音のない音楽祭 6
人見は歌織を連れ、カウンセリング室に行き、室内にいた佐藤を邪魔だと追い出し、歌織のカウンセリングを行う事にした。
「さあ邪魔者はいなくなった。話せる事でいいから話してくれ。その代わり嘘はつくな」
歌織は小さく頷き、心を混沌とさせている母親と歌に関する事を話した。
幼少時からほとんど学校に行かず歌を歌わされ、そうしないと母親の機嫌が機嫌が悪くなった事。そして母親の耳が聴こえなくなったと同時に歌声を失った事実。
「きっと僕は母さんの為だけに歌ってきたんだ」
それを聞いた人見は満足そうな笑みを浮かべた。
「なんだ、自分の傷がどういうものか理解しているのか」
人見は指で机をトントンと二回叩き、小さく息を吐いた。
「俺はお前がこうなったのは、端的に言うと、歌を歌いたくないからだと思っている。歌いたくもないのに母親のせいで歌わされてきた。だが、母親の耳が聴こえなくなり歌う意味はなくなった。だから歌声がでなくなったと。
ようは母親の呪縛から解放されたんだ。歌に執着する必要はない。いや、歌う事で歌織は小さい頃に起きた母親との嫌な思い出を思い出すかもしれない。
もう一度言う。それでも歌いたいか?」
もちろんと力の瞳で歌織は人見を見つめた。
「オッケー。なら明日から歌の練習をする代わりと言ってはなんだけど、俺の部屋に来い。カウンセリングをするぞ」
その日から人見は歌織が理解した傷を受け入れる為にカウンセリングを行った。時には歌織が信頼を置く友乃と練も一緒に。けれど精神的な回復は見られても、歌声が出ることはなかった。
もしかすると人見の精神分析は間違えているのではないか。そんな雰囲気が出始めた二週間後。
「ああああああ。どんだけ歌織のトラウマは深いんだよっ! お前練習してないだろうなっ、母親を思い出すってだけで回復が遅れるかもしれないんだぞ」
「してないよ。声が出ないのに練習しても意味ないだろう?」
「落ち着きいてよ二人とも、特に人見は頭を冷やしなさい。カウンセラーがそんな状態じゃ治るものも治らないわよ」
練にそう言われ不貞腐れた人見は顔を膨らませ、ちょっと散歩だと部屋を出て行った。慌てて練が追いかけて行き、部屋には友乃と歌織の二人だけが残る。
「そう言えば綾さん。どうして君は僕の朝練に顔を出していたんだい? 声も聴こえていないのに何が楽しかった?」
うーんと考える素振りを見せ、しばらく前の記憶を探る。
「楽しいとかじゃないんですよね、貝口さんを見てたらなんだか安心したんです。あの時はその理由がわからなかったけど、今はわかります」
「どういう理由?」
「わたしは今まで狸憑きを行う事で人に認められて、蔑まれもしました。だから狸憑きがなかったら、わたしは誰にも見てもらうことすらしてもらえなかったんじゃないかなって思うんです。
でもそれは村でしか意味がないって知って落ち込んでました。そこで貝口さんを知りました。歌う表情を見てわかりました、この人はきっとこれが自分の全てだと思っているんだって。けれど、それを失ってる。同じ境遇の人を知って安心したんだと思います。でも理由はもう一つありますよ」
そのことを想像して友乃はつい笑ってしまう。
「それは音楽祭に行ってから、歌織さんの本当の歌声を聴きたいと思ったからです」
言い終えると友乃はトイレトイレと呟きながらDKから出て行き、歌織のみとなった。
歌って欲しいから。その言葉が歌織の頭を渦巻く。
今まで歌織は歌を歌っても、歌を歌う人を求められてきた。母親にしても、高校にしても、彼が努力して磨いた歌ではなく、彼を求めていた。けれど友乃は純粋に歌声だけを求めている。そう思うと体が震えた。
すっと立ち上がり、歌織は歌っている自分をイメージし、口を開いた。
母親という重しがなくなった歌は一体、どんな音色に聴こえるのだろうか、どういう感情を人にもたらすのだろうか。
歌声を求めた彼女の鼓膜に、体に響かせたい、そう強く思いながら。
すると、リビングの扉が開き、何故か信じられないといった表情の友乃が顔を覗かせ、歌織に飛びついた。
「どうした、綾さん。トイレは?」
「貝口さんこそどうしたんですか! 出てましたよ、歌声!」
「嘘?」
友乃は歌織の体から離れ、ちょこんと座り、拍手を始めた。
「貝口歌織さんです。歌はなんでもいいです、歌って下さい」
「なんだいそれ、音楽祭のつもりかい?」
小さく笑った後、歌織は深く目を瞑り、薄い氷の上を歩くような慎重さで、第一声を発した。
瞬間歌織は感じた。頭の先から喉、つま先全て、歌声による振動を。すると自然に笑みがこぼれ、涙が流れた。
歌織にしか感じる事の出来ない至福のとき、それに共鳴した友乃の心が震える。
その響きは部屋のノブを回そうとした人見とその隣にいた練にも伝わった。
「どういうこと、人見?」
「俺が歌織に対して間違った認識をしていた。命より大事な物なら失わないんじゃなく、大事だからこそ失ったんだ」
意味の分からない人見の呟きに練は首を傾げる。
「歌織は、自分が思っている以上に、歌うということを重要な位置づけにしていたんだ。それは息をする事と同じくらいなのかもしれない。
あいつは言った、歌は消耗品だと、一度失えば元には戻らない、とな。そんな大事な物が母親のスパルタトレーニングで壊れかけていた。できれば休みたかったが、歌わないと今度は母親の愛情をなくしてしまう。こっちも生きて行く上で大事だ。だから歌い続けた。しかし母親の耳が聴こえなくなった事で歌わないでよくなった」
「つまり休息の時間だったってこと?」
「そうだろうな。生きる上で失ってはいけない物だから、脳だけが歌い、喉は休ませることにした。そうすることで、精神のバランスを保ったんだろう。で、喉が治り、歌うきっかけを探していた。そのきっかけを今、歌織自身か友乃が見つけたんだろ」
歌織が歌声を失った理由は、ただ十数年と歌い続けてきた疲労による物だった。母親がどうとか、歌う意味がどうとか、そんなものは関係ない。ただ、歌織が歌いたいという気持ち故に、喉が潰さないようにする為に脳が無意識にブレーキをかけていただけの事。
「そのきっかけを作れなかったのは悔しいけど、まあ、扉を開けて演奏が止まったら嫌だから、このまま聴いとこうか」
だね、と練は頷き、扉に耳を当てる。
音が響く喜びを感じた。




