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妄想公園  作者: 奈屋一郎
13/17

音のない音楽祭 5

 友乃が歌織の朝練に付き合い、たまに練も一緒、という日々が一週間程過ぎ、互いの心の距離が近くなった頃の練がいない日。練習を行う前の空いた時間に歌織は友乃に母親の事を訊ねた。携帯電話で母親と話す幻想を見ている友乃が、ものすごく幸福そうに見えたので気になったのだ。

「君はお母さんに僕が歌う姿を見せているけど、仲が良いのかい?」

 部室の壁にもたれて座り、隣り合わせで二人は言葉を交わす。

「最近携帯電話の故障で中々繋がらないんですよね」

 友乃は愚痴を漏らしたあと、表情を和らげ、言葉を続ける。

「そうですね、世界で誰よりも、私がお母さんを好きだって自信があるくらい好きです。うーん、でもお母さんを想像してオナニーはしないから、変な好き、ってことになるのか?」

 小学生のような容姿をし、精神年齢も比較的低そうな友乃から、オナニーという言葉が出て来て少し驚いた歌織だが、変な好き、という言葉は的を射ていると思い頷いた。

「貝口さんのお母さんはどんなですか? 私のお母さんはすっごい優しくて、色々話してくれて、でも駄目な事をしたら怒ります。すっごい怖いです、熊です」

 自慢げに言う友乃を見て、親子関係は極めて良好なのだろうと感じ、少し羨ましくなる。

「僕のお母さんは……」

 言葉に詰まる。友乃はきっと他人の母親も誰よりも子供を愛していると思っているのだろう。その思いを崩してしまう事が歌織は残念に思えた。けれど、歌織は言う事にした。世の中には様々な考えを持つ人がいると言う事を知ってもらう為に。

「声楽家を目指していたよ。けれどその夢は叶わなかった。努力、才能、お金、何が足りなかったのかは知らないけどね。

 母さんは僕を生んで、その夢を僕に委ねた。お腹の中にいる頃からクラシックやオペラを聴かされ、言葉より先に歌を覚える、そんな環境に育ったよ。幼稚園にも通わず、ほとんど小学校、中学校も出席しないで毎日毎日、母さんに歌を教わり続けた。高校に入っても必要最低日数分は登校して、あとは歌う日々だった」

 思い出話しを淡々と無感情で話す歌織に、友乃は少し悲しい気持ちなる。

「歌わされていたの?」

「どうだろうね。歌えば楽しいと思ったし、心が解放された様な気になったけれど、その可能性は否定できない。いつも機嫌の悪い母さんだけれど、僕が歌を歌うと機嫌が良くなるんだ。だから歌い続けた。それが僕の出来る親孝行と思ったからね。

 そして半年程前、母さんは事故に巻き込まれて、危篤状態になった。信じられないまま病院について、危篤に陥ったの母さんを目の当たりにしたら、何故か歌わなければと思った。変な話しだけれどね。それで僕は歌った。僕が歌えば、起きて笑った顔を見せてくれるかもしれないと思ったんだ」

「お母さんはどうなったんですか? もちろん生きてますよね」

 自分の事のようになって必死に問い掛ける友乃を見て、歌織は微笑む。

「ああ、僕の歌か、医療のお陰かわからないけれど、目を覚ましたよ」 

 よかったと嘆息し、手を叩く友乃。しかし歌織はまた表情を曇らせる。

「けれどね、耳が……お母さんの耳は聴こえなくなってしまった。それから母さんは僕に会おうとしてくれない。思ったよ、歌わない僕を母さんは息子だと思ってくれてないんだって」

 意気消沈した友乃は歌織から視線を外し俯いた。歌織もその後、何を話していいかわからず、心を切り替えるため、立ち上がって柔軟運動を始めた。

 しばらく沈黙が続いた後、友乃は口を開いた。

「貝口さんがお母さんの事をそう思うのなら、そうなのかもしれません。けど、そのお母さんから教わった、その歌声は……なんなんですか?」

 その言葉の意味がわからず、歌織は柔軟体操を一旦止め、友乃の顔をじっと見つめた。

「それはどういう意味だい?」

「いえ、お母さんの為に歌っていて、それが聴こえないんなら、貝口さんが歌う意味ないんじゃないかって思えて」

「わからない、どういう意味だ」

 震える声で歌織はもう一度、友乃に問うた。

「貝口さんにとっても歌は、お母さんの考えと同じで、ただ機嫌を取るだけの……道具なんじゃないかって思えて」

 歌織はそれを聞くと黙って部室の扉を開けた。

「帰ってくれ、君の言葉を聞くと平常心でいられない」

「ごめんなさい、けど、私はそれを悪いとは思わないです」

 謝罪はいいから早く出て行けと歌織は友乃を睨みつけ、しょげながら友乃は部室を後にした。

 久しぶりに一人でいる部室はとても広く、寂しく感じた。

 かなり失礼な発言だったはずなのに、不思議と怒りが沸き立たず、頭の中は真っ白だった。それは友乃の言っていた事が真実だからだろうか? しかし、どこか胸の奥に濁りを感じた歌織は納得できず、ジュンプウジを耳に付けながら考えた。

 

 歌織は上の空だった。友乃からあの言葉を聞かされてからずっと。

 練習中、そのことを先生から指摘されると思っていた歌織だが、何故かいつも通りに練習は進んだ。だが、クラスメイトからは休み時間ごとにそのことを問われた。その度に顔や雰囲気の違いで気付かれてしまったのか、と苦笑した。

 先生はもしかして上の空である事を気付かぬフリをしてくれたのだろうか、それとも歌織の歌には感情と呼べる物が存在していないのだろうか。それはもしかすると、歌織が歌を母親の機嫌を取るだけの道具と捉えている証拠ではないか。違うとするならば、歌織にとって歌とは何を意味するのだろうか。

 頭の中でああでもない、こうでもないと巡る思いを断ち切るため、歌織は行動に出る事にした。

 昼休み。歌の先生の言葉を無視し、練習以外で歌う事を決めた。

 歌織が今までで歌を歌うことに喜びを感じたのは、機嫌の悪い母親を喜ばせた時と、危篤状態の母親に聴かせ息を吹き返したときだった。それは人の心を動かせたと目に見えてわかったときではないのかと。そう考えた歌織は、中庭で一人、歌を歌うことに決めた。

 誰に評価されなくてもいい。何故こんな所で歌っているのだと嘲笑されてもいい。ただ立ち止まって聴いてくれさえすれば。歌う姿を見てもらい、感情の変化が見られれば、歌織はそれだけで歌う意味を見出せる気がした。

 ベンチに座って談笑や弁当を食べる者、ボール遊びをする者。穏やかな陽が照らし、仄かな風が吹く中、歌織は中庭の中央に立った。

 腹部に手を当て大きく息を吸い、空気で膨らんだ腹からゆっくりと息を吐き出し、繊細な息づかいを見せる。

 歌っている間、歌織の頭の中には歌以外何もなかった。何も考えない、ただ歌う事だけ。そうすることで周囲の空気と交わりあい、この世界には自分だけが存在しているように思えた。けれどそれは悲しいことではなく、何とも言えない、何物にも代えられない爽快感があった。

 歌い終わり周りを見渡すと、歌織の想像とは違い、誰も彼を見ていなかった。一瞥はするものの、誰も足を止めない。何が原因なのかわからない歌織は、歌うことへの集中力を下げ、周りを見ながら歌う事にした。

 しかし、周囲の様子は変わらない。「あっ、歌織さんだ」と声を発する者はいたが、ただそれだけで通り過ぎて行く。

 中庭は校舎に囲われているので、声を出せば壁に跳ね返り、響きあって教室にいる生徒達も気付くはずだ。だが、誰も窓から中庭で歌う歌織を見ようとはしなかった。

 そこで歌織はふいに友乃の携帯電話のことを思い出した。

 友乃がテレビ電話で話していた母親は、テレビ電話だというのに表情が変わらず、声すら聞こえてこなかった。友乃は携帯電話で母親という幻を見ていたのだ。

 ならば自分はどうなのだろうか、もしかして声が出ていないのかもしれない。いや、会話は可能だったので……歌声が出ていないのかもしれない。

 そんな仮説が頭をよぎった瞬間、ぶわっと全身に汗が噴き出した。

 すぐにその考えを消したい歌織は、ジュンプウジで歌の先生に電話をした。向こうの声が聴こえると、興奮して、食い気味で、出した事のない様な大声で口にする。

「先生! 僕の声はどうなっているんですか」

 少し間を置いて電話からとぼける様な声でどういう意味ですか、と質問が返ってくる。

「歌です。僕は歌えなくなったんですか! そうですよね、歌っても誰も反応しないですし、こんなことは歌が聴こえていない限りありえない!」

 ヒステリックな声が中庭に響き、しばらくの沈黙の後、観念した先生の声が聞こえた。

「歌織さんに気付かせない為に、色々制約を付けて歌の練習をさせて来たのですが、無駄だったようですね。そうです、歌織さん、あなたの歌声は聴こえません」

「いつからです! いつから僕の声は……」

「あなたのお母さんが危篤状態に陥り、耳が聴こえないと知ってからです」

 歌織にとって一番聞きたくない答えが返って来た。

 どんよりとした重い影が体を覆う錯覚にあった歌織は、それ以上会話する事などできず、その場にうずくまり嗚咽し、涙を流した。

 ほとんど友人も作らず、漫画やテレビにも目を向けず、ひたすら歌い続けてきたその結果が、母親の機嫌を取るのだけの意味だっただなんて絶望以外の何物でもなかった。

 違うはずだ、僕にとっての歌はそんな矮小な物ではない。しかし否定できない現実に苛立ち、拳を強く握り、泣きわめいた。

 歌では近寄ってこなかった生徒達も、泣く歌織を見て辺りを囲いだす。大丈夫、などと声をかけられる中、顔を上げるなど出来なかった。

 歌は歌織にとっての存在意義であった。それを失った自分には何もないのではないか。そんな自分が他人の目に映る事が酷く恥ずかしく、更に縮こまってしまう。

「おい、こんなとこでいたら邪魔だ」

 不機嫌な容赦のない言葉に周りはざわめき出すも、彼は歌織を囲む生徒達をかき分け進むと座り込み、目線を歌織にあわせた。

「おいおい、人集りが出来ているって練に聞いて来たらお前かよ。何で泣いてんだ?」

 間の抜けただらだらとした喋り方。その声で人見だと、歌織はすぐに気が付いた。彼ならこの呪縛から解き放してくれるのかもしれない。懇願した瞳で人見をみつめる。

「歌えない、歌えない、歌えない」

 ふっ、とそれを聞いた人見は鼻で笑う。

「それがどうした。呼吸が出来ないんじゃないんだろ? 歌なんて歌いたい奴が歌えばいいだけだ。歌織の声が人に聴こえないのがそんな悲しい事なのか?」

「わからない、でも……涙が止まらない」

 そうかそうか、と頷くと、人見は右手で歌織の手を掴み、無理矢理起こした。

「その答えが聞けたら、俺は決めていた」

「何をだい?」

「歌声を元に戻す」


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