音のない音楽祭 4
放課後、友乃は四時まで待ちきれないと、終業のチャイムが鳴って、すぐに合唱部室に向かった。しかしそこには歌織の姿はなく、練習の準備に取りかかる一年生の姿のみだった。まだ来ていないのかもしれないと思い、部室の扉付近の壁にもたれて歌織が来るのを待った。廊下の窓からは景色をどんよりと曇らす雨雲が見え、しとしとと小雨を降らす。その影響で湿気を纏った壁はひんやりとしている。
時間が経つにつれたくさんの生徒が部室に入っていく中、歌織を見つける事ができなかった。
四時前になると、三年生の女子が扉の近くにずっといる不審な友乃に声をかけた。
「あなた綾友乃よね? 噂で聞いてるよ。部の見学に来たの? もう期間じゃないけど入っていいよ」
初対面の割りに親しく、悪く言えば馴れ馴れしく話しかけた三年に友乃は首を振る。
「見学じゃないです、いや、見学かな?」
「もう、はっきりしないな。照れてるの?」
「違うよ、合唱部を観に来たんじゃなくて貝口さんを観にきたんです」
そう言った瞬間、彼女の表情が強張った。友乃の声が聞こえていた合唱部員も冷たい視線を向ける。その言葉が警戒のスイッチなのか、一気に場の空気が変わる。
「歌織さんをからかいに来たのね? たまにいるのよ、そういう輩が。そんな奴に会わせるわけないじゃん、バカ! 歌織さんのことを他の生徒に言ったらどうなるか覚えておきなさいっ! 合唱部員全員でどうにかしてやるんだからっ!」
彼女はそう言って扉を強く閉めた。話しを最後まで聞いてくれず拒絶された事に友乃は落ち込み、肩を落としながら廊下を歩き、携帯電話を開いた。
母親にこのことを報告した後、友乃は知人で歌織の居場所がわかりそうな人を探し、彼女しかいないと文化部棟の前で電話をかける。三コール目で携帯電話から凛々しい声が聞こえた。
「どうしたの綾さん」
「山冨さん、実は部室まで貝口さんに会いに行ったら、からかいに行ったと勘違いされて居場所を教えてくれませんでした」
しょんぼりした声を出す友乃に、練は災難だったと同情する。
「合唱部からすれば彼の秘密を広めない為に必死だものね、仕方ないわ、綾さんは悪くないわよ。ちょっと待って、センリガンで位置情報を調べてみるから」
「ありがとうございます」
いいわよ、これくらい。という練の返事を聞いて、待つ事一分。声が聞こえてこないので通話が切れたのかと友乃は携帯の画面を確認するが、しっかりと通話中の三文字が表示されている。電波が悪くなったのかもしれないと思い声をかける。
「もしもし?」
「ああ、綾さん? ごめんね、少し検索をかけたのだけれど、エラー表示なのよ、彼の居場所。もしかすると貝口さんがジュンプウジを使うと、GPSが作動しない仕組みになっているのかもしれないわ」
「GPS? ああ、最近授業でやりました、人工衛星で位置情報を受信するんですよね」
「ええ、そうよ。だから用があれば練習が終わってから電話するといいわね。用件があれば伝えるわよ?」
「いえ、大丈夫です。探してみますので」
「ごめんなさい、綾さん。私も探せればいいのだけれど、今日は他校との交流会だから行けないの。あまり勤しまなくてもいいから、暗くなる前には帰宅して頂戴。人見が心配するだろうから」
わかりました、と言って電話を切ると同時に友乃は廊下を走り出した。一刻でも早く歌織の姿を見つけ……必死な口パクを観たくて。
雨が降る中、全ての学年棟、部室棟、運動場を見て回った。けれど友乃はその日、貝口を見つける事が出来なかった。
そして次の日、いつもより一時間程早く起きた友乃は、朝食のパンとトマトジュースをかばんに入れて、仄明るい空の中、駆け足で学校に向かった。
誰もいないのか、文化部棟の廊下は静かで、友乃の慌ただしい足音だけが響く。合唱部室に着いた友乃だったが教室は暗く、鍵も開いていないので歌織が来るまで待つ事にした。
パンとトマトジュースを食しながら五分程待つと、ジャージ姿の歌織が姿を見せた。昨日から探していたので友乃は嬉しくてつい笑みをこぼしてしまう。
「おはよう。そんなに僕と会いたかったのかい?」
笑みを浮かべてキザなことを言う歌織。
「昨日から探していたのでうれしいです」
その言葉を聞き、歌織は昨日の放課後、友乃を合唱部室に呼んだ事を思い出した。
「そういえば昨日の放課後、なんで来なかったんだい?」
「いえ、行きましたよ」
と言った後、友乃はしまったと冷や汗をかく。合唱部員に追い返されたことを正直に言ってしまえば、ややこしい事になってしまう。
「でも、そのとき貝口さんがいなかったので、帰っちゃいました」
ドギマギする心を見透かされないように落ちついて嘘を口にするも、声が若干震えている。けれど歌織は気付かず、残念そうな表情を浮かべた。
「なるほど、すまなかったね。僕は放課後、合唱部の準備室で練習していたんだよ」
合唱部準備室の入り口は合唱部室からしか行けない。だから部室に入れなかった友乃は歌織を見つける事が出来なかった。
「廊下は声が響くから中で話そう。でもちょっと待っていて。制服に着替えるから」
歌織はジャージのポケットから部室の鍵を取り出し、開錠し中に入る。
しばらくすると入っていいよ、と声がしたので友乃は失礼します、と言って扉を開けて部室に足を踏み入れる。友乃は制服に着替え、ジュンプウジを耳に付けようとしている歌織に話しかける。
「練習もジャージですればいいじゃないですか?」
「ああ、まあね。でも本番はジャージで歌わないだろう? 僕はいつも本番をイメージして歌う。舞台に上がっても緊張しないように……母さんが教えてくれたんだ」
「池を走る事もですか?」
「ああ。歌は全身運動だと言うのも母さんの教えだ。基礎体力作りはすごく大事だよ。腹筋はもちろん、関係のないと思われる腕立ても。そして身だしなみも。声楽家はひとつの楽器だから身だしなみもしっかりしないといけない」
「それもお母さんが?」
そうだよ、と言って貝口は柔軟体操を始め、屈伸をしながら友乃に話しかける。
「どうして僕の朝練を見に来る? 面白い?」
「面白い……とは違うのかもしれません」
練に言われたからという理由もあるが、それだけではない。友乃は自分の意志で歌織の練習を観に来ている。それは、歌声が聴けるかもしれないから? 近いが、それだけじゃない。そうやって順に答えを追って行くと、一つの言葉が見つかった。
「安心できるから、です」
それを聞き、首を傾げながら前屈をする歌織。
「安心ねえ。意味が分からないけれど意味があるのだろうね」
一通りの柔軟体操を終え、最後に大きく深呼吸をしてから友乃を見つめた。
「さあ、準備運動も終わって、時刻も7時半になるから君は黙ってて。練習は一人で行ってくれと先生から言われているから」
うん、と友乃が首を縦に振ると、歌織はおはようございます、と口にした。ジュンプウジで先生と会話しているのだろう。いい調子です、喉も問題ありません、と言った後、あの盛大な口パクを始めた。友乃は慌てて携帯電話を開き、母親と会話を始める。発声練習をしていた歌織だが、友乃の携帯電話に違和感があり、一旦発声をやめて、体をほぐすフリをして、、耳をすましてみた。
嬉しそうに母親と会話する友乃だが、その肝心の母親の返事が聞こえなかった。友乃は携帯電話を耳に当てているわけではなく、教壇の上に置いてその横で佇み声を発している。それならば少し離れた歌織の耳に母親の声が届いてもおかしくはない。もしかして自分は疲れているのだろうか? きっとそうだ、と思い直し、気を取り直して発声練習を続けた。
そんな歌織を見つめて、友乃は生の声がどんな風なのだろうと想像していた。音楽祭で録音されたものを聴いたが、歌織の喉から響く音をそのまま自分の鼓膜を響かせれば、また違う音になるのではないか。そんな気がしてならない。
朝焼けに照らされ、幸せそうな表情で、時には泣きだしそうな表情を浮かべる歌織を見ていて飽きる事がなかった。ただ友乃は、全ての表情に切なさが見え隠れする事が気にかかった。
その日の放課後、練習が終わった後、歌織は正門で練を見つけた。気付いた練が小さく手を振る。
「どうしたんだい山冨さん。誰かと待ち合わせ?」
「あなたを待っていたのよ。久しぶりに一緒に帰りましょう」
練はそう言って先に門を通り通学路を歩き始めた。通学路には橙の陽が射し、時より吹く生暖かい風が妙に心地よい。
「こうやって一緒に帰るのはいつ以来かしら? 一年生ぶりよね」
「そうだね、本当久しぶりだ。山冨さんとはもっと関わりたかったけど、そうすると人見が不機嫌になるんだよね」
「そ、そうかしら」
いきなり一年生の頃の話をされ、練はフラッシュバックのように思い出し、少し火照った顔を隠すようにして俯く。
「そうだよ。で、僕が人見と仲良くしていると、人見がいなくなってから山冨さんが話しかけてきて、会話の最後に人見の事を訊いていたよ。それで、どう? 結構時間は経ったけれど気持ちは伝わった?」
恥じらう友乃は腕を組み、小さく口を開く。
「ええ、そうね。そんなこともあったわ、恥ずかしいけれど。……人見とはまだお粗末な関係だけれど、徐々に距離が縮まっている……気がするわ」
って、こんなことを話しに来たのではない、と頭を切り替え、話しを切り出す。
「話しがあるのだけれど聞いてくれるかしら?」
「ああ、どうぞ」
さっきまでの和やかな雰囲気を消すため、友乃は一息つき、少し重苦しい声して歌織に訊ねた。
「今日の朝も練習を見にきたでしょうけれど、綾さんの事。あなた、あの子の携帯電話がおかしいと思ったことはある?」
友乃の携帯電話の異常。それは今朝、歌織が気になっていた事だった。なぜ表情が変わらずも声も出ていない、母親が表示されただけの携帯電話に、全力で話しかけているのか。
「ああ、あるよ。幻覚を見ているのかな、綾さんは」
何となくぼんやりと思った事を口にした歌織だったが、ゆっくりと練は頷く。
「人見に相談したけれど、今は気付かせない方がいいみたい。時おりやるせなくなるだろうけれど、できるだけ、そういう風に接してくれるかしら」
「わかったよ、人見が言う事なら意味がありそうだね。彼は心理士だと綾さんに聞いたけれど、そのことが同室者になったことと関係しているんだろうし」
「恐らくね。では、私はここで」
十字路で立ち止まり、練はありがとうと、手を振り女子寮の方へ歩いて行った。歌織はその姿をしばらく見つめ、駅に向かう為、坂を下る。
ふと空を見上げると淡い星の光が瞳に映る。
「お母さんか」
その懐かしい響きを忘れないように、ゆっくりと呟いた。




