3-2 魔に生きる存在
狼が口を大きく開けて立ち上がる。震える後ろ足を庇うように、残りの足で無理やり立っているようだ。
(これは間違いない! 『フェンリル』!)
「ガウ!」
「うわっ!」
フェンリルが吠える。すると連動するように足元に複雑に入り混じった”魔法陣と魔術文字”が現れ、灰色の雲が上空に集まり、ボクの目の前に雷が落ちてきた。
狙いが外れたのか、牽制の一撃か。当たらずに済んだが、ボクは鋭く息を呑み警戒心を高める。生前、戦ったことがあるから分かる。
この大きな銀狼は「フェンリル」と呼ばれる魔獣だ。
元々は神の獣だったのだが、先祖のフェンリルが堕天し、その末裔は邪悪な存在として人間界で嫌われるようになった。子孫のフェンリルは雷を操り、人々の脅威として存在していた。
(しかし変だ。この世界に魔族も魔獣もいないはずでは?)
「グゥ......」
早速、父の話と矛盾が生じて困惑する。
......いないはずの魔族に魔獣。元勇者は思い出す。
勇者になり始めてすぐの頃。まだ未熟な自分と仲間たちは、不運にもフェンリルに遭遇した。
当時から悪名高いフェンリルの力は想像以上で、十五歳の自分と、エルフ、ドワーフ、祈祷師の四人ではかなり苦戦した。
人間とは違う体系の魔術の行使。つまり詠唱無しで雷を操り、自身は巨大な体格による暴力で喰いかかってくる。いくつかの共通点は、この目の前の狼にも当てはまりそうだった。
——つまり、十五歳の勇者が四人で倒せたフェンリルを、今の自分が倒せるのかということだ。このフェンリルが、ボクの知る個体と同じくらい強いならの話だが......。
だから警戒する。目の前の狼が悪意を持っているなら、不完全な勇者の力を引き出して戦わないければならない。相手の動き全てを逃さまいと、ボクは歴戦の記憶を呼び覚まし、瞬きを抑えて冷静に杖を構える。
対してフェンリルはボクを見下ろす形で牙を向けたまま、一切の動きを見逃さまいと、強い警戒心を感じる目で睨みつけてくる。
試しにすり足で後ろに下がろうとすると、ジリッという音に反応して、フェンリルは耳を立てる。ここで闇雲に動くのは危険だ。効果があるか分からないけど......。
「落ち着け。ボクはお前を襲わない。ただ通りすがっただけだよ」
「......」
(敵意は薄い? というより何を警戒している? その怪我は誰にやられて......)
安心させるように、ダメもとで声をかけてみる。フェンリルが怪我をしていることは、初めて見た時に気づいていた。どうやらその怪我を負わせた相手の仲間だと思っているのか。
ともかく宥めて様子を見る。そのつもりだったのだが。
「騒がしい犬め。逃げても無駄だと......」
野太い重低音のある声。加えて何か別の大きな足音が、森の奥から聞こえてきた。
それがどんどんと近づいてくる。フェンリルはその声の主の方を向き、今にも吠えそうな唸り声を、その方向に飛ばしていた。
「むぅ?」
「お前は......」
森から姿を現したのは、大きな二つの目と四つの複眼を持つ、四足歩行の焦げた色の肌を持つ魔獣だった。アレは魔界にいる、僅かに知恵を持った個体のはずだ。なぜこんな場所にいるんだ?
「なんだ小僧。邪魔だ!」
「っ......『ゴリアテ』か」
「なぜ我が名を知っている?」
ゴリアテが巨大な首を小さく捻って傾げる。四つの複眼と大きな二つの目が、ジロリとボクを見下ろす。相変わらず不気味な瞳で、禍々しいヤツだ。眼光は鋭く、二つのツノを持ち、刃を通さない肉体は凶悪。並みの冒険者では相手にならないと言われている。
そんな魔獣と出会ってしまった。ボクは警戒心を緩めず、武器ですらない羊飼いの杖を握ったまま、ある質問をする。
「ボクも知りたい。なんで滅んだはずの魔獣や魔界の者がいる。ここは平和な人間の世界だぞ」
「何の話、だ? 意味が分からんぞ、小僧!!」
(やはり『魔族』という認識はないのか。しかし、困ったな)
魔界について、魔族について。知っているのなら聞いておきたかったが、目の前のゴリアテは知らない様子。
痺れを切らしたのか、フェンリルを避けて、まずは矮小な人間を潰そうと突っ込んでくる。
「『アルテム・フランマ』!」
「ぬっ、魔術? しかしなんだ、飛んでくる羽虫以下ではないかァ!」
口詠唱で”炎の塊”を言葉で呼び出す。
巨大な火球を投げつける、前世で慣れ親しんだ魔術だ。
しかしその球は拳ほどの大きさしか無く、威力はお粗末なモノだった。つまり発動に失敗したみたいだ。やっぱりダメだったか!
失敗したと分かるや否や、すぐにゴリアテの突進を避けることに集中する。木々の間に身を隠し、様子を伺う。
「臭いで分かる。隠れても無駄ヨォ!」
(やっぱり魔力の扱いが上手くいかないか)
練習が功を成さない。肉体に勇者の技量が追いついていない。希望的観測をするなら、そんな状況だろうか?
(それかボクの力は......)
だから会得した魔術は、やり方を知っていても頼りにならない。恐らくレベルというものに追いついていないのだろう。
それが上向きの考えなのは、どこか首を縦に振って頷くには違和感のある感覚だった。あるいはボク自身、潜在意識の向こうで何かを悟り、感覚で理解しつつあるのかもしれない。
初歩的な技術ならどうかと検討して、首を小さく横に振る。以前、杖に魔力を流すだけだと、限度があると修行で思い知ったことがある。
魔力を集めて作る、両手に実態のない剣こと『魔力の剣』を作っても同じ結果だろう。だったら残された手段は一つ。
(......『女神の剣』! 良かった、これは使える!)
戦局を判断をして、ボクは「女神の眼」と同系統の力を引き出す。
生前に女神から授かった力。感謝と寵愛の印であり、友人たちからのささやかな贈り物だ。どうやらこちらの力は引き出せるようで、安堵と共に別の感情を確かに抱く。
しかしその一瞬の気持ちも消え、代わりに妙な違和感を感じた。まるで力が抜けるような......?
疑問がそのままボクの首を傾けさせる。だけどこの時は戦闘に集中していて、その正体に辿り着くのが遅くなってしまった。
(今は力を扱うことだけに集中するんだ!)
女神の力を杖に纏わせる。体を後ろから優しく抱きしめ、包み込むような光が杖を覆う。上手く付与できたのを確認し、隠れていた木から飛び出し、杖をゴリアテの体に向かって振りかざす。
死角の方から仕掛けたのだが、臭いでばれていたせいか、回避行動を取られてしまった。
しかしそんな些細な行動に合わせて攻撃し、追従することができてこそ勇者だ。細い足で踏ん張り、地面を蹴って逃げようとしたゴリアテの横腹に向かって、杖の先端に集めた光の刃を突き刺す。
「ぐふぉっ!!」
「ふむ、浅いか。それに妙な手応えだな。魔族に効くはずの”光”が効かないとは」
「だから、何の話だァ!」
再び回避。攻撃を避けるが、ゴリアテはなかなかの強さだ。これは骨が折れそうだぁ、例えでも実際の方でも......。
いつ攻撃を喰らって死ぬか分からない、ならば近接を避けるべきか。試しに近くの石を拾って身を隠す。
(石に”魔術文字”を。手順を踏んだ、これならどうだ?)
口での詠唱がダメなら、より初歩的な技術で。指先に集めた光を使って石に文字を刻む。
刻んだのは「投擲」の力を示す文字。それをゴリアテに向かって、木を挟んだ状態で投げつけた。
「グアア!」
(よし、これなら逃げ回って戦えるな)
「ツゥぅ......ウォぉぉ! 燃え広がれェ!」
「!!」
逃げ回れば勝てる。勝ち筋が何となく見えてきたような気がした。しかし、その甘い考えを断ち切るように状況が一変する。
あともう少し試してみたかったのだが、ゴリアテの怒りが爆発したのか。かの魔獣の怒声に連動して魔力が内側から飛び出し、その余波を浴びた草が燃えていく。
周囲が炎に包まれる。森が焼かれ、草木の命が消えていく臭いが漂ってくる。
口元を覆って、右手の杖を構える。
「遊びは終わりだッ。本気の戦いでお前を殺すぞ!」
隠れ場所がなくなった。正面切って、戦うしかないようだ。
炎から逃げていたフェンリルが唸る。ボクもこの世界で初めて、体の内側から緊張する。
久しぶりに感じる命のやり取り。その緊迫感に身を包まれて、立っていられる人間はそうそういないだろう。
「”遊び”か。どうやらボクは今まで、無意識に君をおちょくっていたらしい。失礼だった、敬意が足りなかったかな」
「ヌゥぅ」
余裕があったわけじゃない。でも所詮はゴリアテだと、ボクはたかを括っていた。
次回更新は20〜22時、3-3をアップします。