彼女の異常な欲情 1
カーテンの隙間から漏れる朝陽、リビングから洩れてくるニュースキャスターの声。それらに気を向けないで彼女、山冨練はカタカタカタと、プラスチックな音を連続して小気味良く部屋に響かせている。
そして水を撫でるような音と荒い息が徐々に速度を速めていく。
パソコンのディスプレイは数字と記号が横並びに埋め尽くしている。
練はプログラミング言語を入力し、『spys』の起動速度を速めようとしている最中だ。だが、使用している言語には文字の並び、文法などあるとは思えないほど複雑で、難解プログラミング言語に分類されるようなものだ。
人がコンピュータに指示を出しやすくするために生まれたその道を逆走する言語。いわば不良品のようなモノを使用して練はプログラムを組んでいる。
プログラマーの才能がある練が、この難解プログラミング言語を使用する理由は三つある。
一つは、命令文が成立するとどの言語よりも綺麗な文字列で、美しい詩を読むような感覚に陥るから。二つ目は、誰かと会話をしているような感覚に陥るから。
三つ目は、性的な興奮状態に陥るから。
そう、彼女はプログラムに欲情する。
陰部を指で優しく丁寧に撫で、艶やかな表情をして虚ろな目でモニターを見つめる。
なぜ、ただの文字列の並びが性的欲求をかき立て、そして満たすのだろうか。
練はプログラムを読み、官能小説を読むように性行為を脳内に描いているわけではない。プログラムを見て、それがアスキーアートのように陰部や人の顔に見えるわけでもない。
では、どうして?
その理由は練にはわからない。
八ヶ月程前、突然この感情が湧き出たのだ。
日が経つにつれ、月に一度だったのが隔週、毎週、四日に一度と回数が増えていったのだが、今月に入ってからは毎日行っている。
朝、目覚めるとパソコンの前に座り、五分もかからないうちに顔は火照り、目が力を失う。
「またやってしまったわ」
ぼうっとした頭で項垂れ、濡れた指先を見て自己嫌悪に陥る練。
事後はいつも気分を落とすのだが、それでもやめることができない。
そうしていると、トントン、と軽いノックが部屋のドアを鳴らし、練は驚く。一瞬ビクツくが、平静を装いドアの向こうの少女に返事をする。
「どうしたの倭久井さん」
「おはようございます練さん」
目覚めバッチリな元気のよい声がドア越しから伝わる。
「朝から精が出ますね、お疲れさまです」
精という言葉に驚かされたが、これは自慰行為を指摘されたことではない。目覚めて一時間はプログラムを組んでいると梅に伝えているのだから、と練は自分に言い聞かせる。
「コーヒー煎れたんですけど飲みますか?」
「いえ、今いい調子だから後で頂くわ」
何がいい調子だ……と嘆息する練。
こんな人を騙す行為をこれからも続けて行くのかと思うと、かなり心苦しい。純粋な尊敬の眼差しで見つめてくる梅が相手なら尚更だ。
「そうですか。ではリビングの机に置いておきます」
「ありがとう。ところで登校はどうする? あの子を迎えに行けばいいかしら?」
「あの子?」
梅は練と二人で登校する気だったので誰のことかわからず問い返した。
「ええ、人見と同室になった彼女よ。小さくて細身の」
「ああ、綾のことですね。そうですね、クラスも一緒になったし。わかりました、メール入れてみます」
「いえ、それなら今から向かいなさい」
「どうしてですか?」
「同室者が人見だからよ。下手したらまだ寝ている可能性だってあるわ」
「はあ……。それはさすがにないんじゃ? もう予鈴三十分前ですよ」
「百聞は一見に如かず。私と喋る時間も勿体無いわ。早く迎えに行きなさい」
「はい。わかりました」
練が急かす意味を理解できない梅だが、尊敬する相手の言うことなので渋々返事をし、駆け足で部屋を出て行った。
「私も早くしないと遅刻よ」
一人呟き、練は下半身の汚れを落とすため風呂場に向かった。
駆け足三分で和泉ヶ丘高校の男子寮に到着した梅は、入り口にいた年寄りの寮長に適当な嘘をついて、友乃の部屋に向かった。
和泉ヶ丘高校の寮は男子とも2DKのマンションタイプで、四畳半の洋室が二つに、六畳のダイニングキッチンの風呂トイレ付きだ。食事は登校日の昼間のみ食堂で出され、あとは自炊となっている。大まかな規則は、門限は二十一時まで、特別な理由がある場合のみ、異性の入室を寮長に許可してもらうことになっている。
だから友乃は異性が案外簡単に部屋に行く事を許可され、少し拍子抜けしていた。これが特別な理由と言うのなら、案外規則は緩いのかもしれない。
一階の一番端の部屋にある人見と友乃の部屋に着くと、チャイムを鳴らし返事を待った。が、一息ついても返事がない。仕方ないのでノックし、ドアノブを回し「失礼します」と言いながら戸を開ける。
玄関に足を踏み入れると、まず目に映ったのはお菓子の袋が入ったビニール袋。DKに続く廊下には点々とゴミが捨てられていて、それを拾いながら梅は進んだ。
DKへの扉を開けると梅は目眩がした。それと同時に練が急かしていた意味を理解する。
「あっ、おはよう梅。どうしたのこんな朝早く」
ゴミが所々に落ちた六畳のDK。その中央に置いてあるコタツに入り、寝転びながらみかんの皮を剥いて、めざまし視聴中の友乃。反対側にはコタツに肩まで入って寝息を立てている人見の姿も見える。
「ど、どうしたもこうしたもないっしょ! 今日は何の日だと思ってんのよ。始業式よ! しかもあと二十分しか時間ないしっ」
顔を真っ赤にして捲し立てる梅を見つめ、不思議そうな表情を浮かべる友乃。
「どうしてそんなに慌ててるの? 始業式って別にフリーなんでしょ」
「フリー?」
「行っても行かなくても、どっちでもいいんだよ」
「んなわけあるかっ!」
理事長の娘がこんなバカなことを言うとは思ってなかった、という考えを持つ自分に対しての怒りと、友乃のゆとりある発言が許せず、梅は怒鳴り声をあげてしまった。その声で人見は目を覚ます。
「おいおい、うっさいな。朝っぱらから何だよコイツ? 友乃の友達?」
とりあえず拾ったゴミをゴミ箱に放り込み、怒りを足に乗せ、必要以上にフローリングをドスドスと踏みつけ、寝転ぶ人見の側に向かう。
梅はぼさぼさ頭の眠気眼を見下ろした。
「倭久井梅です。人見さんでしたっけ? あんたが友乃に始業式なんてどうでもいいって言ったんですか?」
人見は瞼をこすりながら、面倒くさそうに口を開く。
「言った。意味ないだろあんなの。ただの顔見せだし?」
「ただの顔見せでしょうけど大事だと思います。初日から休むと友乃が変な目で見られますよ。病欠ならわかりますが、同室の人見さんが行かなくてもいいと言った、なんて理由じゃ、大問題です」
「なんで? どうして友乃がそれだけで変な目で見られるんだ?」
何もわかってないと梅は舌打ちをし、友乃に学校に行く準備をするよう指示して再び人見を睨みつけた。怒りが徐々に増してくる。
「同室者が男性だからです。今までは血縁関係者なら、男女の同室者はいたようですけど、全くの他人のケースなんてあなた達が初めてなんですよ。だからもうすでに変な目で見られてるのに、始業式まで来なかったら変な関係になってんじゃないのか? って思われるじゃないですか」
「それは梅が変な知識を持って変な目で見てるからだろ」
吊り上がった目を更に吊り上げ、大きく息を吸い、溜まった苛々を吐き捨ててやろうとする梅。だが、友乃の「準備できたよ」の声で怒りをリセットされ、素早く人見に背を向け玄関へ足を進めた。
「人見さん。いえ、人見。これからはあたしのことを梅なんて下の名前で呼ぶな。それに年上だからって敬語は使わない。馬鹿を敬うほど心に余裕なんてありませんから」
そう言ってまた必要以上に足音を立てながら廊下を歩き、必要以上に扉を強く閉めた。その音がリビングに響く。
「めっちゃ怒ってるね梅。じゃ、いってきます」
小さく手を振り慌てて梅を追う友乃を見送ってから人見は嘆息まじりに呟いた。
「元素からカルシウムの足らん人種は苦手だ」
「よくあんな不衛生な奴と暮らせるわね」
「よくあんな社会不適合者と暮らせるわね」
「よくあんな味のないガム野郎と暮らせるわね」
「それってどういう意味?」
「人として中身がないってことよ!」
先に出て行った梅に友乃が追いつくと人見に対する悪口を連発し、不機嫌な表情と足取りで進む通学路。一学期初日からいきなり険悪気味。
「あいつは引きこもって何してんのよっ!」
「なんかパソコンと話すとかどうとか言ってた気がする」
「意味不明! どうせあんなキモイひきこもり野郎のことだから、二次元キャラに声をつけてハアハア言ってるんでしょ! もう、せっかく練さんと登校できると思ったのに最悪よっ!」-
ムカつくっ! と地団駄を踏む梅の姿が、子供がおねだりするようでおかしく、友乃は少し笑みをこぼす。ただしその表情を見られれば怒りの矛先がこちらに向くので、少し俯いて口を隠し、正面を見て梅に覚られないようにして歩く。すると十字路の辺りでこちらに視線を向ける、同じ制服の少女の姿が見えた。見覚えのある長身だったので、友乃は梅に問い掛ける。
「ねね、梅。あれって」
「なによ」
話しかけるなと顔に書いたような立腹具合な目つきで友乃を見てから、その視線の先を追う。するとみるみると表情を剛から柔に変えた。さながら地獄から天国へ瞬間移動したような感じだ。そして跳ねるような足取りで彼女の元に走って行った。
「待っててくれたんですか、練さん!」
「初めて登校する日は一緒の方が朗らかな気分になるでしょう?」
飼い主を見つけた犬のように従順な瞳で見つめる梅に笑いかける練だが、その笑みにはどこか戸惑いが見られる。
「どうしたんですか倭久井さん?」
「人見は?」
「ああ、あの味無しガム野郎ですか。奴なら紙に包んで捨ててきました」
人見の事情説明を梅が皮肉まじりに言うものだから、練は理解できず首を傾ける。そうこうしている間に駆け足の友乃が追いつき、練に向かって頭を下げた。
「おはようございます先輩」
「あ、ああ。おはよう。えっと」
練は瞬きを二回行うことで『センリガン』を起動し、『spys』で友乃の情報を覗く。友乃の顔の横に漫画の噴き出しの様なものが現れ、綾友乃・一年五組、という情報が表示される。
「綾さんね。確か入寮歓迎会で見かけたわよね。私は―ー」
「山冨練さんですよね。確か学年首席で生徒会長でプログラミング? が得意の。これからよろしくお願いします」
そう言って手を差し出すも、練は気付いていないのか、その手を取らず視線をそらした。
「よく知っているわね。spysで覗いたのかしら?」
手を戻し、そうではないと首を振る友乃。
「わたし登録できないんですよ。携帯が対応してないので」
「ああ、だから名前とクラスのみ表示されたのね。和泉ヶ丘に通っていてそんな旧式の携帯を使っている人がいたとは……。でも学校に着けば、授業用にタブレット型デバイスが配られるから、それでspysに登録できるわ。早めに登録することをおすすめします」
タブレット型デバイス? なにそれ? と友乃が考えている間に二人は学校へと続く坂を歩き出したので早歩きで追いかける。
「ところで綾さん。人見はどうしたの?」
「人見さんなら始業式なんて意味ないので休むって言ってました」
「あの人、また微睡んでいるのね。今日のような清々しい日と言うのに」
やれやれ、と呆れた口ぶりで練は言う。そこへ、『また』というワードが引っかかった梅が問い掛ける。
「その言い方だと、練さんと人見は知り合いなんですか? それとも……友人」
練と人見が友達? そんなぞっとするような関係を想像し、鳥肌を立て恐る恐る訊ねたのだが、違う、の一言で瞬時に鳥肌がサッと消える。
「人見とは小学校が同じだったのよ。だから呼び捨てなのは親しいとかそう言う間柄ではなくって、小学校のときはさん付けとかあまりしないでしょう? 呼び名を変えるのは変だから呼び捨てしているだけよ。あと高校の一年でも同じクラスだったけれど特に会話をした覚えはないわ。一年の頃登校日数ギリギリだったから、今日のようなことが起きるのではないかと危惧していてのだけれど、功を奏してよかったわ」
べらべらと喋る練を梅は不思議そうな眼で見た。いつもは無愛想と言うわけではないが、訊かれた以上のことを口にしない。だが、人見のことを訊ねるとこの有様だ。何か隠し事? と梅の脳裏をよぎるも、隣を歩くさっきまで寝転んでいたわりにさらさらと艶やかな髪を風になびかせる友乃の顔を見て、人見の顔を思い出しその考えを捨てる。
あのような男に好意を持つ人間など人としてどうかしている。見る目があるかないか、という問題ではなく変態かどうかの問題に発展しそうな気さえする。
梅だって嫌いな人間と仲が良いのかと訊かれれば全力で否定して、訊かれた以上のことを言ってしまうだろう。関係を根無し草にしたいのならば、それくらいするはずだ。梅は一人納得し、うんうんと頷く。
坂を上りきると、花びらを散らし始めた桜と校舎が見え、新入生二人の胸は少し高鳴る。今日から本格的に高校生活が始まる。梅にとっては夢だったこの場所。友乃にとっては異世界なこの場所。
門を抜けると二人は眼を合わし、よろしくと言いあった。そんな初々しい二人を見て練はつい笑みをこぼしてしまう。
「私は三年棟だからこっちね。倭久井さん。一年棟の場所はわかるかしら?」
もちろん、と胸を張る梅。
「ええ、パンフレットで校内マップは暗記済みです。それにもし迷っても私のケータイのARでナビできますし」
「そう、ではよい始業式を、梅、綾さん」
「はい」い」
梅の返事に遅れて友乃の返事を聞くと、正門から左手にある三年棟に向かって練は歩いていく。
「じゃ、行こうか」
「うん」
梅は友乃の返事を聞くと正面にある文化部棟の右手に見える一年棟に向かって早歩きで向かっていった。それに駆け足で友乃が続く。




