心境だった。

「冷蔵庫に入れておくから、起きたら食べろよ。……あと、」

 あと、なんだろう。千佳は布団の中で聞き耳を立てた。

「覚えとけよって言ってたやつ、俺、何でもするから、いつでも用件言ってくれよ。あー、でもバック買ってとかは勘弁な……お金、今月厳し」

 ガチャリ、と千佳の部屋のドアが開いた。

「バックを貧乏人に買わせる女と思われていたのなら、心外だな」

 よろよろと、明かりに眩しそうに目を細めながら、千佳が暗い部屋から出てきた。

「なんだ、起きてたのか」

「ん、今さっきな。別に金銭的なもんは求めてない」

「じゃ、なにすればいい?」

 少し長い、沈黙が二人を包んだ。

「手」

「手?」

「握手、して」

「え、そんなんでいいのか?」

 コクリと千佳がうなずく。

「……そしたら、私は前に進める気がすんだ」

 真剣な千佳の顔。そして、言葉の真意を朝倉は気づいたのか、顔つきが硬くなる。

「千佳……」

「うるさい、余計なこと言うなよ、馬鹿野郎。お前はヒナと結婚すんだから、私はお前の義姉さんになるんだぞ。その誓いだ」

 無理があったかな、と千佳は思った。しばらく人は好きになれないかもしれないけど、とりあえず、今のモヤモヤを消したかった、消す前に、好きだった人の手に触れてみたかった。

 心の中でヒナに謝る。ごめんね、一度だけだから。

 二人は、強く握手を交わして、はにかむように、笑った。


     *


 二年前に、毎日思い描いていた道とは違うけど、家族として私達は同じ道を歩いていくんだ。私は、大切な人達の幸せを見ることができるんだ。

 いつか、出会えるんだろうか。私のことを選んでくれるような人に。男勝りなところを直さなきゃ駄目か。いや、直さなくていいって、言ってくれる人がいい。前に進んでいこう。

私は、私の新たな始まりの記念日を部屋のカレンダーにチェックした。

次の日、五月雨はやんで、澄んだ五月晴れが私を迎えてくれた。



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