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第7話:インスタント・フィクション

歌舞伎町の雑居ビルの隙間。



ネオンの光も届かない湿った暗がりの中で、非常階段に身を潜めた栗原智の声が、不意に静かな、しかし異様に澄んだトーンに変わった。



 先ほどまでの、狂乱と羞恥にまみれた獣の叫びではない。かつて千葉大学の部室で、ホワイトボードを前にして笑いの構造を冷静に解体していた、あの「白学才子」の知的な響きだった。




「……遠藤。俺の頭の中には、まだ『人間・栗原智』としての意識がわずかに残っている。

だが、それも時間の問題だ。


あと数時間もすれば、俺は再び、首輪に千円札をねじ込まれて卑屈な声で鳴く、ただの『お笑いネコ』へと戻ってしまうだろう」




 栗原の息づかいが、暗闇の中で微かに震えていた。





「俺は、金城という成金社長の店で飼われている。




あいつは俺がかつてプライドの高い天才芸人だったことを知っていて、その知性を徹底的に汚し、大声で一発ギャグを叫ばせることに至上の喜びを感じている悪趣味な男だ。




そして恐ろしいことに……今の俺には、その屈辱が『安らぎ』にすらなりつつある。

思考を放棄し、金銭の重みだけで評価されることに、獣の脳が快楽を覚え始めているんだ」





「栗原……お前……」





「頼む、遠藤。俺が完全に理性を失い、言葉を忘れる前に、一つだけ聞いてほしいことがある」




 ガサリ、と非常階段の錆びた鉄が鳴った。

 栗原の気配が、わずかに遠藤の方へと身を乗り出したのがわかった。





「俺は松戸のアパートに引きこもっていたあの狂気の夜、一つのネタを書き上げた。


かつて俺が『大衆への媚び』だと軽蔑し、決して書こうとしなかった、ショート・コントだ。



俺の芸人としての、最後の遺作だ。……これを、お前の手で書き留めてくれないか。俺が生きていた証として」




 遠藤は無言で頷き、コートのポケットからスマートフォンを取り出した。




 メモアプリを立ち上げると、液晶の青白い光が、ゴミ袋の山と遠藤の顔を薄く照らし出した。その光の届かない階段の上から、栗原の静かな声が降ってきた。





「タイトルは『条件反射』だ。設定は、サーカス団の檻の中。一人語りでいく。……いいか?」






 栗原が語り始めたのは、極めてシンプルな一人芝居だった。




 それは、プライドの高いライオンが、毎日鞭で打たれながら火の輪をくぐるうちに、いつしか「火の輪を見ると、鞭で打たれる前に自分から喜んでくぐり抜け、観客に拍手を要求するようになる」という、滑稽でブラックな寓話だった。




 難解な哲学用語も、何重にも張られた伏線も、そこには一切なかった。




 言葉は極限まで削ぎ落とされ、リズムは軽快で、フリとオチのコントラストは残酷なまでに鮮やかだった。観客の想像力に負担をかけず、開始十秒で設定を理解させ、三十秒で展開を裏切り、六十秒きっかりで爆発的な笑いを生み出す。





 遠藤の親指が、スマートフォンのフリック入力をしながら微かに震えていた。




 ――面白い。






 悔しいほどに、圧倒的に面白いのだ。





 もし、このネタを15年前のオーディションで披露していれば。もし、この構成力と狂気を、深夜番組の1分間のコーナーにぶつけていれば。栗原は間違いなく、時代を象徴する大スターになっていただろう。

遠藤たち「えんどう豆」など足元にも及ばないほどの、圧倒的なカリスマとしてお茶の間の覇権を握っていたはずだ。









「……オチは...............こうで.............こういう動きで......................暗転、だ」






 栗原の朗読が終わった。





 歌舞伎町の路地裏に、深い沈黙が降りた。遠藤はスマートフォンの画面を見つめたまま、言葉を失っていた。

 それは、栗原が最も軽蔑していた「インスタントな笑い」の、一つの究極の完成形だった。





「……凄いよ、栗原」





 遠藤は、絞り出すように言った。




「これは……傑作だ。構成も、間の取り方も完璧だ。今すぐテレビでやっても、絶対に爆笑を取れる。どうして、お前はこれを……」









「皮肉なものだろう?」







 暗闇から、自嘲するような、乾いた笑い声が聞こえた。





「あれほど大衆を馬鹿にし、難解な笑いこそが至高だと信じていた俺が……自分のプライドが完全にへし折れ、発狂し、獣の思考を手に入れた今になって初めて、大衆の心を完璧に掴む『一分間の笑い』を書くことができたんだ。自分が消費される側、見世物小屋のペットに堕ちて、初めて観客の欲望というものが理解できた」






 栗原の言葉には、血を吐くような後悔が滲んでいた。




「だがな、遠藤。お前ならわかるはずだ。このネタは確かに『ウケる』だろう。だが、ここには『俺の魂』がない。技術だけで組み上げられた、ただの空虚なインスタント・フィクションだ。


俺は、自分が本当にやりたかった芸術を完成させるだけの才能がなかったから……結局、自分を殺して、こんな大衆向けの安っぽい皮肉を書くことしかできなかったんだよ」







 遠藤は、何も言い返せなかった。







 かつての名だたる芸人が言っていたように「第一流の作品となるには、どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがある」と感じたように。






 遠藤もまた、この完璧に面白いショートコントの中に、栗原がかつて持っていた、あの圧倒的で孤高な「熱」が完全に失われていることを痛感していた。


 これは、天才・栗原智の作品ではない。絶望し、世界を諦めた「獣」が吐き出した、ただの血の塊だった。








「書いてくれて、ありがとう、遠藤。俺の芸人としての未練は、これでようやく形になった」







 暗闇の奥で、カチャリ、と金具が鳴る音がした。








「……だが、なぜ俺がこんな姿になってしまったのか。俺の心がいかにして人間から獣へと堕ちていったのか。その本当の理由を、お前はまだ知らない」


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