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第9話:残月の別れ

歌舞伎町の空が、インクを水で薄めたような白々しい群青色に変わり始めていた。






 ネオンサインが次々と電源を落とされ、代わりに清掃車の機械音と、カラスの羽ばたきが響き出す。


夜の魔法が解け、欲望の残骸だけが路上に散乱する、この街が最も現実的で醜悪な顔を見せる時間だった。




 非常階段の暗がりにうずくまる栗原智は、冷たい朝の空気を肺に吸い込み、酷く咳き込んだ。






その肩は落ちくぼみ、かつての天才の面影はもはやどこにもない。







「……遠藤。完全に夜が明ける前に、一つだけ、お前に頼まなければならないことがある」







 栗原の声は、枯れ葉が擦れるようにカサカサに乾いていた。




「松戸のアパートに、妻の尚を残してきた。


いや……『残してきた』なんて綺麗な言葉でごまかすべきじゃないな。



俺は、あいつの人生をしゃぶり尽くして、借金と絶望のどん底に置き去りにして逃げたんだ」




 遠藤は沈黙した。





あの温厚で、栗原の才能を誰よりも信じていた尚の顔が脳裏をよぎった。




「俺は15年間、一円も稼がなかった。




尚は朝から晩までレジ打ちと清掃のパートを掛け持ちし、俺の『究極のネタ』が完成する日を信じて、文句一つ言わずに生活費を貢ぎ続けてくれた。


だが、俺がアパートを飛び出したあの夜、机の上に残っていたのは、完成した傑作なんかじゃない。未払いの家賃三ヶ月分の督促状と、消費者金融から俺が勝手に借りた二百万の借用書だ」








「……二百万?」







「俺のプライドを保つための『見栄』の代金さ。


後輩に奢ったり、高価な専門書や哲学書を買い漁ったりするためのな。


あいつは今頃、俺が残したその泥沼の中で、取り立てに怯えながら、もう帰ってこない狂人の夫を待っている」





 栗原は、首輪に挟まっていた数枚の千円札——昨夜、金城社長の前で床を這いずり回り、大声ギャグを叫んで恵んでもらった「チップ」——をむしり取ると、泥だらけの指で握りしめた。






「なあ、遠藤。これが現実だ」





 栗原は、クシャクシャになった千円札の束を、自嘲するように見つめた。




「俺が15年かけて守り抜こうとした『高潔な芸術』は、一円の金にもならなかった。



尚に温かい飯の一杯も食わせてやれなかった。なのに、プライドを捨てて成金社長に媚びを売り、四つん這いで猫の真似をして喚き散らしたら、たった一晩でこの金が手に入ったんだ。この、汚らわしい小銭がな」






 ギリリ、と栗原が奥歯を噛み締める音がした。





「今になって、尚がどれほどの地獄を一人で歩いていたかが分かる。……だが、俺は本当に救いようのないクズだ。俺は今、尚の心配をする前に、お前に『自分の書いたネタを代筆してくれ』と頼んだ。


妻の人生が破滅しているという現実よりも、自分のちっぽけな芸人としての未練、たった一分の『インスタント・フィクション』を後世に残すことの方を優先したんだ!」





 栗原は、両手で顔を覆い、獣のような低い声で嗚咽を漏らした。






「……これが、俺が獣になった本当の理由だ。


俺の中身は、とうの昔に人間のそれじゃなかった。



他者の痛みを想像することもできず、ただ自分の才能という虚像だけを愛し続けた、醜悪な化け物だ。だから神は、俺の外見を中身にふさわしい姿……惨めな『お笑いネコ』に変えようとしているんだ」






 自身の「己の非情な性質に気づき、慟哭する」というくだりが、あまりにも生々しい現代の絶望となって路地裏に響いた。



遠藤は、かけるべき慰めの言葉を一つも持っていなかった。どんな美辞麗句も、この残酷な現実の前では紙切れより薄っぺらだった。




「遠藤……頼む。




尚に会って、こう伝えてくれないか」







 栗原は、顔を覆っていた手をどけ、血走った目で遠藤を見つめた。





「『栗原智は、才能の限界に絶望して、東京湾に身を投げた。死体は上がらないが、間違いなく死んだ』




と。……俺がこんな、猫耳をつけて札束を首輪に





ねじ込まれ、金持ちの慰み者に成り下がって生き延びているなんてこと、あいつには絶対に知られたくない」





 それは、栗原の中に残った、最後の一滴の「人間としてのプライド」だった。






 しかし、遠藤は唇を噛み、残酷な現実を告げざるを得なかった。









「……栗原。実はな、一ヶ月前、尚ちゃんから俺の事務所に連絡があったんだ」










「えっ……」







「お前の行方を探してたんじゃない。







……自己破産の手続きをするために、



お前との離婚届の証人欄にサインしてほしいって、俺のところに郵送してきたんだよ。もう、アパートも引き払って、実家に帰るって言ってた」








 栗原の動きが、ピタリと止まった。








 自分が心配するまでもなく、妻はすでに彼という「呪い」を断ち切り、現実を生きるための精算を始めていたのだ。



15年の献身の結末は、一枚の事務的な書類によって、あっけなく、そして冷酷に処理されていた。





 自分は、悲劇の主人公ですらなかった。ただの、不要なゴミとして捨てられただけなのだ。






「……そう、か。……ハハッ、そうだよな。当たり前だ。あいつは、正しかった」










 栗原は虚ろな目で笑った。






その笑い声は、次第に奇妙な高音を帯び始めていた。







「俺は……俺の人生は、何だったんだろうな。誰も笑わせられず、誰の腹も満たせず、ただ自分一人のプライドを守るためだけに、すべてをぶち壊して……」





 その時、栗原の体がビクンと大きく跳ねた。






 彼の顔から、急速に「知性」の光が失われていくのが分かった。人間としての最後の理性が、音を立てて崩れ落ちていく。










「……あ、ああっ……くる……俺の中の、獣が……」

 栗原は四つん這いになり、アスファルトに爪を立てた。






「遠藤! 早く行け! 帰ってくれ! 俺が完全に理性を失って、お前に……お前に媚びを売り、チップをねだる醜い姿を晒す前に……ッ!」









 栗原は、自らの手で身体を激しくかきむしりながら、暗闇の奥へと後ずさっていった。









「お前は、テレビの世界で生きろ……大衆に笑われ、消費され、泥まみれになって生きろ……それだけが、俺たち芸人が……人間として生きる、唯一の……」









 その言葉の最後は、もはや人の発音ではなかった。





「……ニャ、ニャン……ご主人様ぁ……」






 遠藤は弾かれたように背を向け、ゴミ袋の山を乗り越えて路地を飛び出した。




 振り返ることはできなかった。




振り返れば、完全に人間であることをやめ、小銭を欲して擦り寄ってくる、かつての天才の無惨な姿を見てしまうからだ。







 遠藤は、夜明けの歌舞伎町をただ無我夢中で走った。

 頬を伝う涙が、冷たい朝の風に吹かれて冷え切っていく。









 空には、白く薄汚れ、今にも消え入りそうな残月が、冷ややかに遠藤を見下ろしていた。


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