第10話:暁に消える咆哮
遠藤慎二は、肺が破れそうなほど息を切らし、歌舞伎町の大通り(靖国通り)まで逃げてきた。
膝に手をつき、荒い呼吸を繰り返す。胃液が込み上げ、アスファルトの隅に胃の内容物を吐き出したが、苦い胃液しか出なかった。
見上げると、新宿の空はすでに白み始めていた。
夜の闇が隠していた街の真実が、残酷な朝の光によって暴かれていく。路上に散乱する吐瀉物、ホストクラブの破られたポスター、カラスが漁る生ゴミの山。欲望の残骸だけがひしめくこの街の朝は、どんな廃墟よりも醜悪だった。
遠藤のコートのポケットで、スマートフォンが短く震えた。
画面を見ると、マネージャーからの業務連絡だった。
『明日の特番収録、台本変更になりました。冒頭で一分間の新しいショートネタを入れてほしいとのことです。今日中に構成案を送れますか?』
遠藤は、そのメッセージを見つめたまま、もう一つのアプリ——先ほど路地裏で栗原から口述筆記させられたメモアプリを開いた。
『タイトル:条件反射』
文字面をなぞるだけで、そのネタがどれほど完璧で、どれほど大衆の腹をよじれさせるか、プロの芸人である遠藤には痛いほど分かった。
これを明日の収録でやれば、停滞気味だった「えんどう豆」の評価は再び跳ね上がり、向こう三年のネタは安泰だろう。
親友が、人間としての最後の理性を振り絞り、血を吐くような思いで残した「遺作」。
……しかし、遠藤の心に浮かんだのは、哀悼でも友情でもなかった。
『使える』。
ただ、その冷酷な打算だけだった。
自分はこれをテレビで披露し、爆笑をさらい、金と名声に変えるだろう。栗原の名前など一切出さず、自分の手柄として大衆に消費させるのだ。
自分もまた、栗原の絶望と引き換えに生まれたこの「インスタント・フィクション」を貪り食う、醜い獣
の一匹に過ぎない。
安全な場所から狂人を憐れみながら、その肉だけはちゃっかりと自分の血肉にする。それが、テレビの世界で生き残った「成功者」の正体だった。
不意に、遠藤は自分が逃げてきた裏路地の方を振り返った。
ネオンの消えた灰色のビルの谷間。その上空には、朝の光に溶けて輪郭を失いかけた、白く薄汚れた残月が浮かんでいた。
その時だった。
『ニャンニャンニャーーーーン!!』
けたたましい、狂気を孕んだ裏声が、朝の静寂を引き裂いた。
『ご主人様ァ! チップを、もっとチップ.......もっと!!』
遠藤は息を呑んだ。
路地の奥から、四つん這いになった栗原が這い出してきたのだ。
その姿には、もう「臆病な自尊心」に苦しんでいたかつての天才の面影は、一ミリたりとも残っていなかった。
目は焦点が合わず完全に虚ろに濁り、口元からはだらしなく涎が垂れている
そこを通りかかった、朝帰りの泥酔したホストとキャバクラ嬢の集団が、栗原を見てゲラゲラと下品な笑い声を上げた。
「うわ、何このおっさん! ヤバウケるんだけど!」
「お前ネコなの? ほら、鳴いてみろよ!」
ホストの一人が、面白半分で栗原の腹を軽く蹴り上げた。
かつての栗原なら、屈辱のあまり相手を殺しかねない行為だ。
しかし、完全に精神が崩壊し、獣へと堕ちきった彼は、怒るどころか、蹴られたことにすら喜びを見出しているように、顔をクシャクシャにして媚び笑いを浮かべた。
『ニャーーーン! 痛いニャン! でも百円くれたら、もっと面白い顔するニャン!!』
「マジでキモい! ほら、くれてやるよ!」
キャバクラ嬢が小銭入れから百円玉を何枚か掴み、栗原の顔に投げつけた。
チャリン、とアスファルトに転がる硬貨。
栗原は四つん這いのまま地面に這いつくばり、舌を出して、泥とゲロにまみれた百円玉を一枚一枚、愛おしそうに舐め取っていった。
——ああ、これが。
遠藤は、全身の血が凍りつくのを感じた。
これが、あの「大学お笑い優勝者」孤高の天才の、最終形態。
彼はもう、苦しんでなどいなかった。
プライドを失った痛みに泣くことも、妻を不幸にした罪悪感に苛まれることもない。
ただ、大衆から小銭を投げつけられ、嘲笑されるだけの「完璧なペット」として、彼は底なしの安らぎを手に入れてしまったのだ。
悲劇ですらなかった。
自分の才能のなさに絶望して狂うことさえも許されず、
ただ脳髄を空っぽにして、安い笑いを提供するだけの肉塊になること。
それこそが、現代における最も残酷な「発狂」の形だった。
遠藤は、逃げるようにその場から背を向け、新宿駅へと向かって歩き出した。
手元のスマートフォンで、マネージャーに短いメッセージを打つ。
『最高のネタができました。明日の特番、俺たちでかっさらいます』
背後から、遠ざかる遠藤の背中に向かって、最後の大声ギャグが聞こえた。
『クリチョウ、今日も大・爆・発! ニャーーーーーーッ!!』
それは、かつて虎が月に向かって放ったような、気高く悲哀に満ちた虎の咆哮では決してなかった。
誰の心にも届かず、何の意味も持たず、ただ朝の清掃車のエンジン音と、歌舞伎町の喧騒の中に無価値なゴミとして吸い込まれていく、薄汚れたお笑いネコの奇声だった。
遠藤がもう一度振り返った時、路地裏にはゴミの山が積まれているだけで、栗原の姿はどこにもなかった。
そして頭上の空からは、白く光を失った残月もまた、完全に姿を消していた。




