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第8話:獣の告白

歌舞伎町の空に浮かぶ残月が、ビルとビルの谷間に冷たい光を落としていた。





 非常階段の暗がりに潜む栗原智は、己の書いた「インスタント・フィクション」を遠藤に代筆させた後、ふっと憑き物が落ちたように


はぁーと息を吐いた。



そして、ぽつりぽつりと、その胸の奥底に溜まりきった真っ黒なヘドロのような真実を吐き出し始めた。







「……遠藤。俺はなぜ、こんな浅ましい『ネコ』に成り下がってしまったと思う?」







 暗闇の中から問いかけられ、遠藤は答えられなかった。






 お笑い界の表舞台に立つはずだった天才が、なぜ首輪をつけて成金社長に飼われ、ゴミ捨て場で大声ギャグを叫んでいるのか。想像もつかなかった。









「才能が枯渇したからではない。世間に絶望したからでもない」







 栗原の声は、恐ろしいほどに凪いでいた。







「俺は……自分が『天才ではない』と証明されるのが、死ぬほど恐ろしかったんだ」








 その一言は、深夜の路地裏に重く響いた。








「俺は、自分の才能が本物であると信じたかった。だが、心のどこかでは常に疑っていた。だから俺は、決して自分のネタを舞台という『現実』の砥石で磨こうとはしなかった。観客の前に立ってスベれば、俺の才能が凡庸なガラス玉に過ぎないとバレてしまうからだ。


 ……同時に、自分はお笑いの天才なのだと半ば信じていたからこそ、お前たちのようにテレビのひな壇に座り、泥にまみれて大衆におもねることもできなかった」






 己の珠(才能)に非ざることをおそれるがゆえに、敢えて刻苦して磨こうともせず。



 また、己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々(ろくろく)として瓦に伍することも出来なかった。




「その結果が、あの松戸のアパートでの引きこもり生活だ。




俺は世間との関わりを一切断ち、『大衆の知能が低いから俺の笑いが理解できないのだ』と他者を見下すことでしか、自尊心を保てなくなった。





 だがな、遠藤。








『笑い』というのは、圧倒的に他者を必要とする芸術なんだよ。

絵画や音楽と違い、笑いは観客の『反応』があって初めて成立する。




他者を完全に拒絶した密室で、笑いなど生まれるはずがなかったんだ。俺は芸術家を気取りながら、その実、笑いの最も根源的なルールから逃げ回っていただけの、卑怯な臆病者だった」






 栗原は自嘲するように、喉の奥でククッと笑った。






「その『臆病な自尊心』と『尊大な羞恥心』が、俺の内側で少しずつ、人間としての理性を喰い殺していった。俺の心は、他者とコミュニケーションを取ることを放棄し、ただ己の虚栄心を満たすためだけの、醜い『獣』に成り果てていたんだ」






「……だからって、なぜこんな……飼いネコなんかに……」




 遠藤がたまらず口を挟むと、栗原の目が、暗闇の中で悲哀に満ちた光を放った。





「発狂したあの夜、俺は歌舞伎町を彷徨いながら気づいたんだよ。プライドを保ち続けることは、あまりにも苦しいと。




 自分の頭で考え、ゼロから何かを生み出し、それを評価されるという恐怖。それに耐えきれなくなった俺の精神は、極端な逃避を選んだ。











 ……『何も考えず、ただ命令されるがままに動き、即物的な報酬をもらうだけの存在になりたい』と。








 つまり、思考を放棄したペットだ。









俺の知性を面白半分で蹂躙してくれる金城社長に出会った時、俺の獣としての本能は歓喜した。猫耳をつけられ、一発ギャグを強要され、チップという名の餌を与えられる。そこには、芸術家としての産みの苦しみも、スベる恐怖もない。ただ、絶対的な飼い主への隷属と、条件反射の快楽だけがある」








 チャリン、と。






 風に揺れた栗原から、挟まっていた硬貨が落ちる音がした。









「俺が最も軽蔑していた『条件反射の笑い』。それを自分自身が体現し、首輪に札束をねじ込まれる屈辱こそが、皮肉にも俺の肥大化した自尊心を破壊し、安らぎを与えてくれたんだ。



俺は、虎や狼のような気高い獣にすらなれなかった。



酒場の一抹の夜にお遊びになる低俗な人間たち捌け口

という飼い主に媚びを売り、去勢された惨めな『お笑いネコ』になるのが、俺の精神の終着点だったのさ」









 遠藤は、寒さとは別の理由で全身が震えるのを感じた。





 かつて幕張のステージで千人を支配した男の、あまりにも残酷な末路。その痛切な告白に、どんな慰めの言葉も無意味だった。





 誰もが多かれ少なかれ持っている「自尊心」と「羞恥心」。





栗原はただ、それが人一倍強く、純粋すぎただけなのだ。その純粋さが、彼を芸人の芸としてのプライドから追放してしまった。








「……だが、一番の地獄はこれからだ」








 栗原の声が、ふっと弱々しくなった。





「俺の中に残っている『芸人としてのプライド』は、日に日に薄れている。最初は一日数時間だった獣の意識が、今では一日の大半を占めるようになった。





 このままいけば、あと数日で、俺の頭の中から『栗原智』という芸人の記憶は完全に消滅する。





自分がかつて人間だったことすら忘れ、ただチップに群がり、卑屈な声で鳴き続ける本物のネコになる。











 ……遠藤。俺は恐ろしい。







人間としての自分が消えていくのが恐ろしい。






だが、それ以上に恐ろしいのは……完全に獣になってしまえば、俺はこの『自分が獣に成り下がったという絶望』すら感じなくなり、ただ生きていけるのだという事実だ。




俺の魂は、その完全なる堕落を、どこかで待ち望んですらいるんだよ」





 夜明けが近づいていた。






 ビルの谷間から見上げる空が、黒から深い群青色へと変わり始めている。





栗原に残された「芸人としての時間」が、刻一刻と砂時計のように落ちていくのが、遠藤にも分かった。







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