第二十六話
「……見てくる」
それだけ言い残して、ネリアは音もなく姿を消した。
焼け跡の終端から先、
高台から見下ろす形で広がるザラリスの外郭へ──
彼女の動きは風と同化し、
霧の残滓の中へと溶け込んでいく。
一行はその場で足を止め、
ただじっと、その帰還を待っていた。
数分──いや、十数分にも感じられる時間が過ぎた。
やがて。
風と一緒に、彼女は戻ってきた。
言葉はなかった。
だが、その目の奥には“明確な報告”があった。
「どうだった?」
拓海の問いに、ネリアは静かに顎を振る。
「……先客」
その一言に、周囲の空気が微かに引き締まる。
「数は?」
「十五から二十。
焚き火三つ。即席のテント五張。……傭兵部隊」
彼女はそれ以上は語らず、
だが十分だった。
ザラリス──かつての遺構、そして彼らが拠点として目指していた場所。
そこには、すでに別の“流刑者たち”が足を踏み入れていた。
報告を終えたネリアの周囲に、
一時、重苦しい沈黙が落ちた。
誰もが、次に発される言葉を待っている。
その空気を破ったのは、拓海だった。
「……友好的そうか?」
淡々とした問いだった。
だがその声音の裏に、“願い”が少しだけ混じっていた。
ネリアは、その言葉に迷いもなく──
静かに、首を横に振った。
その仕草が、すべてを語っていた。
「……あれは、拠点を作るための集まりじゃない。
力を見せるための……縄張りだ」
短く言葉を選びながら、ネリアは続けた。
「……火の近くに、女たち。
汚れた布、裸足。……手には縄」
その声には怒りも同情もなかった。
ただ、事実としての観察だけがあった。
だがその冷静さこそが、何より重かった。
「見張りは……笑ってた。
たぶん、“見せつけてる”」
その瞬間、一行の間にあったわずかな希望の余白は、
静かに──そして確実に、崩れた。
ザラリスに巣食っていたのは、
交渉の余地を持たぬ暴力の住人たちだった。
空気が張り詰める中、
ネリアは再び、淡々と語り始めた。
「……装備。ほとんどが鉄板の鎧。
剣、弓、槍──あとは盾持ちが数名」
一行の視線が彼女に集中する。
「……銃器は確認できなかった。
あっても、隠してるか、持っていない」
その報告に、ハーミラが小さく目を見開いた。
「……それってつまり、制圧の可能性がある、ってこと?」
ネリアはゆっくりと頷いた。
「……銃を持つ傭兵団よりは、対応しやすい。
矢も軌道が読めるし、火薬の爆発もない」
彼女の声には、感情はなかった。
だがその言葉の重みは、
一つの判断材料として明確だった。
「……包囲されなければ、制圧可能」
短い一言に、緊張と期待が入り混じる。
ザラリスは、確かに目の前にある。
だがそこには、対話ではなく力による排除が求められるかもしれなかった。
誰もが次の判断を待つように沈黙していた中──
拓海が、ふっと息を吐いて言った。
「……話してくる」
その一言に、場が微かに揺れた。
ハーミラが即座に顔を上げる。
「えっ、ちょ、ちょっと待ってください!? 話って……直接ですか!?」
「そうだ。様子を見たい。
もし対話の余地があるなら、それに越したことはない」
「む、無理ですよ! あの人たち、奴隷を連れてるって……!?」
「わかってる。でも、こっちは数も少ない。
一人も殺さずにザラリスを得られる可能性が、少しでもあるなら──引き下がるわけにはいかない」
ハーミラは口を開いたまま、反論の言葉を探していたが、
拓海の目に宿る意志を見て、ゆっくりと口を閉じた。
すると──
シャ=ルマッカが一歩、拓海の隣に並び立った。
彼女は何も言わない。
ただ、足音もなく横に立ち、仮面の奥からじっと彼を見た。
拓海が彼女に目を向けると、シャは短く頷く。
「“道を歩む者には、刃が並ぶ”……私たちの言葉」
それは、ひとりでは進ませないという誓いだった。
拓海は口の端をわずかに上げる。
「……ありがとう。心強いよ」
準備は、整った。
これより、交渉か、それとも――戦端か。
拓海は一度、全員の顔を見渡した。
ネリアは無言で矢を持ち替え、
ハーミラは唇を噛みながら、彼の背中を見つめていた。
他の団員たちも、口には出さずとも警戒を崩していない。
「……何かあったら、すぐに来てくれ」
短く、そうだけ言い残すと──
拓海は振り返らずに歩き出した。
その隣には、仮面をつけた戦士、シャ=ルマッカ。
彼女は無言のまま、泥と灰の地を軽やかに進む。
二人の影が、傾いた陽に伸びていく。
遠方のキャンプでは、炎の明かりがちらつき、
傭兵たちの人影が不規則に揺れていた。
彼らがまだこちらに気づいていないのか、
それともすでに注視しているのかは──分からない。
だが拓海は、歩を止めなかった。
焚き火の熱が地表を揺らしていた。
その前方、石の残骸をいくつか積み上げて囲いとした即席のキャンプ。
テントは布地が擦り切れ、支柱には金属の槍が立てられている。
その周囲に、数名の男たちがいた。
一人が、最初に気づいた。
「──来てるぞ」
その声に反応するように、周囲の傭兵たちが振り向く。
視線の先に、二つの影があった。
焚き火の灯りが揺れるたびに、
その姿が徐々に明らかになっていく。
一人は、異国風の青年。背負った曲刀。
もう一人は、異様な仮面と根の鎧に包まれた女戦士。
二人は、まっすぐにこちらへ歩いてくる。
「……止まれ!」
一人の傭兵が、手にした槍を構えながら叫んだ。
その声に応じて、他の者たちも立ち上がり、
弓を手にする者、剣に手を添える者が次々と構える。
焚き火の灯りに照らされるその表情は、疑いと敵意に満ちていた。
だが、拓海とシャは歩みを止めない。
顔を隠さず、武器も抜かず──
ただ、はっきりと姿を見せたまま前進していく。
やがて、焚き火とテントの明かりの中、
二人の姿がはっきりと映し出された。
焚き火の熱と、武器の気配。
その狭間で、一触即発の空気が膨らんでいく。
──その中で──
拓海が、静かに口を開いた。
「俺たちは争いに来たわけじゃない。
話がしたいだけだ」
声は低く、落ち着いていた。
だが焚き火のはぜる音すら掻き消すほどの緊張が、空気を支配していた。
一瞬──
傭兵たちは言葉を失ったようにこちらを見据える。
剣に手をかけたままの男が、一歩前に出る。
「……話だと?」
その目は獣のように鋭く、
声には明らかな猜疑と苛立ちが滲んでいた。
「よくのこのこ出てきたな、坊主。
てめぇら、何者だ。どこの派閥だ?名を名乗れ」
続いて別の男が、肩をすくめながら笑う。
「ハッ、仮面の女なんて連れて、脅しか?それとも見せ物か?」
焚き火の影が揺れるたびに、
彼らの輪がじわりと狭まっていく。
敵意と警戒。
そしてどこかにある、“暇つぶしの暴力”の匂い。
シャは微動だにせず、
その気配に気づいているにもかかわらず、
あくまで拓海の出方に委ねていた。
拓海は一歩だけ前へ出る。
その手は武器に触れていない。
「俺の名前は卜部拓海。
この地を見に来た……。
あんたたちがどんな連中かも、な」
焚き火を囲む傭兵たちは、
拓海の名乗りにも動じた様子はなかった。
むしろ、それを聞いて笑みを深める者すらいた。
「へぇ、名乗るなんて殊勝なもんだな、坊や」
「けどな、数ってのは、こういうときにモノを言うんだよ」
周囲の男たちが、にじり寄るように立ち位置をずらす。
弓を持った者、槍をついたまま鼻で笑う者、
誰もが武器を構えているわけではない──だが、それこそが“数の自信”を物語っていた。
そのときだった。
焚き火の灯がひときわ揺れ、
傭兵の一人が、シャ=ルマッカの姿にじっと視線を這わせた。
「おいおい、こっちはずいぶん派手なお供を連れてるな……」
にやついた口元。
仮面の奥など見えはしないというのに、
まるでその下を覗こうとするかのように、目を細める。
「なぁ、お前、口はきけるのか?
その格好、ちょっと興味があるな……」
別の男がわざとらしく口笛を鳴らす。
「仮面の下も気になるが、鎧の下もなぁ……!」
低い笑い声がいくつか漏れる。
それは挑発でも冗談でもなく、
明らかな下劣さと支配の目だった。
シャは動かなかった。
だが、その背筋は音もなく、確実に張りつめていた。
拓海は、拳を握る手に力が入るのを感じた。
──奴らは交渉の場に立ってなどいない。
これは、“余裕”と“侮り”の姿勢だ。
数を頼りに、己が支配者だと錯覚する者たち。
そんな連中が、ザラリスを穢していた。
焚き火の炎がひときわ揺れた。
それに合わせて、
後ろのテントの陰から、一人の男がゆっくりと現れる。
軽装の鎧に身を包み、
無駄のない体躯と、深く刻まれた目元の皺。
血と煙に長く晒された者の空気を纏いながら、
彼は黙って前に出た。
周囲の傭兵たちが、それだけで動きを止める。
冗談を言っていた者も、矢をいじっていた者も、
男の姿を見た瞬間、口を閉ざし──背筋を伸ばした。
その男は、焚き火の前に立つと、
まっすぐに拓海を見据えた。
「……で?」
声は低く、無感情。
にもかかわらず、その場の空気を一段引き締める鋭さがあった。
「お前は──何を差し出せる?」
その一言に、場の温度が落ちた。
問いの中にあるのは交渉の気配ではない。
それは、奪う前提での静かな確認だった。
拓海は目を逸らさず、男の言葉を受け止める。
隣で立つシャ=ルマッカも、仮面越しに視線を逸らさない。
男は歩みを止めると、片足を焚き火の近くに投げ出しながら言った。
「まさか、名乗りに来ただけでこの場所を譲れって話じゃないだろうな?」
その口元に浮かぶのは、薄く刻まれた嘲笑。
焚き火の灯が、不意に風に揺れた。
拓海は、リーダーの言葉にすぐには答えなかった。
ただ、その目を逸らすことなく、
わずかに首をかしげるようにして、静かに口を開いた。
「……あんたは、何が欲しい?」
その声は静かだった。
挑発でもなく、媚びでもない。
ただ、相手の真意を“見極めるため”の問い。
傭兵たちが一瞬だけざわめく。
リーダーの言葉に返答せず、問いを返す──
それがこの場でどういう意味を持つのか、理解できない者もいた。
だが、リーダーは動じなかった。
口元だけで、薄く笑う。
「……ほう。取引の場でも作る気か。
そういう口の利き方、慣れてるって顔だな。違うか?」
拓海は返さない。
かわりに、表情も変えずに視線をそのまま向ける。
すると、男はふっと鼻を鳴らした。
「……いいだろう。なら、聞いてやる」
焚き火の炎がまたひとつ、ぱち、と弾けた。
「俺たちが欲しいのは──居場所だ。
食料、女、寝る場所、それだけでいい」
そして、間を置かずに続ける。
「だが“それを守るためにどれだけ殺すか”が、この場所の価 値を決める」
言葉は冷たくも、はっきりしていた。
欲望と暴力、そのままを言葉にして恥じない声。
拓海の目が、焚き火の奥に集められた女たちへと一瞬だけ向いた。
細く、痩せた腕。足には縄。目は、誰も見ていなかった。
「……なら、やっぱり聞かせてもらおう」
拓海の声が、かすかに低くなる。
「この場所は、お前たちのものか?」
拓海の問いが、焚き火にくぐもって消える。
その一言が、周囲の空気を確かに揺らした。
「……何だと?」
「なぁリーダー、こんな口の利き方する奴──」
「やっちまおうぜ。しゃべらせるだけムダだろ、数見りゃわかんだろが」
「奪った方が早ぇよ。どうせ雑魚だ」
傭兵たちが次々に口を開き、周囲にざわつきが走る。
指が剣の柄にかかり、弓の弦がわずかに引かれ、
誰からともなく“殺る気”が膨らんでいく。
だが、その中心に立つリーダーだけは──動かない。
「……黙れ」
低く、抑えられた一言。
その声だけで、ざわつきは瞬時に鎮まった。
まるで首輪の鎖を引かれた猛犬たちのように、
誰もが一歩、言葉を引っ込める。
リーダーは焚き火を挟んで拓海を見つめたまま、顎をわずかに傾ける。
「悪くないな、坊主。根拠のない自信にしては、妙に筋が通ってる」
視線が、静かにシャ=ルマッカへ移った。
「そして──そっちの女。仮面の奥が読めねぇが……並みの用心棒じゃねぇな。動きが静かすぎる」
彼の目が、鋭く光った。
「さっきの問い。場所の所有権か?力による占有か?……それとも、“取り返す気か”って意味か?」
焚き火の明かりが、男の顔の片側を照らし出す。
「ならこっちも聞こう。お前、ただのガキじゃねぇだろ?」
焚き火を挟んだまま、拓海とリーダーの視線が交差する。
周囲の傭兵たちもまた、沈黙の中でそのやりとりを見守っていた。
だが──
その空気が、ふと張り詰める。
シャ=ルマッカが、無言で一歩前に出た。
その動作は、まるで霧の中を裂くように滑らかで、
足元の地面がその存在に応えるかのように、微かに軋む。
仮面の奥に表情は見えない。
だがその気配だけで、焚き火の熱がほんの一瞬、引いたような錯覚すらあった。
全身を包む根の鎧には泥と瘴気の痕が刻まれている。
それが彼女の歩んできた道の過酷さを無言で物語っていた。
「……ッ」
最初に息を呑んだのは、弓を構えていた若い傭兵だった。
まるで“視られた”だけで喉を締めつけられたように、
思わず後ずさる。
「こいつ……只者じゃねぇ」
「なんだよ、あの目……」
誰も、シャの顔を見たわけではない。
だが、その“仮面の向こう”にある視線だけは、
確かに全員の胸元を貫いていた。
リーダーは、一瞬だけ目を細めた。
そして、口元だけで笑った。
「なるほどな……やっぱり、ただのガキとお守りじゃないってわけだ」
焚き火の火花がぱちりと弾け、
湿った空気の中、静かな圧力だけが膨らんでいく。
その中で、拓海が口を開いた。
声に力はこもっていない。
だが、迷いもなかった。
「条件を提示する」
傭兵たちの視線が再び集まる。
焚き火の奥で、リーダーも黙って続きを待っていた。
「こちらから、食料と水、簡易な工具類を供与する。
そちらがこれまで使っていた分の“損”は、いくらか埋められるはずだ」
周囲に小さなざわめき。
だが拓海は、間を置かずに続けた。
「その代わり──明日の日没までに、ここを立ち退いてもらう」
風が一筋、焚き火を揺らした。
それは譲歩ではない。
対話の形をとりつつも、明確な“通告”だった。
「こちらには仲間がいる。
本隊が明後日には合流する。
無用な争いを避けるための猶予だと思ってほしい」
もちろんブラフだ。盗賊団の本隊が到着するのは早くても3日が4日後だろう。
静けさが、辺りを包む。
リーダーは無表情のまま、焚き火越しに拓海を見つめていた。
長い沈黙のあと、ようやく、低く言葉が返る。
「……言うねぇ、坊主」
その声の奥には、軽い感心と、慎重な警戒が滲んでいた。
焚き火の周囲がざわついた。
だが、その中で一人の傭兵が、堪えきれないとばかりに声を上げた。
「ふざけんな!誰がてめぇらの言いなりに──」
怒鳴りかけたその瞬間。
「黙れ」
リーダーの低い一言と、次の瞬間の音が重なった。
ガンッ──!
乾いた音。
リーダーの手が、怒声を上げかけた男の側頭部を裏拳で殴り飛ばしていた。
傭兵の体が横に吹き飛び、焚き火の外に転がる。
倒れたまま、動かない。
誰も助けようとはしなかった。
空気が一瞬で凍りついた。
リーダーは、指の骨を鳴らしながら、あくまで冷静に笑っていた。
「……失礼。少し頭の回らない部下が多くてな」
その言葉に似つかわしくないほど、彼の口元にはにやけた笑みが浮かんでいた。
そして、拓海とシャを見据えると──
「いい話だったよ。物資も、日没の猶予も。筋が通ってる」
言葉を切る。
そして、ひとつだけ──別の条件を付け加える。
「だが、もう一つだけ欲しいものがある」
その視線は、シャ=ルマッカをまっすぐに捉えていた。
「──その女を一晩寄越せ」
焚き火がはぜた。
傭兵たちが、息を呑む。
それは明らかな“選別”だった。
力と女。すべてを差し出せと言う支配の論理。
リーダーの笑みは、変わらない。
「道理よりも、価値のあるものを見せてくれよ。なぁ?」
その女を一晩寄越せ──
焚き火の炎を挟んで、リーダーの言葉が静かに突き刺さる。
空気が一瞬、凍りついた。
傭兵たちは口を噤み、息を潜めて様子をうかがう。
誰も笑わない。誰も茶化さない。
その要求が、“遊び”ではなく“命令”であることを理解していたからだ。
拓海の喉の奥がかすかに鳴った。
怒りが、奥歯の裏にじわじわと溜まっていく。
だが、剣にも手を伸ばさず、声を荒げることもなく──
ただ、低く、静かに答えた。
「……それはできない」
その言葉は、焚き火に落ちる木片のように淡く、
だが確かに、火の勢いを止める一言だった。
沈黙。
リーダーは一瞬だけ拓海の表情を見つめ、
そして口元にふたたび、にやりと笑みを浮かべた。
「そうか」
あくまで気楽そうに、だがその声だけは鋭く冷たく。
「──なら、この話はナシだな」
周囲の傭兵たちが、音もなく武器に手をかけはじめる。
緩やかに、確実に、空気が変わる。
焚き火の炎だけが、まだ中立を装っていた。
その刹那、拓海は腰から信号弾射器を引き抜き、
空に向けて引き金を引いた。
パンッ!
鋭い破裂音とともに、赤い火球が夜空に弧を描いて舞い上がる。
その光は盆地の霧を切り裂き、沈黙に火をつけた。
「──来い!」
拓海の叫びが号令となる。
直後、背後の林から疾風のように斥候隊の団員たちが躍り出た。
ネリアの矢が空を裂き、
仮面の下に布を巻いた団員が斧を振りかぶり、
焚き火脇の傭兵の背中を力任せに叩き割る。
ハーミラの緊迫した声が後方から響き、
他の女戦士たちが一斉に突撃を仕掛ける。
奇襲は完璧だった。
拓海は焚き火の前で、静かに背中の曲刀を引き抜く。
霞が刃にまとわりつき、青白い粒子が舞う。
隣ではシャ=ルマッカが無言で構えを取っていた。
根と貝殻で作られたグレイヴが風を裂くように姿を現す。
「……行くぞ、シャ」
返事はない。
ただ一歩、沈み込むように前へ。
仮面の奥に宿るものが、焚き火の炎を超えて敵を射抜いた。
赤い信号弾の光が空に残るなか、戦いの幕が切って落とされた。
「敵襲だッ!!」
誰かの叫びが焚き火を割り、怒号と金属音が一斉に立ち上る。
矢が闇を裂き、斧が骨を砕く。
女戦士たちは各々の武器を手に、傭兵たちの間を駆け抜け、斬り伏せ、突き崩していく。
テントの布が引き裂かれ、
斬られた男が焚き火の中に倒れ込み、火の粉が舞った。
もはや陣形も作戦も意味をなさない獣の群れだった。
シャ=ルマッカのグレイヴが円を描くように回り、
三人の傭兵が次々と斬り裂かれて倒れ込む。
彼女の動きは舞うように、そして容赦なかった。
そして──
拓海の視界に、あの男が現れる。
リーダー格の男は、混乱の中でもまるで歩くような速度で近づいてきた。
その手には重く幅広い刃の軍刀が握られていた。
「来ると思ってたぜ、坊主」
男の声は、騒音の中でもはっきりと届いた。
拓海は何も言わず、霞を纏った曲刀を構える。
刀身が脈打ち、青白い霧のような光がふわりと舞った。
「なら──受けてみろよ!」
男が踏み込む。地面が抉れた。
拓海はその一撃を、正面から受け止める。
ガンッ!
金属が弾け、火花が散る。
刀身がきしむ。重い。
だが、押し返す力が拓海の腕に宿っていた。
拓海は斬り上げる。
男はそれを肩で受け流し、返す刃で斜めに斬り込んでくる。
ギリギリでそれをいなして後退。
そして──再び踏み込む。
二人の剣が、焚き火の火花を散らしながらぶつかり合う。
周囲の戦場とは異なる、互いの本能が剥き出しになる場所。
言葉はいらなかった。
火花が舞う。
剣と剣がぶつかり合い、金属音と肉体のぶつかる衝撃が耳を打つ。
拓海の曲刀は霞を纏いながら、リーダーの軍刀と激しく斬り合っていた。
振り上げ、振り下ろし、受け、いなす──
一瞬の判断が生死を分ける。
だがどちらも引かない。
リーダーの剣筋は重く、そして鋭い。
ただの力任せではない。
場数を踏んだ者だけが持つ“読み”と“間合い”があった。
「思ったよりやるじゃねえか……坊主!」
嘲笑混じりの言葉と共に、男が一気に距離を詰めてくる。
拓海はそれを避けつつ、下から切り上げるように曲刀を突き上げた。
かすかにリーダーの鎧を掠めるが、致命打にはならない。
火花の間をすり抜けるように、戦いは続く。
そのときだった。
「ウオオオオッ!!」
背後から叫び声。
別の傭兵が、長槍を突き出しながら突撃してきた。
拓海は反射的に振り返り、身体を左へ捻る。
槍先がすれすれで脇を掠め、突撃した男がそのまま通り過ぎ──
その背中を、拓海の刃が切り裂いた。
ズバッ──
男の背中が裂け、絶叫とともに地に崩れる。
だが──
その刹那だった。
「……隙だ」
視界の端に、軍刀の影。
振り向いた時には、もう遅かった。
リーダーの鋭い一閃が、拓海の額を縦に斬り裂いた。
ガシュッ!!
視界に鮮血が弾けた。
痛みが脳に刺さるように響く。
「ッ──ああああッ……!」
血が片目を塞ぐ。
だが踏みとどまる。
倒れない。
握った曲刀が、地面を蹴る足に力を伝える。
リーダーは笑っていた。
「まだ立つか。やっぱ面白れぇな、お前……!」
「ッ……くそ……!」
拓海は舌打ちしながら後退する。
左目を覆うのは、止まらぬ血。
額の裂傷は深く、まぶたの内側にまで赤い膜を作っていた。
右目だけではリーダーの動きについていけない。
視界の半分が潰れるというのは、ただ“見えない”だけではなかった。
距離感、軌道、気配──
すべてが一拍ずつ遅れる。
「もう終わりか?」
リーダーが笑う。
足音を殺しながら斜めに詰めてくる。
拓海は呼吸を整え、構え直す。
だが身体は正直だった。
痛み、出血、焦り。すべてが刃の重さとなって腕にのしかかる。
「──チッ」
軍刀の一閃。
拓海はギリギリで身を捻る。
だが回避が遅れる。
右腕に浅い切れ傷。
鈍い痛みとともに、再び間合いが詰められる。
曲刀を振るう。だが霞が揺れるだけで、届かない。
もう一歩踏み込めば──
けれど、それができない。
リーダーは見抜いていた。
「片目が死んだ途端、こうも雑になるとはな。
その剣、こっちに寄越せよ。装飾用にしてやる」
挑発にも、もう返す余裕がない。
だが──拓海は倒れない。
息を整え、霞を纏った刃を握り直す。
どんなに視界が潰れようと、
この剣だけは落とさないと──そう決めていた。
額の傷口から流れ出る血が、まぶたを焼き、視界を染める。
左目はもう役に立たない。
視界の半分が暗く潰れ、体のバランスすら崩れていく。
そんな拓海を前に、リーダーの動きは冷静だった。
否、それ以上に──いやらしかった。
「……そっち、見えてねぇんだろ?」
低く嗤うように言いながら、男はあえて拓海の左側へと回り込む。
「目が死んだなら、耳で探るしかねぇ。
でもな──音が聞こえた時には、斬られてんだよ」
その言葉と同時に、左からの斬撃が飛ぶ。
反射的に曲刀を振るが、手応えはない。
フェイントだ──!
「こっちだよ、坊主」
真横から滑り込む斬撃が、胴を裂こうと迫る。
拓海は咄嗟に後退して受け流す。
だが反応が遅れ、刃が脇腹をかすめる。
「ッぐ……!」
痛みと出血が追い討ちのように重なる。
視界の欠損、揺れる地面、押し込まれる空間。
立っているだけでも限界が近い。
リーダーは止まらない。
「良い剣だ。お前の腕じゃなけりゃ、もっと輝くのになァ──」
笑いながら、再び左側に動く。
拓海の中に、焦りが広がる。
見えない。気配も定まらない。
霞を纏った刃すら、今の自分では十全に振るえない。
だが──逃げるわけにはいかない。
左側から繰り返される斬撃。
その度に、拓海の身体はかすかにずれていく。
足元が揺れる。
息が詰まる。
もう、時間の問題だった。
だが──
風が切り裂かれる音がした。
「……ッ!」
リーダーが、反射的に跳び退く。
拓海の目には、その一瞬だけ見えた。
仮面の女がいた。
シャ=ルマッカが、
グレイヴを横一閃に振るったのだ。
軌道は重く、鋭く。
まるで“闇を割る風”のように、真横から斬りかかっていた。
「チッ……!」
リーダーは咄嗟に身を捻って回避する。
だが、その動きは今までのような“余裕”ではない。
わずかに崩れた体勢──
──今しかない。
拓海は、無意識に身体を動かしていた。
霞を纏った曲刀が、右から鋭く振るわれる。
しかし──
一瞬の迷い。
距離感が、わずかに狂う。
ザシュッ!
刃はリーダーの脇腹をかすめただけだった。
深く入らなかった。
血が飛び散るには飛び散ったが、致命には届かない。
「……ッ、惜しかったな、坊主」
リーダーが苦笑混じりに後退する。
肩で息をしながら、拓海は足を止めた。
視界の暗がり、額を伝う血、そして震える呼吸。
それでも──まだ、終わってはいない。
焚き火の熱が揺れる。
刃と刃が交錯し、地面には足跡と血が刻まれていく。
シャ=ルマッカは拓海の横に並び立ったまま、無言で再び構え直す。
グレイヴがすうと振動し、木の根が収束するように長柄へと戻った。
拓海は荒々しく呼吸を整えると、剣を高く構える。
「行くぞッ──!」
二人は同時に踏み出した。
拓海の剣筋は、もはや洗練されたものではなかった。
だが、迷いのない剥き出しの力と殺意が、一本一本に込められていた。
霞が舞い、曲刀が斜めに、あるいは叩きつけるように振り抜かれる。
リーダーは受け、躱し、跳ねる。
だが、そこに──もう一撃。
シャのグレイヴが横から振るわれ、刃の風圧が男の顔をかすめた。
「……クソッ」
シャは間を置かずに、グレイヴの形状を変える。
柄がたわみ、しなやかな根へと変貌し、
今度は鞭のように曲がりくねった軌道で男に襲いかかる。
その動きは、予測不能だった。
右から来ると思えば、次の瞬間には足元から跳ね上がり、
リーダーは体勢を崩されながらも、なんとかバックステップで距離を取る。
その隙に、拓海の剣が荒々しく振るわれ、斜めに斬り込む。
「チッ……!」
再びリーダーは受け流すが、腕にかすり傷が走る。
呼吸が荒くなってきた。
額には汗、脇腹には血の筋。
それでもまだ持ちこたえてはいるが──
確実に、崩れ始めている。
「──クソがッ!!」
ついに、リーダーが怒声を上げた。
足を強く踏み鳴らし、口元を歪めて吠えるように叫ぶ。
「二人がかりでなぶりやがって……舐めてんのか、ガキどもがぁッ!!」
怒りと共に、構えを大きく変える。
刃が、斬るためのものから“振り下ろすため”のものに変わった。
それは──焦りの現れだった。
「ウォオオオオオッッッ!!」
怒りに任せて吠えたリーダーは、
そのまま全体重を乗せて剣を振りかぶった。
攻撃は重く、大振り。
だが、その分だけ──隙が大きい。
拓海の右手には曲刀。
だが、彼は左手をそっと腰へと伸ばしていた。
「……こっちも、なめんなよ……!」
腰のホルスターから、ピストルサイズの短機関銃を引き抜く。
血に濡れた視界を必死に定めながら──
トリガーを、引いた。
ダダダダダッ!!
銃声が焚き火の音をかき消すように響いた。
跳ねる銃身。
霞む視界。
咄嗟の判断、狙いは荒い。
だが──
「ッ……グ、アッ!!」
数発が、確実にリーダーの身体を捉えた。
一発は肩口、もう一発は腹部に。
そして、最後の一弾が太腿を貫通する。
リーダーの動きが止まった。
振り下ろしかけた剣が、中空でぶれ、
そのまま地面に落ちる。
「……が、あ……ッ……お前……!」
蹌踉めきながらも、リーダーは拓海を睨みつける。
だが、その瞳からはもはや“戦意”ではなく、
怒りと驚き、そしてほんの僅かな恐怖が滲んでいた。
リーダーの身体がよろめく。
肩、腹、脚──銃弾に穿たれた傷から血がにじみ、地面に滴る。
だが、それでも彼は──膝を折らなかった。
「……っざけんな……こんなもんで……ッ!」
地を這うように、震える手が再び剣に伸びる。
その目には、もはや理性も戦術もなかった。
ただ、剣にすがる獣のような執念だけが燃えていた。
だが──
キンッ!!
乾いた音が響く。
シャ=ルマッカの足が、その剣を無造作に蹴り飛ばした。
剣は空を舞い、遠くの土に突き刺さる。
リーダーの手は空を掴み、
もがくように目を見開いた瞬間──
「……ッ──」
グシャアッ……!!
グレイヴが、彼の胸を正面から突き貫いた。
捻れた木の根が肉と骨を裂き、
鋭く削られた貝殻の穂先が、心臓を深く抉る。
仮面の女は、何も言わなかった。
ただ、静かに力を込め、貫いたまま押し込み続けた。
リーダーの目が、一瞬だけ見開かれ──
そのまま、音もなく、潰れる。
重い音を立てて、崩れ落ちた。
焚き火が、少しだけ風に揺れた。
リーダーの身体が崩れ落ちると、
シャ=ルマッカは黙ったままグレイヴの柄に両手をかけた。
肉のきしむ感触を感じながら──
一気に引き抜く。
ズルッ──ッ。
貝殻の穂先には鮮血がまとわりついていたが、
シャはそれを一度くるりと手首を回して、地に払う。
根のしなる音とともに、血の飛沫が地面に散った。
それは、まるで“祈りにも似た所作”だった。
一つの命を絶ち、次に進むための儀礼。
その背後、戦場は静かに終わりへと向かっていた。
焚き火の周囲に散らばるのは、血に濡れた武器と呻き声。
傭兵たちはすでに戦意を喪失し、地面に這い蹲るか、
あるいは動けぬまま息を荒げていた。
だが、そこに情けはなかった。
女たちが無言で歩きながら、
呻く男たちの首筋に刃を突き立てていく。
躊躇いも、怒号もない。
ただ、静かに、処理するように。
「……ッやめ、くそっ、頼む……ッ!」
「う、うわあ──」
命乞いは届かない。
この世界では、敗者に与えられるのは“終わり”だけだった。
拓海は、曲刀を握り締めたまま、その光景を黙って見ていた。
まだ額から血が流れていたが、
それすらも、今は遠くにあるように感じられた。
「……終わったか」
誰に言うでもなく、つぶやいた声が夜に溶けた。