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第2話:白学才子、幕張に立つ

歌舞伎町の底知れぬ闇の中から聞こえた、絞り出すような拒絶の声。




 遠藤慎二は、非常階段を見上げたまま動けなかった。ネオンの喧騒が遠のき、記憶の底から強烈な光がフラッシュバックする。




 それは、今のような薄汚れた路地裏の光景とは対極にある、まぶしすぎるほどのスポットライトの記憶だった。







 ――時計の針は、かつてあった華やぐ春へと巻き戻る。







 2006年、4月。千葉大学・西千葉キャンパス。







 新入生歓迎のビラ配りでごった返すメインストリートで、遠藤は「お笑いサークル・白菊」の古びた立て看板の前に立っていた。



お笑いブームの波に乗り、軽い気持ちで見学に訪れた遠藤の目に、一人の異質な新入生の姿が飛び込んできた。





 それが、栗原智だった。





 周囲の学生たちが、テレビで人気のギャグを真似てどんちゃん騒ぎをしている中、栗原はパイプ椅子に深く腰掛け、一人静かに文庫本を読んでいた。



プラトンの『ソクラテスの弁明』だったと記憶している。お笑いサークルの部室にはおよそ似つかわしくないその横顔は、不機嫌そうに歪められ、周囲の喧騒を明確に「見下して」いた。





「……お前ら、さっきからうるさい。笑いの構造が根本から間違っている」





 先輩芸人が披露したショートコントに対し、栗原は本から顔を上げるなり、氷のように冷たい声で言い放った。



「フリが甘いからオチが機能していない。それに、その大声は単なる『驚き』であって『笑い』じゃない。観客の思考を停止させて条件反射で笑わせる手法は、チンパンジーの調教と同じだ」



 部室が凍りついた。





しかし、その後に栗原がホワイトボードを使って論理的に解説したコントの構成案は、誰も反論できないほど完璧で、残酷なまでに洗練されていた。





 李徴が若くして名を連ねた「白学才子はくがくさいし」のごとく、栗原は圧倒的な知性と計算によって笑いを生み出す天才だった。




 彼はコンビを組むことを拒み、ピン芸人「クリチョウ」として活動を始めた。日常の些細な違和感をすくい上げ、哲学的な問いへと昇華させ、最後には観客の常識を鮮やかにひっくり返す。彼のネタは、一本の優れたミステリー小説のようだった。




 遠藤はそんな栗原の才能に惚れ込み、同時に強烈な劣等感を抱いた。自分にはあんな高度なネタは書けない。遠藤は別の同期と「えんどう豆」を結成し、分かりやすいボケとツッコミの、いわゆる「大衆向けの漫才」を選ぶしかなかった。


 そして2008年の晩秋。栗原の才能が、一つの頂点を極める日が訪れる。


 舞台は、幕張メッセの巨大なイベントホール。




 全国の学生お笑いサークルが頂点を競う「全日本学生お笑い選手権」の決勝戦。千人を超える観客と、テレビ局や芸能事務所、いわいる業界人たちがひしめく異様な熱気の中、栗原は一人、舞台の中央に立っていた。




 他のファイナリストたちが、派手な衣装や音響、大掛かりな小道具を使って会場を沸かせる中、栗原は黒いスラックスに無地の白シャツという、殺風景な出立ちだった。手ぶらで、小道具すらない。





 ピンスポットが栗原を照らし出す。





 彼はマイクスタンドの前に立つと、ゆっくりと、語りかけるように話し始めた。









「……先日、自分が自分であるという証明をしろと、市役所の窓口で言われましてね」







 静かな立ち上がりだった。大声も出さない。派手な動きもない。




 しかし、その一言から始まった七分間の独壇場は、まさに魔法だった。




 論理のすり替え、言葉の解体、常識の崩壊。栗原が紡ぎ出す精緻な言葉の網に、千人の観客は次第に絡め取られていく。最初は戸惑っていた客席から、クスクスという笑いが漏れ始め、それがうねりとなり、やがて呼吸をするのも忘れるほどの爆笑へと変わっていった。






 舞台袖で見ていた遠藤は、鳥肌が立つのを止められなかった。



 誰も傷つけず、誰にも媚びず、ただ己の知性と話術だけで、千人の脳を完全に支配している。これが、本物の天才だ。




 オチの一言が放たれた瞬間、幕張メッセは割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。審査員席のプロの放送作家たちが、呆然とした顔で立ち上がり、拍手を送っている。






 結果は、圧倒的な大差での優勝。







 「お笑い界の救世主が現れた」「世界に通ずるスタンドアップコメディ」。業界人たちはこぞって栗原に群がり、名刺を差し出した。

 誰もが、栗原智の輝かしい未来を確信した夜だった。


 しかし、祝賀会のために向かった海浜幕張駅近くの居酒屋で、栗原の表情はひどく冷めていた。






 ジョッキを傾ける遠藤たちをよそに、栗原はテーブルの隅で、もらったばかりのスカウトマンたちの名刺を、指先で弄んでいた。


「おめでとう、栗原。お前、マジで凄かったよ。あれでプロになれるな」




 興奮冷めやらぬ遠藤が声をかけると、栗原はふっと嘲笑を漏らした。





「……遠藤。お前は、あの客たちが本当に俺のネタを理解して笑っていたと思うか?」







「え?」




「大半の連中は、俺の仕掛けたロジックの半分も理解していなかったさ。

ただ、


『ここで笑うのが正解だ』



という空気に流されて、馬鹿みたいに口を開けていただけだ」





 栗原は、手の中の名刺をまるで汚物でも見るかのようにテーブルに放り投げた。





「審査員も同じだ。



『難解なネタを評価できる自分』



に酔っているだけの連中だ。



こんな薄っぺらい世界でチヤホヤされるために、俺はネタを書いてるんじゃない」





 彼の目には、他者に対する強烈な見下しと、完璧を求めるあまりの孤絶の色が浮かんでいた。






 己の才能を信じるがゆえに、安易な賞賛を拒絶する。世界で一番面白いのは自分であり、それを完全に理解できるのは自分しかいないという、呪いのようなプライド。






 遠藤は、その横顔に底知れぬ危うさを感じたが、かけるべき言葉を見つけることはできなかった。




 あの幕張の夜、確かに栗原智は王だった。




 だが、その王座はあまりにも高く、冷たく、彼自身を外界から切り離す「孤島」でもあったのだ。











 ――そして現在。









 非常階段の暗がりに潜む、変わり果てた親友の声が、遠藤を現実の歌舞伎町へと引き戻す。






「……遠藤。俺は、俺のプライドが、俺自身を食い殺すのを見ていたんだ」






 暗闇の中から響くその声は、かつて幕張のステージで三千人を支配した男のものとは、あまりにもかけ離れていた。




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