第0話:臆病な自尊心の芽生え
2008年、秋。西千葉駅前に吹き抜ける風には、すでに冬の匂いが混じっていた。
千葉大学お笑いサークル「白菊」の部室は、古びたサークル棟の片隅にある。
タバコのヤニで黄ばんだ壁、いつからあるのか分からないパイプ椅子、そして床に散乱したネタ帳の切れ端。その淀んだ空気の中央で、栗原智は一人、パイプ椅子に深く腰掛け、大学ノートにシャープペンシルを走らせていた。
「おい栗原、今日のライブの香盤表だけどよ」
同期の遠藤慎二が、缶コーヒーを片手に部室に入ってきた。栗原は顔を上げず、ただシャープペンシルの芯をカチカチと鳴らす。
「俺はトリ前でいい。トリはお前ら『えんどう豆』がやれよ」
「いいのか? 先月の学祭ライブ、客票で圧倒的トップだったのはお前のピンネタだぞ」
「順位なんてどうでもいい。俺のネタは、客が帰る準備を始める前の、一番集中力がある時間にやりたいだけだ。
お前らのあの『どつき漫才』なら、客が帰り支度をしながらでも笑えるだろうからな」
栗原の言葉には、常に刃のような棘があった。遠藤は苦笑いしながら肩をすくめた。
栗原智は、間違いなく「白菊」の――いや、関東の学生お笑い界における天才だった。
彼の作るコントは、一分一秒の沈黙まで計算し尽くされた不条理劇だ。安易な顔芸や大声に逃げず、言葉の選び方と間の取り方だけで観客の脳を揺さぶる。
しかし、その圧倒的な才能と引き換えにするかのように、彼の自尊心は肥大化しきっていた。
その日の夜。
稲毛にある小さなライブハウスで、栗原は圧倒的なウケを掻っ攫った。
他の学生芸人が安直なリズムネタやテレビのモノマネで薄ら笑いをもらう中、栗原が放った10分間の長尺コントは、最初は観客を戸惑わせ、やがて爆発的な大爆笑へと巻き込んだ。
舞台袖で見ていた遠藤は、圧倒的な才能の差を見せつけられ、ただ立ち尽くすしかなかった。
ライブ後の打ち上げは、津田沼駅近くの安い居酒屋で行われた。
ジョッキのビールが空になる頃、遠藤は意を決して栗原に切り出した。
「栗原、お前、プロのオーディション受けないのか?」
「……オーディション?」
枝豆を口に運んでいた栗原が、冷ややかな視線を遠藤に向けた。
「ああ。今度、都内のライブハウスで事務所の合同オーディションがある。
実は俺たち『えんどう豆』も受けるんだ。今のテレビはショートネタのブームだ。1分間でインパクトを残せば、すぐに深夜番組に出られる」
2008年当時、テレビのお笑い界は空前の「ショートネタブーム」に沸いていた。派手な衣装、分かりやすいリズム、意味のないキャッチフレーズ。1分にも満たない短い時間で消費されるインスタントな笑いが、お茶の間の覇権を握っていた。
「くだらない」
栗原は、吐き捨てるように言った。
「1分間で何が表現できる? あんなものは笑いじゃない。ただの『条件反射』だ。
テレビの前のバカな大衆に媚びを売り、分かりやすい言葉で餌を与える。俺はそんな猿回しの猿になるためにネタを書いてるんじゃない」
「でも、まずはテレビに出て、名前を売らないと……」
「お前らはそうすればいい。俺は俺のやり方で、純粋な『お笑い』の頂点に立つ。
妥協してまで売れたいとは思わないね」
栗原は冷めたおしぼりで手を拭くと、会計も払わずに席を立った。
総武線各駅停車の最終電車。
窓に映る自分の顔を見つめながら、栗原は無意識に爪を噛んでいた。
口では偉そうなことを言ったが、彼の胸の奥底には、冷たく黒い感情が渦巻いていた。
――もし、オーディションに落ちたらどうする?
――あの薄っぺらい審査員たちに、俺の高度なネタが理解されず、「もっと分かりやすくしろ」と説教されたら?
栗原の真の姿は、純粋な芸術家などではなかった。彼はただ、自分の才能が「大衆」という名の凡庸な怪物によって評価され、否定されることを極端に恐れていたのだ。
己の珠(才能)を信じながらも、それを磨くために泥まみれになることを拒絶する「尊大な羞恥心」。
そして、もし自分が本物の天才ではなかったらという恐怖から、勝負の場から逃げ続ける「臆病な自尊心」。
この二つの感情が、栗原の心の中で静かに、しかし確実に牙を剥き始めていた。
松戸にある家賃四万円の古いアパート。鍵を開けると、同棲している恋人の尚が、コタツで丸くなって眠っていた。
テーブルの上には、ラップがかけられた冷めた肉じゃがが置かれている。
「……俺は、誰にも媚びない。俺の笑いは、俺だけのものだ」
暗い部屋の中で、栗原は誰に言うともなく呟いた。
その声は、自分自身の不安をかき消すための、悲痛な咆哮のようでもあった。
彼が自らの殻に閉じこもり、テレビという華やかな世界で器用に立ち回る遠藤たちを軽蔑し続けることで、やがてその身を本物の「獣」へと変えてしまう運命にあることを、この時の栗原はまだ知らない。




