多恵さん 旅に出る ⅩⅢ
中々秋にならない六色沼を見ていると国谷さんから佐渡島にスケッチに行かないかと多恵さんへお誘いの電話。オーケイの返事をすると野口さんを初め女8人男4人、10月の中旬に集まり、島に渡る。トキを見て二つ亀大野亀を一日目はスケッチする。二日目は尖閣湾をスケッチ。その尖閣湾でスケッチしてると若い女性の幽霊に合うが、女は死んだ理由を言いたくないらしい。多恵さんの父が運転する幻の船には
乗りたいと言うので輝美ちゃんを呼び出し彼女を連れて行ってもらう。その夜酒の大好きな父や杉山君などの霊が多恵さん達の泊まっている宿に集まりみんなを巻き込んで大宴会。で次の日は・・・
9月になっても少しも涼しくならなかった。でも確かに季節は秋に向かっていると多恵さんは六色沼の色を見ながら感じている。2学期が始まって真理もいよいよ受験の事を考えなくてはいけないらしい。学校や塾では受験で有名な高校を受けて欲しいらしいが、本人は山岡先生やクラブの子の事を考え演劇で有名な高校に行くつもりらしい。勿論志は科学者への道一本を捨てた訳ではない。それ故に演劇部で有名な学校も他の子供達のように推薦なしで受験する積りだそうな。
「ま、本人が気の済むようにしたらいいわ」
多恵さんはそう呟いて息抜きに入れたコーヒーをごくりと飲んだ。六色沼もこの所何事もなく穏やかだ。あの集団自殺者や今は花屋に精出す自殺者に連日悩まされた日々が遠い昔のように感じられる。
その時後ろに気配を感じた。しかも2人。
「お父さん!」で、もう一人は誰?いぶかし気に父の傍に笑いながら立つ男性を見つめる。
「へへへ、脅かして御免。あ、これは俺の中学時代からの友達で癌にかかって若死にした中隈って言ううんだ」
「こんにちわ、多恵ちゃん。本当はね多恵ちゃんが3歳の頃あった事があるんだけど、覚えてないよね」
「ええ、全然記憶にありません、すみません。でも父の友人だったんですよね、ありがとうございます、これからも宜しくお願いします、何しろ頼りなくて少々困りものです」
「ハハハ、その代わり、奥さんも娘さんもしっかりしている、なあカワちゃん」
「カ、カワちゃんって父の事ですか?」
「そうそう、それが俺の呼び名。こいつの事はナカちゃんって呼んでいたんだ」
「で今日はこの世が恋しくなって舞い戻って来たのね、あの世から」
「ま、そんなとこかなあ、こいつにあの世で巡り合って暫くは夢中になって話していたんだけど、多恵の事をさこいつに話したらさ面白がってさあ是非会いたいって言うもんで二人でこうして戻って来たんだ」
「まあ、わたしの事見世物扱いしたのね」
「いえいえ飛んでもない、そんな凄い能力があるなんて羨ましい限りです。俺達みたいな者にとってはもう神様の次くらいに偉い人がこの男の子供だなんて考えられないくらい不思議です。だから一度だけでも会っておきたいと思いまして」
「表面上は何にも変わりはなくてよ。そして殆どメリットもないわ、ほんとに何も。返って色々面倒くさい事に巻き込まれて嫌になる事もしばしばだわ」
「うーん、それは俺の所為ではないぞ。俺の知ってる限りそんな特殊能力を持ってるやつなんて親戚の中で一人も聞いたことがない」
「そうかと言ってお母さんの方にもいないわよねえ。まあお母さんは猫や植物とは話してるみたいだけど
でも猫や植物を好きな人は大抵そうらしいわ」
「ハハハ、だったら多恵ちゃんは突然変異だな。絵も凄く上手いって聞いたけど見せてもらえるかな?」
「ええ、絵はわたしの本業ですから、そりゃあ十分見て頂だい、今ヤマユリの絵を描いている所なんです
随分前、お父さんが森林公園に連れて行ってくれたけど、あれ以来久しぶりに友人と描きに行ったのよ」
「へえ、ヤマユリねえ・・思い出したぞ、色々手伝わされたな、やれその花の位置が悪いから少しの間持っていてくれとかそこの所をまとめてくれとかさあ」
「そうね、あの頃は技量が今一だったから助手が必要だったのよ」
多恵さん二人を自分のアトリエに案内する。
「ほう、これは素晴らしい、目が覚めるようだよ」
「絵は売れてるのかい?」
「今の所は世話する人がいるから順調にいってるの。でも絵は売るために描いてはいけないと先生から何度も言われたわ」
「そうは言っても売れないと食べていけないぜ」
「そうそう、幾ら貧乏絵描きと言ってもさ、売れなきゃ生きていけないよ」
「まあそうね、だから目をつぶってお客の好きそうな絵を描いたり、バイトや仕事として人の注文に応じながらその合間に自分の絵を描くの。わたしはパトロン兼夫と云うものがいるからこれまでやってこれたけど、いない人は大変なのよ」
「そうか、良い人と巡り合えて多恵ちゃんは幸せもんだ」
そう言いながら中隈さんあっちこっち見て回っている。
「あ、これは袋田の滝だ。凄い迫力だなあ、こりゃいいねえ注文多かったんじゃない?」
「ええ、袋田の滝は大評判で注文沢山頂きました。これは展覧会用に書いたものでこう云うのが増えてくると田舎に借りた家に運んで保管するんです」
「成程大変だ、中々絵描きにはなれないなあ」
「普通のお客さんならここでお茶でも如何ですかと言う所ですが、相手は肉体のない霊だけの客人だから
そう言う訳にも行きません適当にやっててください」
「そうだなあ、折角この世に舞い戻って来たのだからあっちこっち見て回ろうよ、ナカちゃん」
「うんそれもいいけどその前に俺の家に行こうかな。少しご無沙汰だったからどうしてるのか心配だよ」
「ああそれはそうだ、行ってみようか。じゃあ多恵暫くさいならするよ」
二人連れは目の前から消えて行った。ホッとする多恵さん。コーヒー茶碗を片付けると又絵の再開に臨む。
4時を過ぎた頃電話の音。
「誰かしら?」と多恵さんは電話を取った。
「もしもし島田ですが」「良かった多恵画伯で。島田教授が出たらどうしようかと思いながらボタンを押したのよ」
「その声は…ああ、国谷さんね、久しぶり。どうしたの?」滝の名手三宅画伯の崇拝者であり友人だ。
「良く分かったわねえ、そう国谷よ。ねえあなた、ちょっと遠出しない?」
「何?遠出って、外国でも行くの?」
「そう来たか。そうじゃなくて日本よ日本。そうねあなたにしてみたら近場よねえ、佐渡なんて」
「あら佐渡、わたし今まで佐渡には行った事なくて。良いとこだって行った人からは聞いてるけれど」
「ええとても良いとこだってわたしも聞いてるわ。それに海の景色が抜群だって」
「うん、黄金の輝きでなくてねえ、海の景色がよね」
「黄金は魅力的だけど我々は画家だからそこの所は目をつぶって頂いて、海の景色が最高と言う事にしましょうよ」
「でもそれじゃあ三宅画伯には向いていないんじゃないの?」
「今回は三宅先生じゃないの、誰だと思う?」
「え、わたしが当てるの?」
「そう、当てて頂だい」
「わたしが知ってる海の名手は野口さんかな、彼女とは少し前に一緒に和歌山県をスケッチ旅行した事があるの」
「そうそう、その野口画伯よ、是非佐渡に行くなら河原崎さんも一緒でなくちゃいやだと言われてあなたに電話したのよ」
「そう、何時行くの?なるべく10月か11月が良いわよねえ何人くらいで行くの」
「ハハハ、まだ詳しくは決まっていないの。まずはあなたの参加が先決問題だったから。ともかくあなたの了承は得られたんだから、詳しい日程はこれからよ」
佐渡ねえ、佐渡どころか新潟さえ余り知らないのだ。米が有名、刃物も有名。それ以外に何だか知らないけどヒスイが取れるとも聞いたぞ。うーん、夕日も綺麗に見えるだろう。佐渡はもう一歩海を隔てた所にあるんだからもっと夕日が美しく見えるだろうし、魚も貝も海藻も抜群だろう。少し調べてみる。
「ふんふん、魚貝類は思った通り新鮮で素晴らしいなあ、このながもと言うのは丸でモズク見たいなものだけどそれより長い海藻かな?それにこのこんにゃく見たいのはいご練りと言っていご草と言う海藻からとれるらしいな。佐渡の人にとってはまあソウルフードみたいなもんだわね」
でも写真だけでは触感も味も伝わってこない。向こうに行って実際に味合わなければさっぱり分からないない。これは絵を描く旅ではあるが、食べるのも大事な楽しみであり仕事でもある。それにもう一つ,柿,柿が有名らしい。しかしその柿が甘柿なのか渋柿なのかちょっと分からない。あんぽ柿で有名?その他にも渋を抜いた物の名が書いてあるから・・やはり渋柿なのか、でもそうでもないようなことも書いてあるので多恵さん悩むのだ。勿論あんぽ柿は大好物だからあればお土産としても、自分用にしても手に入れたいと思う.。
「これもやはり向こうに行って見なくちゃ分からないわねえ」そうすべてが実際にその土地を踏んで、品物は手に取ってみなくちゃ分からないのだ。でも全てが楽しみ楽しみ。まだ行った事のない土地、それも船を使って行くんだ。わくわく感が止まらない。
「お母さん、この所にやにやしていて変なの、知らない人が見たら頭おかしいんじゃないかと思うわよ」
「あらそう、かも知れないわ。海を渡ってスケッチしに行くのよ、何だか海外に行くみたいじゃない」
「え、そうなの、一体何処へ行くの?日本なんでしょう、ほんとに海外じゃないのね」
「日本よ日本。それも近くの新潟県。佐渡へ行くの、船で渡るのよ。新潟自身行った事ないし、まして佐渡なんて今まで想像した事もなかったわ」
「でもさトキの話は有名だし、それでなくても金山は凄く有名」
「うん、それは知ってるけどそれ以外殆ど知らないわ。絵は海の絵の名手が行くんだから金山もトキも残念ながら余り関係ないの。だけど色々調べてみたら食べ物で知らないものや知ってても分からないものがでてくるのよ、それを調べているとねわくわくしたりにやにやしたりする事があるわけよ」
「良いなあ、わくわくするなんて事わたしには全然ないもん」
「ご免、お土産ちゃんと買って来るから、許してね」
羨ましがったのは真理ちゃんだけではない、何故か大樹さんも羨まし気な様子。
「そうですか、佐渡に行くんですか?あそこは海の物山の物、新鮮で美味しいと聞きますし、画家がみんなで行くんだから景色は最高。少し羨ましいですね、こっそり付いて行きたいくらいです」
「まあそうなんだ、だったらどうぞって言いたいけど、真理が居るからそれはちょっと無理だわ。新潟は美味しいお酒が沢山あるって聞いてるから、もし手に入ったら買って来るわ、約束ね」
そこで思い出した。お酒と言えば父だ。母が新潟で大会があった時、友人達が気を利かして何とか寒梅と言う名だたる銘酒を初め新潟の銘酒を沢山お土産に送ってくれた事があったけ。父の嬉しそうは顔を思い出した。そしてその何とか寒梅について何時もの悪酔いの勢いで何時間も話していたっけ。しかもその本人はあの世からこの世に舞い戻っているのだ。
「うーん、少し困ったなあ」
「え、何か困った事があるんですか?」
大樹さんが吃驚して多恵さんに尋ねる。
「違うの、父の事を考えていたのよ。父はあなたも知ってる通りのお酒にめちゃ弱いくせにお酒大好き人間でしょう、昔母が友人達に銘酒を沢山貰ったのよ。その父がその銘酒を飲みながら、くどくどその銘酒について話をするの,面白くもない話なの。それをふと思い出してね」
「思い出して呟いたのですか、何か本当に困った事が起こったのかと思いましたよ」
やれやれだ。彼らは今何処にいるんだ?多分中隈氏の家にずうっと居る訳ないし、母の父は全く持って気が合わないから、祖父の所にいるとは考えにくい。明日にでも杉山君でも呼んで聞いてみよう。
「えっ、お父さん、この世に戻られているんですか?いえ全く持って知りません。おばあさまもこの所女性だけで行動する事が多くて分かりかねますねえ。まあ暫く勝手にやらせておいてみたらどうでしょう?それとも何か不都合な事でも」
「そうねえ、ほっといて良いかな。うーん後から文句が出るかな、何しろ相手が何とか寒梅だから」
「え、ええっ、何とか寒梅?それ新潟の、それがどうしたんです、又俺たちに内緒で旅に出るんじゃないでしょうね」
「仕方がない、未だハッキリ決まった訳ではないけども少し涼しくなった頃、佐渡へみんなでスケッチしに行こうと誘われているの。それで佐渡と言えば新潟、新潟と言えば何とか寒梅。何とか寒梅と言えば父をどかして通る事は出来ない訳よ」
「ひえーあの金山の佐渡ですか」
「今はあのトキで有名なと言った方が良いかも」
「トキねえ、俺が生きてる時は確かー絶滅したとかしてない時でしたよ」
「あれから中国から分けてもらって、何とか少しずつ増えて行ってる途中なのよ」
「で、そのトキを描きに行くんですか?」
「鳥が専門の画家ならばね。でも私達は海を描いたり景色を描いたりするのが専門だから、金山もトキも描かないわ。どう、興味あるかな?」
「へへへ、飲まず食わずの旅行じゃないでしょう。佐渡と言えば海に浮かぶ島、海の物も新鮮ピチピチ、野菜だって取れたてだよ、海も山も例え興味なくっても料理はバッチリ興味深々ですよ」
「そうね、食い意地のはった幽霊さんには金山よりもずっと魅力的だわね」
「決まったら必ず知らせて下さいよ。みんなにも言っておこう。そうすりゃあ、きっと父上にも耳に届きますよ」
「うん、そうだわね。ま入らなくても良いことは良いんだけど、あとが煩いだろうと思ってさ」
「そうですね、何とか寒梅の恨みは恐ろしいですよ、ハハハ」
上機嫌の杉山君が消えて行った。
それから三日もしない内に本人とその友人が現れた。
「おい、聞く所によるとお前、新潟に行くんだって」
「新潟は新潟だけど佐渡に行くの、スケッチしにね」
「だけど、新潟にも寄るんだろう?」
「船に乗るからその乗り継ぎの時少しだけね、殆ど新潟そのものには寄らないの。御免なさい」
「ででも、少しは新潟寄っても良いんじゃないか?」
「駄目よ、仲間が沢山いて自分勝手には出来ないのよ」
悲しそうなお父さんの顔。
「例え新潟で一泊してもよ何とか寒梅にはありつけないわよ、この間は新潟の人達の中に顔の利く人がいたから手に入ったまでで、今度はそんな人は一人もいないから諦めて頂だい」
「そんな事言って俺は諦めないぞ、きっとその寒梅を手に入れてみるさ。酒だよ単なる酒だ、それも地元にいながら飲めないなんて事があって良いものか、なあナカちゃんよ」
「うんまあ、そんなもんだよな。でも寒梅は中々手に入らない事で有名だからなあ、難しいかもよ」
「それにわたしはお酒の為に行くんじゃありません、絵を描くために行くんです。ま、付いて来たければ他の幽霊さん達と一緒になって来て頂だい。でも決してその何とか寒梅が飲みたいと駄々をこねちゃダメなんですからね。分かったかしら」
それでも未練たらたらのお父上は暫くはそこを動かなかった。
「じゃあさ、未だ日は明るいけど二人で何処か高級料亭を探して、そこで振舞われるお酒をお相伴してみたら、もしかして何とか寒梅も出て來るかも知れない」
「あ、そういう方法もあるんだ、それ頂き。うん、これからちょっとナカちゃん東京の高級料亭の立ち並ぶ処へ行って探索しようか」
「へえそんな事出来るの?ま、この世の事はお前の方が詳しいからな、お前に付いて行くしかないなあ」
「へへへこれのお陰でさ幽霊達の知り合いが多いから、いろんな事を覚えてしまうのよ」
二人も仲良く、嬉し気に消えて行った。
「呑兵衛さんがいるとどうしようもないわ。早く計画立たないかしら」多恵さん深い溜息をつく。
計画は決まった。時は10月中旬2泊3日。朝早く出ても島に着くのはお昼を過ぎてしまうのだ。そこからちょっとだけトキ見学をして北へ向かう。北に何があるかと言えば、亀と名の付く岩山が沢山あるらしい。中でも二ツ亀という岩山が海の上に二つくっ付いてる風光明媚、海の透明度抜君の所があって、これを描かずして佐渡へ行った甲斐がない?その他にも大きく突き出た一枚岩からなる大野亀も有名らしい
そこを夕方まで描き少し南に戻って一泊。2日目尖閣湾揚島遊園を中心に佐渡随一の海岸の岩礁美が広がっているんだとか。まあこれは野口画伯の飛びつく景色ですな。
そこを南に下れば京町通り、金山、夫婦岩などがあるので金山に興味のあるお方はどうぞ。
3日目は南岸に出て小木海岸の青の絶景なる海など見た後岩首昇竜棚田を見て・いや単に見るんじゃなくてきちんとスケッチして帰りの船に乗ろと言う計画だ。
中々の勇壮なる計画だ。後は実行あるのみ。頑張るぞ!でも何を頑張るんだ?別に寝袋も要らないし海に潜る必要もないから水着も要らない。
「うーん、この青の絶景は気になるなあ。もしかしたら青い海に誘惑されてふらふらっと飛び込んでしまうかも。フフフ」一人妄想に耽る多恵さんであった。
その日の朝早く多恵さんはイザナギ駅に向かいそこから皆が待ってる新幹線に乗り込む。
「来た来た、晴れ女、いや晴れ画伯のお出ましね、これで向こうでの天気の心配は要らないわ」
国谷さんの声がする。今回は佐渡と言われて食指が動いた人も多い。女多恵さんも含めて8名、男もいる。男4人だ、合計12名。ワンさワンさとみんなやって来たのだ。
「随分今回は人数が多いのねえ」
「本とこんなに賑やかになるとは思わなかったわ。迷子が出ないように注意しなくちゃいけないわね」
もう顔見知りの人も何人かいる。
「ここ、ここに座って、野口さんが久しぶりに話したいって」
「久しぶりですね、和歌山ではお世話になりっぱなしで」
「わたしの方こそよ。あなたあの後瀞八丁描いたわよね」
「ええ、その前に那智の滝も描きましたけど」
「ああそうだったわねえ、あんまり瀞八丁が素晴らしかったから他のは忘れちゃったわよ。でもほんとに瀞八丁には唸ったわよ、本と、わたしあれ見て海の波を追いかけるの止めて静かな川の水を追いかけようかと暫く考えた程だったもの」
「まあ野口さんにそんなに褒めてもらってどうしましょう。でも野口さんが宗旨替えしないで良かったわ、女性であんな豪勢な波しぶき描ける人はそんなにいないんですから」
「さあさ、絵の話は後からでも出来るわ、朝ご飯食べてこなかった人、沢山いるんじゃない。ここから朝ご飯の時間でーす」
国谷さんが叫ぶ。
「あ、わたしも新幹線の中で食べようと思って駅弁買って来たんだ」とみんながやがやと駅弁を開く。
「みんな色々、買ってきた所も違えば駅弁も違うわね」
「わたしは新幹線の所じゃなく、その前のホームを入った所の通路の所で買ったわ。その方が美味しそうだと思ったの」
「どれどれ、うん美味しそうに見えるわねこれ」
「美味しいわよこれ、通路の分一味違うわよ」
「空いたお中には一味何か関係ないわ、人が作ったものはありがたいしこの上なく上手ーい」
食事中もこの上なく賑やかだ。
「あ、関根さんは確か新潟生まれで新潟育ちじゃないの?」
関根さんと言うのは男性のメンバーの一人だ。
「うん、久々の里帰りを兼ねて佐渡のスケッチ旅行に参加したんだ。だから帰りは新潟でおさらばするからね」
多恵さんの周りをウロチョロするものがある、駅弁をお店にあるだけ全部持ち込んで我々より賑やかに大騒ぎしている幽霊さん達の中に勿論祖母の仲間や父と友達もいたのだが、その父がビールを飲むのをやめて傍にやって来たのだ。
「おい多恵、新潟の奴がいるぞ。あいつ顔広くないかなあ?」
「まだ諦めてないの、往生際が悪いのねえ」
「え、どうしたの、何が悪いの」
「あごめんなさい、ちょっと思い出した事があって、つい口に出ちゃったわ」
「なにを思い出したのよ、言いなさいよ。わたし達に話したらすっきりするかもよ」
「そうそう、一人で悩むより話したら結構解決策が見つかるかもよ」みんなの好奇心に満ちた目に見つめられ多恵さんも引くに引けない状態になった。
「いえねえ、わたしの親戚に新潟の何とか寒梅と言うお酒が好きで仕方がない人がいて、新潟に行ったらそれを手に入れるように頼まれたんだけど、新潟には全然知り合いもいない、右も左も分からない。しかも行くのが佐渡だからと断ったのよ、でも、その知り合いが未練たっぷりでまだ諦めてないらしいの」
「まあ、やあねえ。酒飲みってそんな傾向があるわね、味が分かるのか分からないのか知らないけれどさ拘るのよその銘柄にい」
「そう言われれば、何とか寒梅、聞いたことあるわ。うーん、結構有名で中々手に入らないんですって」「そうそう、私も聞いたことがあるわ、その空き瓶に他の清酒を入れて、出した所相手は全然きず
かずに飲んだらしい」
「だからその空瓶さえ高値付くんだって聞いたことあるわ」
「あのさ河原崎さん、俺の親はあんまり酒屋に顔利く方じゃないけど、でも、一本ぐらいなら何とかなるとと思うよ。少し時間かかるかも知れないけどさ」
「え、本当に、嬉しいわ。きっと彼喜ぶわ」
「外ならぬ河原崎さんの役に立つなら俺も嬉しいなあ」
彼には見えないだろうけど多恵さんの父は友達の中隈さんと手を取り合い、狂喜して列車内を飛び回っている。生きている時はとても出来ない芸当だ。ま、死んだ後位は体を自由に動かせなくてわねえ。
新潟駅に着き港に向かう。船に乗り込む。こんな大きな船に乗り込んだ事のない多恵さん、少し緊張、ついでにワクワク。
「こんな船も運転してみたいなあ」何とか寒梅が手に入るとなると今度は忘れていた船の運転。
「船の運転はもう十分にやり遂げたのじゃないの?」
そっと小さな声で父に尋ねる。
「いいや、まだまだ乗り回したいよ。まだナカを載せてないし、こんな本格的な船は運転してないんだ」
「え、お前、船の運転できるの?知らなかったあ」
多恵さん思わず吹き出す。
「祖父がねえ、父が船の操縦したがってたのを知って、一から教えこもうとしたのよ」
「えーお爺さん船の運転できるのか」
「昔海軍にいたからなんだけど・・でも父はお祖父ちゃんのスパルタ教育に全然付いて行けなくて、大きい船は諦めて、観光用の小さな船を動かして満足してたの。それもまるっきり本格的運転じゃないのよ」
「成程、分かる分かる、自分の頭の中で想像して動かすのね」
「ヘヘヘ、でも楽しいよ、乗ってるのはみんな死んだ者だけだから、もう船が沈没しようが岩にぶつかって木っ端微塵になっても心配ない」
「船を沈没させた事あるのか?」
「まだないけどさ、言ってないだけで、もしかしたらあるかもね」
二人の会話はまだまだ続く。
「何をさっきから一人でぶつくさ言ってるのよ」
野口さんが聞きとがめた。
「あ、わたし、こんな大きな船で海を渡るの初めてなんです。物珍しいものが多くてついついぶつくさ言いたくなるんです」
「そうか、マガタマ市には海はない、いや勾玉県そのものに海がないんだものねえ、こんな船に乗る事なんてないわよねえ」
「あらわたしもこんな船に乗るのは初めてです」
国谷さんやほかの仲間も口を挟む。
「そう云やあわたし達ってあんまり船に乗って描きに行ったなんて聞かないわね」
「わたし達ほんとに世界が狭いわ、もっと広い視野を持って描かなくちゃいけないとわたしは思うわ」
頷きあう多恵さん達である。
両津港に着いた。
「ここで昼食をとって車を借りるわ。それからちらっとトキの森によってから目指す佐渡の北端へと向かいます」
プランナーの国谷さんが説明する。両津港は土産物でも食べるものでも佐渡の中でも指折りのメッカであるとか。
「わたし、是非佐渡に行ったら食べたいものがあるわ」多恵さんがまず発言。
「え、何何、何を食べたいの?」国谷さんが聞き返す。
「ながもとか言う海藻を乗っけたラーメンかうどん。そのどっちかがあったら是非食べてみたいな」
「あ、それそれ、それをわたしもわたしも食べたいと思っていたのよ」
「わたしもよ、わたし海藻大好き人間だから」
「へええ、それ知らなかったな、他の食べて余裕があったら食べてみようかな」
女性軍の話に男性軍も割り込む。
「分かったわかった、先ずはそのなんだっけ・・ながもがあるとこ見つけなくちゃいけないわ」
観光案内所に国谷さんが聞きに入る。
「うん、これはうどん屋さんにあるみたいよ。まあうどん以外にもあるらしいけどそこ行って見よう」
「その周りにも食事する所は沢山あるから自分たちで決めてよ。そうね12時にあのレンタカーの所に来て頂だい,遅刻は認めないからね。早く出かけなくちゃあスケッチする時間なくなちゃうわ」
みんなそれぞれ看板を眺め、好みの店に入って行った。
「わたしはここで十分、本当は確かラーメンに乗っているのをタレントさんが食べているのを見たのだけど、うどんもラーメンも麵だから同じのりだわよねえ」
「ラーメンに海藻が入っているのも凄く心惹かれるけど、折角見つけてもらったんだからここで先ずは佐渡の名物、食べてみましょうよ」
と言う訳で海藻好きの4人がうどん屋の暖簾をくぐる。
「モズクのような・・でも違うな」
「うん、モズクとは違うけど似た所もある、こっちの方が長いし爽やかな感じかな」
「わたしこれ大好きだわ」
「わたしもこれ美味しいと思う」
と言う訳で4人の感想は大好評。
レンタカーの所に行く。みんなも集まってくる。
車を3台借りる。赤2台に青1台。先ずは男女に分かれて乗り込むことに。
多恵さんの車には野口さん国谷さん、武田さんが乗り込んだ。
「先ずはトキに会えるかどうかは分からないけどトキの森公園に行きましょう.トキに情熱をかけた佐渡の人達に敬意を払ってね」国谷さんの言葉に皆頷く。
「トキは今が一番綺麗なトキ色になるんですってね」
「えー、知らなかった、何時も同じ色をしてるんじゃないの」
「秋にトキ色になるのよ。見れたら良いわねえ」
「うん、見れたらラッキーだわね。トキさんお願い姿を現してちょうだい」
加茂湖を少し過ぎて国仲平野に差し掛かる所にその公演はある。
「じゃあ少し車を降りて行きましょうか?」皆ぞろぞろ歩く。時は10月も半ば稲刈りが丁度終わった田んぼが続く。
「あ、いたいた。トキだよ、トキ」男性の声が響く。
「本当だ、ここで観察しましょうか、それともスケッチする?」
「わたし、簡単にスケッチするわ」
「わたしも」
「わたしも画家の端くれ、当然スケッチするわ」
と言う訳で簡単なスケッチ大会に相成った。
「サア、トキさんに深い感謝の言葉を捧げつつこことはさよなら、次行きましょう」
皆、少し未練を残しつつ車に戻る。
「ではこれから本番の外海府目指して突っ走るわよ」
「おうー」と皆がガテンの合図の声を上げる。左手に早くも紅葉し出した佐渡の山々が続き右手にはなだらかな海岸線が伸びている道を只管突っ走る。
「あ、灯台。弾埼灯台だわ、佐渡の一番北に来たのよ」
運転してる国谷さんが大きな声で叫ぶ。
「うん灯台か、でももう少ししたら大野亀や二つ亀に着くわ。そこで亀を描くか灯台描くか決めたら好いわ。人夫々灯台派は車で戻れば好いのだから。わたしは断然亀派よ」
野口さんが言う。多恵さんも亀派だ。
「じゃあ、そう言う事にしてここは止めないで行く事にするわ」
少し緩めた車のスピードを又戻し、二ツ亀に急ぐ。
着いた着いた、何がどうしてだか分らないが、色んな名の付く亀が鎮座する場所だ。
「ええっと灯台を描きたい人はいるかな?もしいたら手を挙げて。うーん今の所は皆亀派なのね。灯台がその内描きたくなったら言って頂だい、車使って戻る事になるけど、遠慮なくね」
車を大野亀の近くに止め、それぞれ目指す景色を探して歩く事になる。
「うーん先ずは二つ亀当たりに注目して行ってみようかな」
「わたしもそっちの方が描きやすいと思うわ。大野亀は一枚岩で出来てるけど少し全体的に大きすぎるのよねえ。二つ亀の方が二つに分かれていて描きやすいし構図も取りやすいわ」
「ええそうよねえ、今日は海も穏やかで波も余りないみたいだから、海を渡って向こう側に行ったら良い絵の構図に出会えるかもね」
「俺達もその考えで行こうと思ってたとこさ。先ずは行って見よう、何か絵になりそうなものがきっとあるよ」
と言う訳で大半の皆が二つ亀に向かって出発した。その中に多恵さんも混じっていた。勿論多恵さんの後ろには幽霊及び善良なる霊の皆さんもぞろぞろ付いて来ているのは確かであった。
「わーここの海、水も綺麗だけど岩場が結構点在してて絵に成り易いわ」
「うんうん、子亀の方から描く方が良いアングルだと思ううな」
「そうね小さい方の亀からの方が海の岩場がはっきり見える」
二つ亀に渡ると早速スケッチに取り掛かる人が大半だ。多恵さんもそうしようかと思っていたのだが
幽霊軍団の皆が手を振っているので、ここは一先ず保留と言う事にして、二つ亀の裏の方に回り込むことにした。
「ああ成程、こっちの方にも岩が点在してるのね。夏場泳ぐのを目的にするのだったら、断然岩場のない方が良いに決まってるけど、絵を描く身には岩場がある方が何と言っても構図的に描き易いし、絵にしても収まるわよねえ」
そう言うと多恵さんもスケッチし始める。
「あ、河原崎さん、良いとこ見つけたわね、ここの方が波も当たり易くて凄く描き易いわ」
野口さんに見つかってしまった。
「隣で描かせてもらうわ」彼女もスケッチを始める。
「野口さん的にはもっと豪快に波飛沫が飛んでた方が良いんでしょうが、今日はあまり風もなくて少し残念ですね」
「良いの良いの、こんな海も一興あって心落ち着かせる絵が描けるわ。それにここは岩場が多いから水が澄んでいて下の方まで良く見えるわ」
「そうですね、この下の水の透き通る具合上手く描けると良いのですが、中々難しいですね」
「そうね、それが画家の腕の見せ所、頑張って描きましょう」
一枚目が描き終わる。2枚目に映る。
「もう少し波もある方が良いですよね」
「そうね、もう少し波があった方が良いけどそんなに都合良く行かないわ」野口さんが笑う。
「じゃあ、俺達が何とかしましょうか?」耳元で杉山君が囁く。
「そう、そうですね、あんまり強いと吃驚するけど、ある程度の波は是非欲しいですね」
多恵さん、杉山君と野口さん、両方に語り掛ける。
杉山君達が集まって打ち合わせをして、少し散らばり手を挙げる。
段々波が強まって行き、ザザーンと結構大波となって岩場に打ち寄せる。
「まあ何てこと、まるで河原崎さんの願いを聞いてくれたみたいな波飛沫だわ」
野口さん半分驚き半分喜びの声を上げる。
「早く描きましょうよ、何時までも續くものでもありませんし」
「そう、そうね、早く描きましょう、折角の天からのプレゼント」
二人は夢中でその天からのプレゼントを受け取り描き込めた。
「河原崎さんは天気にするだけでなく波まで起こす事が出来るのね」
「いえ、飛んでもありません、あれは・・あれは風のちょっとした悪戯だったんですよ」
「風の悪戯だったの、信じられないわ。まるで魔法をかけたみたいだったわ」
一応その場所は描き終え大野亀に行く事になった。
「ここは6月になるとカンゾウの花が一面に咲き乱れて素晴らしい景色になるらしいけど今はシーズンオフ、でも大野亀さんの風景には何の引け目もないと思う。大野亀さんは大野亀さんだけで雄々しく美しいわ」
国谷さんの言う通り、大野亀さんはそこで海に突き出てそびえ立っているだけで凛々しいのだ。
「そうよねこれが一枚岩で成り立っているというのは感動ものよねえ」
「もうすぐ夕暮れ時だから大野亀さんに上って描くも良し、少し引いて亀さん全体を描くもよし、好きにして。描き終わったら今日の宿へ向かうわよ」
国谷さんの掛け声で皆思い思いの場所に散っていく。多恵さんは大野亀さんの天辺まで先ずは登ってみる事にした。
天辺まで登ると二つ亀さんも、今回は車を止める事もしなかった灯台もよーく見える。
何を描こうか?そうだ、折角来たんだもん、大野さんから見た二つ亀さんを描いておこう。丁度描き終わるころ夕日になりかけて来る。
「秋の夕暮れは何時も思うけど早いのねえ、ここで夕日を見て行って良いのかしら?」
「良いんじゃないの、宿も近いとこにあるらしいし」
「そうよねえ、折角ここまで登って来たんだから夕日が沈むのを見たいわよ」
「わたしも断然見たいわ、朝鮮半島に沈むのよ」
皆ざわざわしながら夕日が沈むのを待っている。
「いよいよだわ、写真撮らなくちゃあ」
「ええ、わたしも」「わたしも」「俺も」
と言う訳でここから暫し写真タイム。
「じゃあ車に戻って暗くならない内に旅館に行きましょう。暗くなっては知らない道だもの迷ってしまうわ」
それはそうだと皆国谷さんの言葉に頷き歩みを早める。
そこから車で10分もしない内に旅館に着く。
「思ったより早く着いたわね」
「そうね、ここからだって夕焼けの海が良く見えるわ」
「これはこれで十分綺麗だ、写真撮っておこう」
「うん、俺も写真収めるか」
「勿論わたし達も写真撮るわよ」
旅館に入る前に一行、海に向かってパチリパチリ。
「ええとね、部屋割りだけど今日は一部屋に4人にしたわよ。もしそれで不都合な事があれば明日は二人にするわ。時期的に今は混んでいないから、割と自由に出来るそうよ」
「四人部屋ねえ、描いた絵の批評界は十分出来る人数と言う所だわ」
「少し狭く感じるけど、良いと思うわ、遊びに来てる訳じゃないからね」
「俺達も賛成。余り鼾が煩い奴も今日は来ていないみたいだし」
「じゃーこれできまりね。品評会は一つの部屋に集まってするけど、カンゾウの部屋が広いそうだからそこでやりましょう。これからお風呂を浴びて夕食取ってからの話、まあ8時までに品評会を始めるから,それまでは自由時間、お好きに過ごして下さいな」
そのカンゾウの間に多恵さんや野口さん国谷さんなどが割り当てられた。それがラッキーだったのかそうでなかったのか、多恵さんには全く見当が着かなかった。
多恵さんはまずお風呂に入った。広々として気持ちが良い。
「こうやって広いお風呂に入ると寿命が延びる気がするわ」
多恵さんよりちょっと先に入っていた野口さんが多恵さんに語り掛ける。
「ええ、我が家のお風呂ではこうは行きませんよね、増して我が家みたいなマンションでは」
「その代わり湖が見えるんでしょう?」
「え、湖ではありませんよ、沼、大きめの池みたいなもんです。それもお風呂場からではなく食堂兼居間からですよ」
「良いなあ、素敵な旦那さんと可愛い娘さん、沼が見える食堂。あなたの周りには良いものが沢山集まって来るのねえ」
「ハハハ、それは人によっては色々あるでしょうけど、今のわたしにはありがたい事だと思います」
「そうね、旦那さんを素敵だとか、娘さんを可愛いとか、当人にしか本当の事は分からないものね。でも時々思うのよ、こうして絵を毎日描いているけれど、時には旦那なる者にご飯を作ったり子供の世話を焼く事も一つの人生だとね。それを全部持ってるあなたが羨ましいなと思うのよね」
「時にはそう言った事がとても嫌になる事もありますよ。でも・・そう思う事は罰当たりな考えだとその度に思い直します」
「フフフ、そうね、いやになる事もあるわよねえ・・その時思う訳だ、そう思う事は罰当たりな事だと。感心感心、それで河原崎じゃない島田家が上手く成り立っているわけだ」
「いえいえ、我慢してるのは夫の方がもっと辛抱してると思います、ありがたい事です」
多恵さんは今娘と夕食を取るべく準備しているであろう大樹さんを思った。
「中々良い夫婦だわね、表彰状を上げたいくらいよ」
お風呂を上がって浴衣に着替え食堂に向かう。
「ながもは食べたからもう一つのいご練りにお目に掛かりたいわね」
「何?いご練りって一体何なの?」国谷さんが尋ねる。
「わたしも分からないけど、見た目はこんにゃくみたいなもので、これは海藻のいご草から作るんだって書いてあったわ。佐渡の人達にとっていご練りってソウルフードみたいなものなんですって」
「ふうん、少し食べてみたい感じね、出て来るかしら?」
「分からないわ、でも一言いえばそんな難しいものではないから出してくれるとわたしは思うわ」
「そうね、私から頼んでみるわ」
「わあ、国谷さんが頼んでくれれば絶対よね、楽しみ楽しみ」
後から国谷さんから耳打ちされた。
「ここは新鮮な魚介類が一杯で、いごねりはそれに比べると味も見た目もぐんと見劣りがするので取り扱っていないけど、そう言うお申し出があるなら喜んでお出ししましょうって言われたの。だから、大丈夫ちゃんといご練り出て來るわよ」
デンと盛られた魚介類の刺身の豪華な事、うーんこれじゃいご練りちゃんが「わたしこそが佐渡島の代表料理、佐渡のものがこよなく愛して止まないものでーす」と口角泡を飛ばして力説しても、あまり皆耳を貸さないかも知れない。
「はい、これが佐渡の人間が愛してると噂のいご練りです」
仲居の女性がにこやかに持って来てドンと真ん中に置いた大皿に刺身こんにゃく様に切られ盛られたいご練り。
「こちらのたれをつけてお食べ下さい」小皿にたれを入れる。皆興味津々。
「先ずは言い出しっぺの河原崎さんから食べるのよ」
多恵さん皆の注目の中、そのいご練りを一切れ取って口に入れる。味も舌触りも少しばかり刺身こんにゃくとは似ているがやはり全然別の物であり違っている。
「うーん、これは・・こんにゃくとは別の食べ物ねえ。やはり、海の食べ物よ、磯の香りがするし、弾力は同じだけど舌触りは別の物だわ。食べてみれば分かるわ、海藻好きにはお勧めよ」
それならとみんなの手が伸びる。
「うん、これはウニやいくらなんかとはちょっと違うけど、これはこれの良さがあるわね。でも今は目の前のエビやお魚のピチピチ刺身が好いわ」
「それは言える、これにはこれの良さは絶対あるけど、目の前の貝や魚、エビやカニの刺身には負けるだろうなあ」
「比較するのが悪いんじゃないの、これはこれで好いのよ。刺身は刺身、いご練りはいご練り、それぞれ違って、それぞれ美味しいのよ」
拍手が沸いた。そうそれで好いのだ、いご練りは佐渡の人達のソウルフードなんだ。
食事の後はみんなで集まって品評会。
「ね、これ二つ亀よね、あ、野口さんと河原崎さん一緒の場所で描いたんだけど、亀の後ろ側、こんなに波が寄せていたの?」
「本当だ、俺達のいた所でこんなに波が寄せていた事なんか全然なかったよなあ」
「こんな白波が寄せていてくれたらありがたかったけど、殆ど無風状態だったわ」
「こんなに波が寄せているんだったらわたしも行けば良かったわ」
とんだ所で白波への不公平さにみんなが文句を言う。
「はいはい、ちゃんとわたし達のいる所には波は寄せて来ましたよ。うん、ほら一枚目は全然波は寄せていないでしょう。所が2枚目に取り掛かろうとした時この河原崎さんが何かおまじないをしたのよ。そしたら波が寄せて来始めたの」
「わたし、おまじない何かしていませんよ、全くええ、全く」
「わたしにはあなたが何かひそひそ天に囁いているのが見えたわ」
「ギャー天を操る河原崎さんね、今まで一度も雨に降られていないのも不思議だと思っていたけど、波まで起こせるなんて」
「羨ましい、描く絵は素晴らしいし、天気まで操れるなんて最高よね」
「本当だわ、その万分の一の力が欲しいわ」
ワイワイガヤガヤ、品評会はそっちのけで多恵さんの天を操る力への品評会になってしまった。
翌日も晴れだった。
「今日は絵描きの腕が鳴る尖閣湾に行くのよ、貧乏揺すりか、武者震いか分かんないけど何だか体が震えちゃうわ」
国谷さんが興奮してる。
「そうね、尖閣湾は描く所が沢山あってどこを描こうか迷うわね。今日も風が余りないから豪快な絵は期待できないけど」
「もう少し行くと金山もあるのよ、砂金すくいは観光客相手に人気らしいわ」
「砂金すくいか、今でもその位は出るのかなあ」
「俺は砂金より、ここの尖閣湾の絵でさ何か賞を取ってさあ、画商にもっと尊敬されてさ、絵の単価を上げてもらいたいね」
「そりゃそうだよ、わんさか砂金が取れるんなら話は別だけどさ。そんなに取れるんなら観光客相手にそんな事やってないよな、自分達で砂金取って大金持ちになってるよな、ハハハ」
みんなそれぞれの思いを持って次の目的地に向かって出発だ。
「ああ、見えてきた、見えてきた。とっても素晴らしい景色だわ」
「そうね好い絵が描けそう、楽しみだわ」
「ええっと先ずは揚島遊園に駐車すんのね」
揚島遊園に到着。他のみんなも到着する。
「これは良い景色、一先ずどこいらを描くか検討つけてから近場に行きましょう」
「展望台もあるし、時間もたっぷり。焦る事ないわ、落ち着いて探しましょう」
今回はやけに静かな祖母の3人組の御一行さんが何やらしゃべっている。耳を澄ませばどうやらここの尖閣湾の処の話らしい。と言う事は3人の内誰か来た事があるのかな?昨日は幽霊さんの力を借りた為酷い目にあったから今日は少しみんなと少し距離を置いた所で話を聞こう。
「ね、ねえ何をもめてるの?何時もはあんなに仲が良いのに」
「いや、別にもめてる訳じゃなかと。昔、うち達が若っか頃、と言ってももう戦争も終わって子供もおってさ、長男は中学生になってる頃ばい。そん頃君の名はて云うラジオの連続ドラマが人気でさ、そりゃ物凄い人気で、今で言えばすれ違い不倫ドラマみたいなもんかなあ。そのヒロインが日本全国をあっちこっち行ってはそこで仲居さんみたいに働くのよ。勿論長崎の雲仙にも来たわよ、映画になってこれも大ヒット。それがさあ、ここにも君の名あのロケ地になったって書いてあったけん、うち達にとっては大事件ばい」
「ほんとよ、ほんと。こんげんとこで君の名あに会えるなんて思いもせんやった」
「でも向こうから見たらみんなで口喧嘩してるように見えたけど・・」
「うん、まあね。それは昔日本はまだ貧しくてラジオも中々買えんやったもんで、親が買ったラジオをまた聞きで聞かせてもらっていたもんで、所々話の合わない所が出てくっとさ。おうち達にはこんげん苦労話は分からんやろうね」
「まあね、分からないかもね。でも今だってテレビの番組を兄弟で争って怪我をさっせたとかと時には殺してしまったとか新聞で見るけど」
「うーん、ちゃんと所帯を持ったものが親にラジオを利かせて欲しいと言うのは、それとは少し違うと思うばい。まあ肩身の狭い思いをしながらみんなそれなりに戦後を羽ばたいて行ったのよ」
その時多恵さんを呼ぶ声が。
「河原崎さん、向こうの展望台のある所に行くわよー。ちょっとこっちに来なさいよー」
「あ、済みません、直ぐ行きます」
多恵さん祖母達三人組に別れを告げ皆と合流した。
「先ずはこの橋を渡ってあの展望台からこの尖閣湾全体を眺めましょう」
「この橋も綺麗な橋よね、ここから眺めるととっても水が奇麗なのが分かるわ」
「高所恐怖症の人はやはりこんな所でも怖いと思うんでしょうね?」
「そりゃ思うでしょうけど怖いのと美しいのを見たいので薄まってくれれば好いんでしょうにね」
「でもこの橋、別名マチコ橋って言われているんだってよ」
「なあに、まちこ橋って、迷子になった子を待っていると会えるとか、そんな意味かしら?」
「違う違う、昔ねある有名な恋愛物のロケ地にここが選ばれたんだって。そのヒロインの名がマチコって名前だったんだって。そこに書いてあったわ」
「ふーん、ヒロインか、わたしもヒロインに成ったらどこかの街にわたしの名前残るかな」
「残る事は残るでしょうけど、あなたがヒロインじゃねえ・・」
「わー酷い言い方ねえ」
なんて言いながら橋を渡り、展望台に上って行く。
視界が開ける。
「確かに良く見える。ここの切り立った景色は昨日の亀さんの景色とは全く違うねえ」
「ここは流紋岩で出来ていて、冬の荒波何かの強い力で縞模様状に切り立られ、どんどんはがれていって、ここの景色が出来上がったんだって」
「そう流紋岩で出来てんのかあ、でも素晴らしい眺めだ」
「どこを描くか迷うよねえ、船が好い所でジッと止まっていてくれれば乗って描くのが一番だけど、そうは行かないよなあ、船はあっという間に通り過ぎて思いだけが残るんだから」
「わたしは決めたわ、ほら、この岩場の所に道があるわ。あそこの何処か、一番グッと来る所でかくわ」
「そうねそれしか方法はないみたいねえ、クモみたいに自由に岩場を行ったり来たりは出来ないんだからね、人間は与えられた場所を探して、そこで魂を込めて描く」
「それでもここは広いわ、みんな気を付けて描くのよ。特に男性諸君は危険な岩場を登ったり下りたりしてわたし達を心配させないで」
話はついた。遊園を出て岩場の道を歩く。歩く所は整備されていて歩きやすいが、絵を描くにはそこから一歩、二歩、いやも少し踏み出さねばならない。
一人消え二人消え皆思い思いの場所に消えて行く。
多恵さんも思いの場所が見つかり、その場に出来る限り近寄る。
「ここから見る尖閣湾の岩場は凄く好いわ。でも足場がすっごく悪いのが難点だわ」
リュックの中から取り出したクッションを使って何とか座る所を確保する。
「描きたい絵が描けそうだ、嬉しい」多恵さんニコニコ。
「そんなに描きたい絵が描けるって楽しい事ですか?」
多恵さんドキッとして周りを見回す。痩せて顔色の悪い、未だ30にはなっていない女性が岩場に立っている。完全なる幽霊さんだ。
「こんにちは、如何したんですか、こんなところで?」多恵さん出来る限り優しそうな声で尋ねる。
「わたし、嫌なことが沢山あって、ここにやって来て綺麗な海見てたら死にたくなって、海にドボーンと飛び込んでしまったんです」
「まあ、どんな辛い事があったか知らないけど、あなたが亡くなって悲しむ人がいるでしょう、お母さんとか?」
「母はずっと前に亡くなりました。父は飲んだくれでまだ生きてますが、わたしが死んだのに葬式さえ出そうとしなかったのを親戚の人がきつく言って仕方なく出したくらいです」
「そう、その他どんな悲しい事があったの?」
多恵さん、絵を描き始める。
「恋人に冷たくされたとか、酷い苛めに会ったとか・・」
女性は沈黙してる。
「言いたくないの?でも心の中にあるものを吐き出すとすっきりするらしいわよ」
「わたし何で死んでしまったのだろう。恋人なんてとんでもない、父の有様を見ていたら、男なんてとても傍にさえ近寄りたくないと思っていたの、それなのにああ嫌、思い出したくないわ。苛めねえ、苛めと言うのかしらひそひそわたしの陰口言ってさ、人が一生懸命仕事やってるのに、彼女らは陰口言ってるんだから。でもそう言った事は許してあげても良いわ・・・」
「じゃあ、そう言う事で悲観して自殺したんじゃないのね」
青い海がとても綺麗だ。岩場が浅い所と深い所では薄いブルーや深いグリーンに変わり、深いブルーに溶け込んで行く。
「スケッチ、とても速いんですね」
「ええ、これがわたしの仕事ですからね。この水の色、中々出せないのよねえ、何時も苦労してるの、海にしろ川にしろ、難しいわ」
「死んでしまったらそんな事如何でも好い事だと思っていたけど、死ぬ時は出来るだけ綺麗な、美しい所を選んで死んでいたんだ、わたし」
「あなたの美意識は正常だってことよ。汚い場所で死にたくないって、大事な事よ、ゴミの山の幽霊ってちょっと遠慮したいわ」
「ハハハ、でも、あなたが幽霊の姿や声が分かるなんて思わなかったな。さっき全然そういう事を考えないで声を掛けたら、ちゃんと返事するんだもの、内心驚いちゃった」
「そうよねえ、普通は吃驚するわ、それから自分の素性を話すの。そして・・どうしたらこの状態から抜け出れるかアドバイスを求められるの」
多恵さんは女性の顔を眺めた。自分が何故死のうと思ったのか話したくない。色恋の話でもない、苛めを苦にした訳でもない。仕事は真面目にやっていたらしい。ではどうして死を選んだのだろう?
「ここに居るのが楽しいの?わたしはここの絵を描くのが嬉しいし楽しいけど」
「いえ、別にここに居るのが楽しい訳ではないです。あなたみたいに幽霊のわたしと話せる人が沢山いると良いけど、そんな人に巡り合ったのは今日が初めてだしこれが終わりかも知れない」
女性の顔が益々暗くなる。
「大丈夫よ。お友達がいるわ、女性だけじゃなく男性もいるの。でも肉体のない霊だけなんだから、あなたも心を開いてみんなと付き合ったら好いわ
「男性ですって、・・やはりそれは今の所無理です」
「そう、今は無理なのね。ほら向こう幻の観光船が見えるでしょう?あれは多分わたしの父が運転してると思う、友達のあの世からの人や幽霊さん達を乗せてね」
「幻の観光船?ああ見えました。あれお父さんが操縦してらっしゃるの?」
「ハハハ、形だけ、格好だけだけどね。父もお酒凄く弱いくせに大好きで、酔っ払って管を巻くのよ。そして母のいない時に止められていたお酒、と言っても梅酒しかないので、それを飲んで階段からおっこちて死んじゃったの。でも母が好きで母の傍にくっ付いていたのをああやって関心を船に向けさせたのよ」
「そ、そうですか、面白そうなお父さんですね」
「あの船には父の友人やわたしの祖母とその友達も乗ってるけど、その他はあと1人を除いて皆幽霊さんなの」
「後一人って・・」
「彼は天使みたいな人で子供が溺れたのを助けて自分は死んじゃったの。その後も子供が溺れちゃいけないとお地蔵さんの計画が出来るまで、その場を離れないでいたのよ。どう、男の人も良い人はいるのだから、少しは心を開いてみたら」
彼女は何だか増々寂しそうな表情を浮かべ頭を振った。
「良い人はいるんですよね、でもわたしの何かが嫌だと言ってる。あの切り立った岩のようにわたしの心が頑として受け付けてくれないんです」
「良いのよ、心が受け付けてくれないものを無理に押し付けはしないわ。何時かその心が溶けるまで待ちましょう、だってあなたには時間がたっぷりあるんですもの」
「でもあの船には乗ってみたいわ、きっと船から見る景色は格別に素晴らしいと思うから」
「じゃあちょっと待って、今輝美ちゃんを呼び出すから。その前にあなたの名前を教えて頂だい、何時までも名無しの権兵衛さんじゃ困るでしょう。あ、わたしは・・画家としては河原崎多恵、戸籍上の名前は島田多恵って言うの。今度はあなたの番よ」
「わ、わたしは久永知世て云います。これからも宜しくお願いします」
「はい知世さん、こちらこそ宜しくね。じゃあ輝美ちゃんを呼び出すからね、驚かないで」
ちょっとの時間、間が空いたが輝美ちゃんが現れた。京都で出会った珠美さんも一緒だ。二人ともニコニコしてる。
「はい、河原崎画伯お呼びでしたか、今丁度好いとこだったので少し時間かかりましたけど、ごめんなさい」
「何かあの船であったの?」多恵さん少し心配して尋ねた。
「いえいえ、大した事ではありません。狭い岩場を潜ろうとして少し失敗なさったんです、お父さんが」
「え、父が失敗したの?」
「ええ、でもお友達の中隈さんが手伝って何とか上手く行ったんです。でも、失敗したからと言ってわたし達どうなるものでもありませんがね」
「そりゃそうだけど、出来たら失敗しないで欲しいわ。で無事ここに現れることが出来た訳ね」
「はい、でご用は?こっちの方は新入りさんですか?」
「そう、名前は久永知世さんと言うの。自殺したそうだけどその理由は語りたくないんですって。それに大の男嫌いでもあるの」
「ああだから杉山さんでなくわたしを呼んだんですね。死んだ理由を言いたくないって、余程の事があったんでしょうね、大丈夫よ、わたし達と過ごしていればきっとその傷も段々薄れていくわ。何しろわたし達の仲間は良い人の集まりなんだから」
「ええそうどす、あんたはんも直にみんなと仲良うなれます、うちが請け負いますから」
「先ずは二人を紹介するわね。こちらが輝美ちゃんでこっちの方が京都弁バリバリの珠美ちゃん、宜しくね」
自己紹介が終わると知世さんを真ん中にして三人の幽霊さん達はもう一度幻の船を目指して消えて行った。
「ああこれで役目は終わったのかしら。もっと熱心に描かないとこんな素敵な景色なんて滅多にお目に掛かれないんだから、罰が当たるわ」
少し場所を変えて描いてみる事にした。ここも又絶景である。
「素晴らしい景色ばかりで本当にありがたいわ。でも父のように幻の船に乗って描いて回れたらどんなに好いかしら」そんな独り言を言いながら描いていると多恵さんに笑いかける人あり。幽霊ではない本物の生きてる人間だ。それも昨日と同じく野口さんだ。
「船に乗って描いて回りたいの?わたしもそう思ってみたけど、船は早すぎてスケッチの方が置いてけぼりよ。ここは地道にここで描くしか方法はないみたいよ。あなたが幾ら天の使いでも人間の姿として生まれたからにわね」
「あ、野口さん、わたしは天の使いでも何でもありませんよ、ただあの行き来する船を見てるとそう言いたくなるじゃありませんか?」
「そうよねえ、でもこうやって地面に座って描く方が見る人だって落ち着いて見れるんじゃない?わたしはそう思うけど」
「成程、その方が落ち着くねえ。うんわたしもそんな気がして来たわ。ここでもう一丁描き上げましょう
しっかり、地面に腰を下ろしてね」
野口さんも直ぐ近くで描く事にしたらしい。
1時を回る頃声がかかった。
「お仲空きませーん、食べに行きましょう」
国谷さんの声だ。そう言えば宿屋でお昼に食べて下さいと頂いたお結びやパンを齧っていたので忘れていたが、昼食の事はすっかり頭から抜け落ちていた。
「あらーもうとっくにお昼は過ぎていたのねえ」野口さんも同じらしい。
「早くしないとお店、お昼の休みに入ってしまうので、何かお中に入れた方が良いんじゃないんですか」
それはそうだと二人は立ち上がる。他のみんなも思いは同じらしく、うようよと全員集まって来る。
「これで全部なのね、では参りましょうか」
岩場の道を抜けると何軒かの店が並んでいる。
「さっき宿屋のお結び頂いたからそんなにはお仲空いていないわ」
「うん、麺類が好いわねえ」
「ラーメンかなあ、餃子もあるし」
「シュウマイも一緒に食べたいね」
「じゃあ中華屋さんにしようか」
と言う訳でラーメンもある中華屋さんに決めた。
多恵さんは初めラーメンだけにしようと思っていたが、目の前の男性諸君がむさぼり食べていた餃子やシュウマイが美味しさうだったので「わたしもシュウマイを一人前お願いします」とたのんだ。
それを見ていた女性軍団も「あ、わたしも餃子追加」「わたし、シュウマイ」と注文が飛ぶ。
「今の所は十分にお描きあそばしたと思うので、これからも少し先の七浦海岸を下って行くことになるけど、左手に入れば有名な金山に入るの。それを見たい人いるかな。ちょとだけなら車で見学程度は見る事は出来るけど,それで好いかな?」
皆それで好いと相槌を打つ。
「その先にある七浦温泉が今日の宿泊所、でも手前にある夫婦岩も描くのにここの尖閣湾に引けを取らないって書いてあったわ」
「うん、そりゃ楽しみだ。尽き果てた金山よりずっと胸がときめくよ、ハハハ」
皆も笑う。
「じゃあ早くここを出立しましょう」
車を走らせ、先ずは外から道遊の割戸を見る。人の欲望を見させられる巨大な山が金を求めて割れている。
「凄いな」が皆の感想。
次に北沢浮遊選鉱場跡も遠くに見る。ここは画家心をくすぐる者もあって暫し停車。少し賑やかな相川を通って行く。
「昔は、金が取れた頃にはここいらは凄く栄えたのよねえ」
「今だって他の所より賑やかじゃないの?」
「金山の後だって観光に役立っているんじゃない?」
「わたしもそう思う、わたし達みたいな観光客は少ないでしょうから」
夫婦岩が見えてきた。車を止める。
「七浦海岸もさっきの尖閣湾に引けを取らないわね」
「わたし、こっちの方が好き、描き易い感じがするわ」
「俺もこっちが岩がどでんとあって良いかも」
「夫婦岩って名前がちょっと頂けないな。単に巨岩のある風景と捉えたら好いと思うけど、そう言ったネーミングに引かれてくる観光客は多いからなあ」
「まあまあご意見も色々あるでしょうけど、各自好きな所で描いて頂だい。名前までは責任取れないわ」
各自飲み物や食べ物をしっかり手に入れてそれぞれぞれの描きたい場所へと向かう。多恵さんもまず初めに夫婦岩から離れた所から書き始める。皆も思いは同じらしく少し離れた所から夫婦岩を描き始める人が大半だ。
「一先ずはここからよねえ、でもこの岩は良く浸食されて複雑になっているわ」
野口さんが語り掛ける。
「複雑だけど中々味わい深い面白さがありますね」
「うん、夫婦岩と言われなきゃ素晴らしい岩の芸術と受け止めてありがたく描かせてもらう事になったんだけど」
「夫婦とネーミングされているために人寄せには好いでしょうけど、それを俗っぽいと思う人も結構多いでしょうから」
二人はスケッチを開始する。素早く描いていく。ここを早めに切り上げてもっと近場で好い所を探して描きたい。
「でも描いてるとこの岩の面白さに引き込まれますねえ、浸食のされ方が良かったと言うべきか、よりわたしは手前より奥の方がもっと好きかなあ」
『ああら、実はわたしもよ、どちらかと言うと奥の海に瀕してる方がより好みにピッタリと言う所かしらねえ」
描き終えてもっと岩場の方へ進んで行く。皆もちらほら描き終えて夫婦岩なるものに近づいて来る。
「こりゃあ凄いわ、近場で見る方がグッと荒々しさも増すし複雑さも増すみたいだ」
「でもこの荒々しさをどう描くか迷うわ」
「そのまま描けばいいんじゃない、何も足さない、引きもしないと言うのが尊敬すべき自然に対する心得だわ」
「ふうん、とは言っても自分が得意な所は力を入れて描くでしょうけど、苦手の所はついつい省略又はごまかすかになってしまいがちよ」
「第一人者の野口さんはどう云う考えの元にかきますか?」
「え、わたし・・わたしは自分の描きたいものを、そこを中心に描いていくので、あまりこれは得意、これは苦手なんて考えた事ないわ。でも苦手なものは苦労して描くも良し、省略してしまうのも、その人の好きで好いのよ。それがその人の持ち味になるんじゃないの」
「へへえー、やっぱりその道に一歩先んじてる人は好い事言うよ、うん、俺も自信をもって描こう」
「お前省略派、それとも苦労努力派?」
「ヘヘヘ、省略派かな」
皆どっと笑う。それを合図にそれぞれの狙う場所へと向かって行った。
多恵さんも奥の方の岩場を点検。中々の岩山だ。ぐるりと裏へ回る。そこは又大小の岩場が広がっているのが見える。
「これも素敵な眺めだわねえ」
ここはスケッチすべきだと思い画紙に鉛筆を走らせる。勿論目の前の海と岩が長年に渡って作り上げた石の芸術作品もスケッチするのを忘れてはいない。
少し外に出て奥の小岩場と手前の大岩山を両方狙える場所を探す。かろうじて何とかそれに見合う場所を見つける。
「ここはわたしの今描きたいモデルの場所、誰にも邪魔させないわ」と多恵さんデンと構えて鉛筆を走らせる。
「あら、ここ好いじゃないの、最高の場所だわ」
暫くすると野口さんに見つかってしまった。
「ええ、ここはわたしが見つけた最高の場所です。岩山はしっかり描けるし向こうの岩礁もちゃんと描けます」
「そうか、わたしも実はそんな所を探してたけど、中々見つからなくて。好いなあわたしにもその場所少し譲ってくれないかなあ」
「しょうがないな、昔一緒に旅した同士だもんねえ、断れないわ、じゃあ少し場所を譲るか」
1枚目は描き終えていたのでその場所を譲り別の方向から景色をスケッチする事にした。
「うんうんここからの臨場感最高だわ、ありがとう河原崎さん」
野口さんニコニコ。多恵さんも笑顔で答え、さっき買っておいた紅茶の缶を飲む。
「あなた、海は海のない所で生まれ育ったから描かないと言ってたけど、こうして見るとわたしが恐れていたように好い絵を描くじゃない?」
「まああれから色んな所に行って、海じゃないですけど、湖や滝、川なんか描きましたから。岩場も断崖絶壁もありましたし。描けば皆愛しい子供みたいなものですから」
「描けば皆愛しい子供みたいなものか、そうねそうよねえ、皆愛しい子供なのよね、だから、独り身でも寂しくないのよ、これ本当」
野口さんにっこり笑う。
「でもあなたの水の絵は本当に素晴らしいわ。この間描いてた袋田の滝も胸にじんと来たわ、ただ雄々しい滝ではなく、何か切なくなるようなそんな思いをさせられる滝だったわ。三宅さんも一緒に行って描いたのよね、その三宅さんの滝とは全く違った感じを痛烈に感じたの。凄いなあ、素晴らしいなって」
「まあまあ、そんなに思って下さって感謝するしかありません。あの時心の中でそんな思いを感じたものですから」
三宅さんと野口さんは少し三宅さんの方が年上だが同じ水を描く、一人は滝でもう一人は岩にぶつかる白波を得意にしてる。二人とも画廊の人気上々であり、引っ張りだこでもある。その心の内にはライバルとしての炎が燃えているのは間違いない。
多恵さんのそこでのスケッチは完了しもっと別の所を描きたくなったので、軽く挨拶をして他の処へ移動して行った。
岩山の向こう側に出て少し歩き振り返る。うん、これも一興と鉛筆を走らせる。少し風が出て来て北にある島の秋の真っ最中にいるという感じをその冷たさにかんじた。
「そろそろ夕方、日が落ちる頃ですねえ、夕日の一番美しい所を描いたら今日の宿屋に参りましょうか」国谷さんの声がかかった。
「昨日の夕日も綺麗でしたけどここから眺める夕日も最高だと書いてありましたよ」
「そうね、海に沈む夕日はどこから見ても素晴らしいわ、ましてここみたいに岩礁のある所は格別だわ。国谷さんのお誘いを受けて夕日が沈む所を是非一つ描かせてもらいましょう」
「フフフ、わたしも描かせてもらいます。技量が足元にも及ばないのは重々承知してますが」
「あーら、夕日を描くのに技量は関係ないわ、ただこの夕日が好き、この夕日を描きたいと思う心だけが重要なんだから」
「心ですか、心は河原崎画伯に引けは取らないと強く強く今誓いました。ハハハ今ですがねえ」
二人は沈みゆく太陽を並んでスケッチしていった。
「さあここでのスケッチは終わります。みんなー、ここを引き上げるわよー。聞こえたら自動車の所に戻って頂だい。七浦温泉がみんなを待ってるからー」
国谷さんの大声に見とれていた夕焼けの世界から呼び戻されて、慌てて道具をまとめて引き上げる準備に取り掛かった。
「さあて確か宿屋の所在地は?フムフム、あこっちの方角だわ、ではシュッパーツ」
昨日からずーっと彼女一人で我々の車の運転は任せっぱなしで疲れているだろうと気にはなるが、何しろ彼女の計画で動いているので、ここは任せるしかないのである。
「ここ、ここよ、ここが今日の宿泊する旅館、夫婦七浦温泉旅館よ」
「うーむ、ここにも夫婦が着くのね」野口さんの苦さの混じった声。
「仕方ないでしょ、それで売ってるんだから」多恵さんが野口さんを窘める。
「美味しい料理と好いお風呂、それにサービス満点なら言う事ないわ」
「ハハハ、その上上手い酒があれば御の字だよ」
「うーん、きっとお酒は、この佐渡の銘酒でしょうから飲むのをやめるのが難しいと思えるくらいでしょうけど、我々は画家であり、絵を描くために来てることを忘れないでね。この後絵の品評会もちゃんとやりますから、心して飲むべしよ」
国谷さんは手厳しい。
「その前に温泉に入って今日の疲れと汚れを落としましょう。夕食は7時からと致しますか?反対の人がいたら言って頂だい。好い,好い、好いのよね。では7時からと言う事でお願いします」
皆割り当てられた部屋へ散っていく。
多恵さん達も桔梗の間に荷物を置き、早速浴衣を持って風呂場へ向かう。勿論大浴場にである。
『あ、ここから海も夕日も見れたのねえ」
「でもまだ夕焼け空は残ってるわ」
「ええ、残った赤い空がとても綺麗だわ」
皆が髪を洗ったり、体を洗ってる間にその赤い色も消え、薄桃色から青、紺色に変われば宵の明星から始まって数々の星々が輝き始める。
「もう少しゆっくりしてても好いわよね?」
「ええ、ちょっと位のんびりして星を眺めていましょうよ、こんな贅沢な時間中々持てないわ」
女達人は湯船に浸かりぼんやりと暮れなずむ空と海を眺めていた
「ああ、でもこうしてはいられないわね、そろそろ上がらないと夕食が待っているわ」
「そうね、そろそろ上がりましょうか?もう一つの楽しみを味わうために」
皆貧乏性らしくその言葉に反応し、がやがやとお風呂を後にする。
「でも、お風呂を浴びるとさっぱりして気持ちいいわ、未だ新しいい絵が描けそうよ」
「そうそう、新しい絵がわたしを待っているという感じ」
「でもこれが鉛筆画だからその気になるのよ、これが油だったら、絵の具で汚れる事を考えるとね、そうは行かないわ、御馳走は綺麗な体と着物で戴きたいわ」
7時に成る頃を見計らって食堂に集まる。
昨日に負けず劣らず魚介類がピッチピッチ、それに今日は牛のステーキもある。
「先ずは今日の素晴らしき景色を祝して、ここ佐渡の銘酒で乾杯しましょう」
国谷さんが盃を上げる。
「そうそう、この我らの芸術を支える美しき佐渡の海岸に乾杯だ」
「美しき佐渡の海岸に乾杯」みんな唱和する。多恵さんも勿論飲んだ。実に美味しい!
「なんておいしいお酒かしら、これで十分だわ。絶対に何とか寒梅じゃなくちゃだめだと言ってるわが父が情けない」と多恵さんは父を思う。
するとその父が中隈さんを引き連れて現れた。
「そ、そんなにここの酒は旨いかい?」
「美味しいわよ、これは地元のお酒、ええっと佐渡の誉れって言うんですって」
「うん、これは佐渡の誉れって言うんだ。上手いよねえ実に」
多恵さんが父親に話しているのを聞いて男性軍が答えてくれる。
「では味見してみよよう」父と中隈さんはそこにある酒を注ぎあって飲んでみている。
「こ、こりゃあ旨いわ、甘露だよ」中隈さんが叫ぶ。
「どれどれ・・うん・・う・ま・い・これは絶対旨い,旨いよ」
暫くそこにあったみんなのお酒をかき集めて飲んでいたが、ふと気が付いたらしい、彼らがさっき迄時を共にしてた仲間の事を!
「みんな今どうしてる?」
「一番うまい料理を出す所を探すと言ってたぞ」
「ここはさ、海沿いだからどこも似たり寄ったりだろう?」
「杉山をちょっと呼び出すか?あいつは多恵にぞっこんだからな、直ぐ来るよ」
父がそう言うか言わない内に杉山君が現れた。
「みんな如何してる?」
「はあ、あっちこっちでつまみ食いしてます。どこか早めに決めて欲しいですね」
「まあ、決めたい奴にはそのまま任せてさあ、ここは酒が旨いんだ、だから石森さんやお前の子分の良介を呼び出してここで飲み会やろう!大体海のある所は料理なんて似たり寄ったりだから、ここの料理で十分すぎるよ、そうだろう?」
さっき迄飲んでいたお酒の所為か(本来は酔わない筈なのに!)口調が大分生きていた時の酔っぱらい状態になっている。
杉山君が多恵さんの方を見る。
「邪魔にならないでしょうか、なるべく少人数でやりますから?」
「この部屋の空いている所でやって頂だい、賑やかにやるのは構わないけど迷惑はかけないで」
なるべく小さい声で話すが何しろ楽しい宴の席、席と席の間もくっ付き加減、ひそひそやってもこいつ何やってんだと思われても仕方がない。
「?」不思議な顔をして多恵さんを眺め見る生きてる人間。思わず顔が赤らむ多恵さんだ。
父達を残して一旦消えた杉山君、いつもの三人組に誠君を加え4人で現れた。誠君がいれば変な事はまず起らないだろう、これで自分も安心して食べられるとホッとする多恵さん。
「これは又別の所の地酒です、これも味わって下さい。また違った良さのあるお酒ですよ」と仲居さんが別の酒を持ってくる。
「お、これはーまた全然違った味わいだ」
「うんこれは・・前の酒とは違って少し辛口だな」
「ほんと、わたし何が辛口だか甘口だかさっぱり分からないわ、どれどれ」
「わたしも全然分からない方、でもさっきのお酒は美味しかったわ」
「右に同じ、甘口の方が絶対いいわ」
「わたしも梅酒みたいな甘いお酒があったらガンガン飲むけどなあ」
「あなた、そう言いながら随分飲んだんじゃないの、少し飲み過ぎよ」
「ああ、あ、みんな少し飲み過ぎて今日の品評会出来そうもないわ、ようし、わたしも飲むわ、ジャンジャン持って来て」国谷さんもお酒に負けた。
と言う事はどうもこの画伯の上品な宴はこれで終わりを告げ、そこいらの普通のおじさんおばさんの飲み会になってしまったのだ。一方少し離れた所では天使を交えた霊、幽霊さん達が次に来た団体さんと一緒に賑やかに楽しく飲み歌い食べ、最後には踊り出すという大宴会が出来上がりつつあった。
「いやー、何か今日は実に楽しい、酒は旨いし魚は旨すぎる。あ、これは地元の佐渡牛のステーキか。これも実にうまあーい」
どうも団体さんに霊軍団が混じると、旨いぐわいに混じりあって楽しく愉快になって宴会は盛り上がるらしい。と京都の夜の事も考えるとそういう事に多恵さん落ち着いた。
しかし冷静なのは多恵さんだけで向こうの団体さんもこっちの普通のおじさんおばさんの団体さんも、それに普通の家族のお客さんも、もう何が何やら分からなくなって旅館の人達が「もう今夜の宴会はお開きですから」と何回も注意を促し、最後にはズルズルと一人ずつ部屋に運ばれていく羽目になって行った。
多恵さんも野口さんやら国谷さんを何とか立たせやっとの思いで部屋へ連れ戻した。
「あーあ、酷い目に合ったわ、如何も団体さんと霊さん達を一緒にするのは良くないのね、これから気をつけなくちゃいけない」一人でぶつぶつ。
「すみません、僕が居ながらあの京都の夜みたいになってしまいました」
誠君が現れて多恵さんに謝る。
「そうだ、そうよ、あなたがいたのにこうなってしまったのね、うーん、何かが作用してこうなるんでしょうけど、一体何が原因なんでしょうね」
「僕にもさっぱり分かりません。ただ、お酒の所為で普通の人も少しですが霊の存在を感じるみたいですそうとでも考えなきゃあ、説明出来ません」
「成程ねえ、そう言えば霊さんと普通のおじさん達が何か話をしていたわ。幽霊さん達の幻の酒をじゃんじゃん飲まされている人もいたし・・・幻の酒と言ってもそれが結構普通の人間には良いが回るんだから困ったもんねえ」
「はい困ったもんです」済まなそうな誠君の顔。
「あ、でも、それは消して誠君の責任じゃないわ。もともとはわたしの父の所為よ、本当に死んでからもお酒でわたしを困らせるんだから」
「お父さん、とっても幸せそうでしたよ。あんなに幸せになれるものなら、僕も少し飲んでみようかなと悪しき考えが心を掠めるほどでした」
「まあ、それはいけないわ、天使の心も惑わすお酒。でも、お酒に乗っ取られなくて良かったあ」
「ええ、本当ですよ、これから先十分気を付けなくちゃあいけないな。これは僕のこの世の修業が足りないせいですよ、滝にでも打たれて修業をやり直さなくちゃいけない」
「ねえ、誰と話してるの?」
国谷さんが目を覚ましてしまったらしい。
「いえ、旅館の人と話してたの、少しわたし達破目を外してしまったみたいだから」
そう多恵さんが言うと国谷さん吃驚して飛び起きた。
「品評会やらなくちゃ、今何時?」
「えっ、今12時過ぎたとこよ、皆もう寝てるわ、今日はもう出来そうにないの大人しく寝て居て頂だいな、野口さんも寝ているわ」
「そう、そうなんだ。じゃあおやすみなさい」国谷さん再び睡眠の世界へ舞い戻り。
翌朝空は秋晴れ、好い天気。で、皆は如何した。先ずは国谷さんは?
「おはよう、今日は何日だっけ?何処を回る予定なの?」
こりゃ、未だ酔いが残ってるみたい。
「今日は佐渡島の3日目よ、最終日。小木海岸に行く予定じゃないの?」
「ええっ、そうなんだ。うーん頭がぼうとして何も思い脱せない。河原崎さんに任せるわ」
「わたしに!わたし、何にも知らないわよ。道は何とかなっても時間的なものは全く分からないんだから困るわよ、帰りの船に乗り遅れたら大変よ」
「大丈夫、大丈夫、このぼんやり頭で考えるよりきっと増しだわ」
野口さんを見る。
このお方もまだ夢の中にいらっしゃるみたい。
と言う事は皆が皆こういう状態にある訳だ。何とかせねば。
先ずは皆をお風呂に入れようか、待て待て却って寝てしまうかも知れない。
先ずは今日の身支度をさせて廊下に並ばせ、幽霊さん天子さんの力を借りて冷風を吹きかける。
「ひゃー、なんだ、この寒さ」先ずは男性陣が昨日の悪夢から目が覚めた。
それを皮切りに皆ぼちぼちと目が覚めて行く。
「わたし、如何したのかしら、昨夜、何だか楽しい酒盛りをやってたような、やらなかったような」
「昨日、いいえ今までよ、本のさっき迄どんちゃん騒ぎしてたのに、何、急に吹雪に中に放り込まれたみたい二なっちゃって。ああさっぱり分からないわ」
「うーん、寒いわ。何この寒さ、好いこんころもちでふわふわしてたのに、今は裸で真冬の外に放り込まれたみたい」
皆目が覚めたみたいだ。多恵さんも霊さん達も寒さ攻撃を止める。空気は元に戻る。
「さあさ、何を寝ぼけてんの、今日のお仕事に出かけるわよ。その前にまだ朝食を取っていない人は早く済ませて頂だい」国谷さんに代わって多恵さんが声を張り上げる。やっとの事でこれでスケッチ旅行の最終日を執り行う事が出来るのだ。
皆自動車の所に集合する。
「ささ国谷さん、今日も張り切ってタクトを振って頂だい、もう目が覚めたでしょう?」
「ええ?え、えっと、うーん、大丈夫、大丈夫よ。多分大丈夫よ」
まだ少し幽霊酒が残っているみたいだ。
「国谷さんがしっかりしてくれなきゃ、我々の旅は回りませんからね」
「ああ分かった、分かりました。ようし元気を振り絞って今日も頑張るぞう。これでどうかな、少しは前のわたしに見える?」
「兎も角暫くは道なりに小木海岸に向かって走るのだから、最初はわたしが運転するわ。その内目がはっきり覚めるわよ」
と言う訳で今日は多恵さんが運転のトップバッターを務める事になった。都会と違って車が少ないと言え初めての道、しかも運転し慣れていないと着てる。カーナビさん宜しくお願いしますと祈るばかり。
先ずは右手に真野湾を見て走る。丁度運転席の方にあたるので景色は抜群だ。ここで車を止めてスケッチしても良いくらいだが、今は国谷さんの代理なのだからと自分に言い聞かせ只管小木港目指して突っ走る。勿論後の車も注意しながら。何しろ多恵さんを除いて皆国谷さん状態なんだから。小木港に着く。
ここから先が今日のお目当ての風景が広がる世界なのだ。車を先ず止める。
「えーここが昔取れた金や大判小判を江戸へ運ぶための船が出向してた港なんですって。わたしここで小判何かが作られていたなんて全然知らなかったからもうびっくりしたわ」と多恵さんが国谷さんに代わって演説。
「喫茶店で一息入れて進みましょうか?これから先が矢島経島を初め、犬神平大岩や神子岩、万畳敷等の奇岩が見られるのよ」
皆まだすっきりパッチリとは行ってないようだ。ここは濃いコーヒーでも飲んでもらって早く現世に戻って来てもらわなくては。
喫茶店に入りコーヒーのストレートをお願いする。
「さあさ、コーヒー飲んでも少し目を覚まして頂戴な」
皆苦いコーヒーを啜る。
喫茶店を出て飲み物とパンお結びお菓子等を仕入れていざ出発ー。
コーヒーが聞いたのか、今までもるっきり喋らなかった野口さんも少し会話らしきものを話し出した。
「今度向かうの矢島経島って言うとこなのね」
「ええ、わたしも詳しくないけど、矢島はぬえ退治に関係あるらしいし、経島は嵐に合った日蓮の弟子が流れ着いてお経を読んで沈めたかどうかしたんだって」ともう一人の彼女と話しているのが聞こえる。
「じゃーここで止めましょうか?」多恵さん国谷さんに尋ねる。彼女もこくんと頷く。
島と島は橋でつながれている。車を止めその二つの小さな島へ歩いて渡る。伝説は分からないが中々の景観である。
「足元が悪いので十分注意して頂戴な」多恵さんがメンバーに呼びかける。
「ここは一時間ね」とも付け加えろ。
しかし行って見ると結構描きでのある岩場や断崖である。
「ここ中々一時間では描けないわねえ」」と野口さんが呟く。
「今日は時間が短いので仕方ないです。写真を撮って行って下さい」
「それじゃ仕方がないわねえ。そうするか」
少し詰まらなそうな顔を見せたが野口さん、気を取り直して岩場に対峙する。
国谷さんはどうなったか?うんまだ片足抜けきっていないようだ。
「ねえ、国谷さん、ほらここに来て、見てごらんなさい、岩が凄いわよ。凄いなんてもんじゃすまないくらい。ここ一緒に描かない、わたしも描く、あなたも描く。一時間しかないけど一生懸命に描けば何とかなるわよ」
多恵さんの呼びかけに国谷さんも反応をみせる。彼女も意を決したらしく唇を嚙み締め道を上がって来る。
「さあここに座って描きましょう。ね好い景色よ、岩場は凄いし海は水色から青、紺色に変わって行くのがはっきり見えるわ」
「そ、そうね、水の色が変わって行くのが・・うん、分かる、分かるわ、わたしにも」
「じゃあ、スケッチブックを出して描きましょう。きっと好い絵が描けるわ」
彼女、スケッチブックをやおら取り出し広げる。鉛筆を握る。ぼつぼつながらも描き始めた。これで彼女ももうちょっとで完全に抜け出れるだろう。
「昨日の事、わたし如何したのかしら?何だかホンワリ楽しくて進められるお酒がとても美味しくて気が付いたら朝になっていたの。朝何だか嫌に寒くてそれで・・この世に半分戻って来たんだけど、まだ半分は向うの世界に居るのよ、ええ、あなたが声かけてくれたお陰で大分こっちの住人に戻れたみたい。一体これは如何した加減かしら?他の人も殆どが同じ状態でしょう?佐渡のお酒は美味しいけど悪酔いするのね」
彼女顔を上げて笑った。
「良かった、あなたがこのままあちら側の人のままだったらどうしようかと思っていたのよ」
「ごめんなさい、心配かけたわね、昨夜も野口さんやわたしを部屋に連れ戻してくれたんでしょう?」
「旅館の人も手伝ってくれたのよ、わたし一人では三人もむりよ」
「でもみんなの中で酔わなかったのは河原崎さん一人だけなんて不思議よねえ」
「これでわたし迄があっち側の人になってたら、今日はどうなっていたんでしょうね、ハハハ」
「ほんとそうですよね、良かった、河原崎さんがお酒に強くって」
「お酒に強いって訳じゃなくて、昨日は余り飲む気にならなかったのよ、それだけ」
ここで酒に強いと彼女に思われたら今後酒の強豪として噂されかねない、はっきりと否定しておかないとどんな災難が降り注いで来ないとも言い切れない。
「そう?そんな風には見えなかったけど、でも気分が良くなくて助かったわ、あなた一人でも真面な人がいて」彼女の鉛筆の動きも段々真剣になって来ている。これで我々一行が新潟の本土に帰れる一番の要が整ったという訳だ。多恵さん、ほっと胸を撫で下ろす。
時間が来たので宿根木海岸を更に奥へと進む。
「わたし、ここの海岸、ね、ボコボコして分かるでしょ。ここを描いてみたいわ」
野口さん好みの岩だらけの海岸に、彼女が声を上げた。その覚悟はしていた多恵さんも実は描いてみたい派の一人だったので、直ぐ車を止めた。
「うーん、時間がないの、精々40分だけね、急いで描かないとアウトだわ」
皆慌てて描き始める。秋風が吹く。白波が立つ。言う事なしの画家好みの風景だ。
「大体かけたわ、あとは写真に頼るしかないわ」
「ああ後少し時間が欲しい」
「波が立って凄く好いけしきなのにー」
みんなぶつくさ言いながら車に戻る。また車を走らす。長者橋を渡り、灯台が見える。
「この先が神子岩や万畳敷があるとこよ。ここで2時間休憩。これで帰りの道を何とか突っ走れば、お土産を買う時間もたっぷり取れて新潟港目指して船に乗り込めるわ」
多恵さんがこう仕切ると一斉に皆から拍手が起こった。
『じゃあ皆それぞれさっき買ってきたものでお中を満たしつつスケッチして頂戴。多分ここが佐渡最後のスケッチ場所だから心して描いてね」
車を止めて、荷物を背負い何時ものように自分を呼んでる場所を求めて散っていく。
ここは何と言っても今日の中では最高の場所だと多恵さんは思う。景色は荒々しいし風も一番強く波も激しい。
「最高よ、素晴らしいわ。佐渡へ来た甲斐があったと言うものね」
さっきの場所を40分に切り詰められて少々おカムリ状態だった野口さんもこれで機嫌が直ったみたいだ。やれやれ、プランナーは辛いぜと多恵さん心の中で呟く。
「でもここがも少し便利の好い所にあったら、見物人がわんさか集まって絵を描く人間にはちょっと邪魔になる所よ、こんな辺鄙なとこにあって良かったわ」
「足場も悪いし交通手段もないから、このありがたい風景をゆっくり堂々と描けると言うものよ」
皆見物人が少ない事に喜びを隠せない。ま、一生懸命書いてくれ。
多恵さんが最初に選んだのは神子岩当たりを中心とする岩場、波に洗われ濡れている岩の色合いが何とも言えず美しいし、それにぶつかる白波も素晴らしい。勿論みんなも歓声を上げつつ描いている。
杉山君がやって来る。
「どうやら皆幽霊酔いから覚めたみたいですね」
「お陰様で酷い目に合わされたわ。こんなことはもう願い下げよ」
「はあ、でも夕べの騒ぎは俺達ではなく、お父上とそのご友人のノリだったんじゃないですか?」
「まあそれはそうだけど・・でもこの世の人間にお酒を進めて飲ませたのはあなたたち幽霊さん達だったんじゃないの?」
「ヘヘヘ、そうかも知れません。何しろお父上達は飲む方に夢中で、人間についでやるなんて考えは全く持っていませんでしたから」
「ほんとに死んでもお酒に関してはちっとも反省してないんだから」
どどーんと白波がこの時打ち上げた。
「凄いですね、俺達の作った波よりやはり自然に作り出されたものの方が迫力ありますね」
「ええ、残念ながらこっちの方がスケールが全然違うわ。自然の力には及ばないわねえ、本とに」
「俺達ももっと研究を重ねても少し本物に近い状態に近づけなくちゃいけないなあ」
「何を一人で感心してるんだ、お前」
石森氏と良介君も現れた。
「昨日の一番幽霊酒を進めてたのはこいつですよ、何しろ京都でもこいつが酔っ払った人を見つけて面白がって幽霊酒を飲ませていたんですから」
「ヘヘヘ、どうもアル中だった頃の癖が残っていまして、ついつい誰彼構わず酒を進めたくなるんですよ、何しろ幽霊酒はタダですし量も尽きる事もありませんしねえ」
「僕は前回の事もありますから少し控えたらって注意したんですよ、でも石森さん、あの-女の人と何か話が合っちゃって、どんどん飲ませちゃったんです」
良介君すまなそうな顔して多恵さんに訴える。
「ああっその女の人って国谷さんだわ。成程彼女の幽霊酒からの抜けきるのが遅くって遅くって、この人如何したのかって思っていたのよ。飛んでも八分、そのとばっちりを受けてこっちが一番被害を受けてしまったわ」
「ハハハ、それはすまない事をしてしまいましたね、でも彼女少し旅行の事でお疲れさんだったみたいでしたので、俺の話に乗って来たんです。許してやって下さい」
「うーん、そう言われればそうかもね、一人で何もかもやってて疲れていたのかも。も少しわたし達が気を使うべきだったわ」
一枚目の絵が出来上がる。多恵さん、万畳敷の方へ向かう。
こちらの方も波は荒いが高さがないためその分白波も半減してる。
多恵さん、さっき購入したお結びをぱくつく。朝はみんなの様子がおかしかったので朝食も殆ど味わう事もなく済ませてしまったので、取り分け美味しく感じるのは気の所為かもしれない。
「ちょっと横に来て好いかしら」
その国谷さんが横に来て座る。
「良いわよ、こんなに広いんですもの遠慮する事ないわよ。今お結び食べてスケッチしようかなとしていた所」
「わたしも先程お結び食べて、パン食べてお菓子も食べました。朝旅館で朝食食べた筈でしょう?でも全く覚えていないんです。酷いでしょう、でも隣に座っていた人達が結構食べてたって言うから間違いないと思います。でもわたし自身は覚えてrいないんだなあ。だからこれ二日酔いではないんですね、わたしの症状」
「そうみたいね、みんなぼうっとしているだけで気持ち悪くなったり、頭が痛くなったりしてないんですもの。こんな症状の人、初めて見たわ」
「でもね、まるでわたしの兄みたいな声で語り掛ける人がいて、わたしの今の状態を優しく聞いてくれるんだ。幾ら自分が満足した絵を描いても中々皆が認めてくれないって愚痴ったのよ。そしたらその男の人が俺も蕎麦屋やってて中々皆が納得しなかったけどこの頃やっと皆が旨いと言ってくれるソバが打てるようになったんだ、だからあんたも頑張ってみなよ、その内日が当たって来るからさ、って言うの。それでさその男の人と沢山お酒飲んだ見たい」
成程成程、辻褄ピッタリこ。
「あああの人、一体何処の人だったのかしら、も一度会いたいな」
もしかして、石森氏に恋心を抱いた?多恵さん首を振る。それは決して許されない事だ。
「あの団体さんね、わたし達とは別の方へ出立したわよ。勿論彼らも酔っ払ったままだったけどね」
「まあ、そうだったの、悪酔いしたのわたし達だけではなかったのね」
「でもここの景色、凄いわよね。他の所にも鬼の洗濯板とか千畳敷とかあるけど万畳敷はここが初めてかな。あなたはどう?」
国谷さん首を振る。
「わたし、あんまり海は、特に岩場は今まで描いた事なかったから」
「わたしも同じよ。川の石がゴロゴロしてるのは何回もあるけど、海はまるっきりないわ。川の方が石も角が取れてる感じだけど、海の方はまるっきりその気配もないわ。ま、砂浜に転がる小粒の石ころや貝殻は丸くなってるけど,石の材質が違うのよねえ,多分柔らかい所は無くなって固いゴツゴツした所が取り残されたんだわ」
会話してる間も二人のスケッチは進んで行く。
「今回河原崎さんが来てくれて本とに嬉しかったわ、天気は台風も避けてくれて上天気だったし、こうして並んで絵は描けるし、何よりこのわたしがボーっとしている時、わたしに成り代わって指揮を執ってくれて、本当にありがたかったわ。ありがとう」
「わたしもね、もっと早くあなたの負担を減らすべきだったと反省してるの。せめて平坦な所の運転位わたし達がやるべきだったとね」
そこへ野口さんもやって来る。
「あらー、ここは好い場所、このゴツゴツした岩のうねりも良いし、それに寄せる波もダントツ素晴らしいと思うわ。わたしもここにかけさせてもらって良いかしら?」
「勿論好いわよ、場所代は遠慮しとくわ、野口さんだから」
「フフフ、じゃあ場所代としてこのお菓子を進ぜよう。これね、ソフトタッチでとっても美味しいわよ」
イチゴとクリームを挟んだもので確かに美味しそうだ。
「じゃあ遠慮なく頂くわ」
「勿論わたしも頂戴するわ、何だか凄くお仲が空いてるし、これ、本当に美味しそう」
多恵さんも国谷さんも一つずつ貰って食べる。
『あ、これは美味しい、イチゴそのままの味がするわ」
「うん、このクリームが好いのよバニラの匂いが強くなくて」
野口さんもスケッチを始める。凄いスピードで描いて行く。
「相変わらず素晴らしいスピードで描いて行くのね、それを見ちゃあわたしももっと練習を積まなくちゃあと思い知らされるわ」
「わたしは殆ど岩場で描くでしょう、今日も風強くなりつつあるけど、もっともっと風が強い日があるから,ぼんやりしてたら絵はだめになるわ、自分は吹き飛ばされそうになるわで、どうしても早く描かなくてはならないのよね、分かった?」
「そうか、ボンヤリしてたら元もこうもないんだ。でも気を付けてね、命あっての絵なんだから」
「うん、ありがとう。わたしも何時までもこう言った岩場の絵を描いてはいられないと時々思うのよ。でも岩に波が当たって砕けるのが好きで好きで溜まらないんだ。も少し体力がなくなるまで続けたいわ、神様にお願いするの、も少しだけ体力が続きますように、ってね」
「そうか、体力勝負なんだ、岩場と白波の絵と言うのは」
多恵さんは三宅さんや柏木さんに思いを馳せる。人夫々に苦労がある。若い時には衰え行くわが肉体の事を考える事はなく夢中で描き進める。ある時自分の肉体が若い時とは違っている事に気づかざるを得ない時にぶつかる。その時みんなはどうするのか?答えはみんな違っているんだろうな、例えこの手が無くなっても絵を描くのを諦めない人がいるし、あの川の岩に命を懸けた平井氏みたいな人もいる。
「わたしはねえ河原崎さんのあなたの絵の人の心をつかんで話さない、その魅力の元を知りたいのよ」
「そう、そうです、わたしもです。どの絵を見ても心がずきんとするんですよ、あれは一体何処から来るんでしょう」
方向が変わった。今まで野口さんに向いていた風見鶏が急に多恵さんの方に顔を向けた。
「え?それねえ時々スケッチ旅行に行くと聞かれることがあるけど・・全然わ・か・り・ま・せん。それが分かれば皆さんに講義しても良いけど何故そう言われるのか、描いてる本人にもこれっぽっちも分かっていないのです」
分からないと言えばあの女性は何故死ななきゃならなかったんだろう?初めは鬱を疑ったがそこまで鬱の症状は出ていない。恋愛問題もない、苛めも本人は全く気にしてないようだ。ただ男は大嫌いと言っていたっけ。思わず溜息をつく。
「どうしたの、溜息なんて着いちゃって。どう見たってこの12人の中では一番恵まれているとわたしは思ってるんだけど、お嬢さんの事でも悩んでいるの?」
お嬢さんねえ、真理ちゃんの明るい顔が浮かぶ。
「トーンでありません、うちの娘について悩みを持った事は皆目ございません」
「じゃああの大学の哲学の教授でいらしゃるご主人の事?」
「人は見かけによらないと言いますけど、とても優しそうで、噂によるとお料理までビックリするほど上手とか言う憧れの的であるあの哲学の大学教授の御主人が」
「あのう、わたし、もう何回も言ってると思うんですけど、わたしの夫は教授じゃなくて准教授なんです。それにわたし夫にも溜息着くような悩みも持っていません。あー、わたしからの質問、好いですか、ここに一人の女性がおりました。恋愛関係もなく友達からも仕事関係からも全く苛めは受けていない、お父さんはちょっとアル中気味でお母さんは無くなっているの。その彼女がある日自殺してしまったのよ。遺書もなくってみんな途方に暮れているの。あなた方にこの女性の死因、分かるかな?」
「随分話が飛ぶんだ。え、その女の人とどんな関係があるのあなたと?」
「関係?そうね、きっと余り関係ない人だけどその死んだ理由を知りたくて。この間この佐渡で自殺したらしいわ。少し絵に興味がある人らしくて気になってるの」
「へえこの佐渡で自殺したの?その話何時仕入れたの?わたし達が知らないと言う事は、多分夕べわたし達がこの世かあの世か彷徨っている時なんだ」
「そんな深刻な話がわたし達のどんちゃん騒ぎの一方であってたなんて本当に申し訳ない」
野口さんと国谷さん、反省の色を浮かべる。
「わたしは、彼女が書置きも残さないで自殺したのが可哀そうで、その原因を知りたいだけなの」
「うーん、中々難しい問題ねえ」
「彼女が男の人を大嫌いと言う事は分かっているんだけど」
「そこに秘密のカギはあるみたいね・・」
「例えばよ、決してあってはいけない事だけど、アル中のお父さんに手籠めに合ったとか・・」
「それはないみたいねえ、葬式出すのは渋っていたらしいけど」
「残るは‥一つしか思い浮かばないわ、男嫌いで死にたくなるのは、きっとそれはその大嫌いな男に犯されたのよ。それしかない、だから遺書にも書きたくなかったのよ絶対に」
暫し沈黙が流れた。スケッチの音だけが響く。時折波の砕けるのも混じる。
だから彼女が頑なに死因を喋らなかったんだ。多分これからもずっと。わたしも知ってはいけなかったのかもと多恵さんは考えた。
「でも、そんなのに負けちゃいけないのよ、真っすぐ正面を向いて生きていて欲しかったな」
野口さんがぼそっと言った。
「多分彼女も前を向いて生きたかったと思う。だからこの佐渡島に来たんだ。でも男嫌いが強すぎて,いやでいやで仕様がなかったのよ男の存在が。一人でも周りに心優しい男性が居たら少しは状況が違っていたでしょうけど」
今彼女の周りには心優しい男性が沢山いる。少し遅かったけどこれから嫌でも触れ合う事になる流れの中で何時か彼女の心が癒され、男も良い所があるなあと思ってくれるよう祈るばかりだ。
「あらあ河原崎さんの絵、素敵。変な話をしてるだけなんて思っていたけど、話は話し、絵は絵なのよね狡いなあ」野口さんが褒める。
「どれどれ、本と素敵。わたしは全然駄目。まだ吹っ切れていないみたい。以後お酒には十分注意しなくちゃ」一方の国谷さんは嘆く嘆く。
「うーん少しスケッチ力落ちたわね、これに懲りてお酒は慎みましょう、と言ってるわたしも慎みましょう、ハハハ」
「でもそろっそろ車に戻って両津港へ向かわなければならないわ」
『そうね皆も引き上げているわ、わたし達も戻りましょう」
三人も大急ぎで片づけると自分達の車に戻った。
「さあ真ん中の道を通って両津港へ参りましょう。棚田はスケッチ出来なかったけど又の機会に」
「港に着いたら何か腹ごしらえしなくちゃな、握りやパンだけでは満足できないよ」
「本と急いで引き上げて何かかき込まなくては腹が空いて如何にもならないよ」
「はい、分かりました、急いで引き上げましょう」
多恵さん又ナビゲーションのお友達になる。
小木へ戻り平野や山の道を抜けて行く。これはこれで爽快だ。もう稲はどこも刈り取られ木々には赤い柿の実がたわわになり、収穫の日を待っている。
「ここは柿も有名だと書いてあったけど、それが渋柿なのかそうでないのか分からないままに帰らなきゃならないのね」多恵さんがさけぶ。
「そうね、柿の種類までは分からないわ、渋柿だったら加工すんのよね」野口さんが答える。
「わたし、あんぽ柿が大好きなの。ここはそれを作っているのかしら」
「あんぽ柿か、少し早いと思うけどお土産用に売ってるかもね」
「早いとわたしも思うけど、あったら是非欲しいなあ」
「でも柿が成ってるのって好いわねえ、画家としては心惹かれるものがあるわ」
「そうです、柿の木自身が魅力的だと思いませんか、わたし柿の木自体が好きなんだなあ、内の近くに柿の木があったら、是非描かせてもらいたいと思ってるんだけど、かってあった木も皆切られちゃって全然見当たらないんです。もっと早く交渉すべきものだったんですね」
「柿の木なんて昔は珍しくない木だったから、用地の為に切られてしまって無くなって気が付くのねえ、あ、あそこに合った柿の木無くなったんだとね」
「柿の木描くためにわざわざ田舎の方へスケッチしに行くのも大袈裟かなあ」
「うん、余り聞かないわねえ、柿の木をスケッチしに行ったなんて」
「でも、柿の実が殆ど取られて少ししかなってない木が一本だけぽつねんと立ってるなんて、深まりゆく秋をしみじみ感じさせるし、これまで歩いてきた自分の歩みを考えさせられるわ」
時折車がガクンと揺れる。
「ここいら雪が積もるから道路も傷みやすいわね、目覚まし代わりにはなるけど注意が必要よ」
「ええでももう少しでトキがいる辺りまで戻って来たわ」
「そうなんだ、いよいよ佐渡ともお別れの時が近づいたのねえ。どこも景色が素晴らしくて描きがいが合ったわ、ちょっぴり立ち去りがたく感じられるわ」
「ええわたしも、どこへ行っても素晴らしい眺め、ああいうのを毎日描いてたらきっとスケッチの腕上がるわね」
「あ、今トキが、トキが見えたわ」
『あ、もう一匹、きっとつがいね、羨ましい」
「でも鳥だから一匹じゃなくて一羽って言うべきよね」
「まあ良いじゃないの、一羽でも一匹でも。最後にもトキに合えてラッキーと言うべきだわ」
湖が見える。本当に両津港に戻って来たんだ。
「ほんとに港はすぐ近く、もう少しの辛抱です」
「ええ、今日は本当にご苦労さん、みんなになり代わって礼を言うわ」野口さんが言う。
「本当に今日はごめんなさい、何から何までお世話になりっぱなし」済まなそうな国谷さん。
「わたしは最初から最後までみんなに頼りっきり」最後のもう一人はもっと小さくなって言う。
「わたしももっと早く運転変わるの申し出れば良かったのに、昨日は疲れもあったのね国谷さん」
「そう言うふうに取ってくれたら嬉しいけど、でもわたしもはめを外し過ぎたのよ、絶対に」
車の中に笑いが起こる。
「先ず着いたら、車の返却しなくちゃならないわ」
「うんそれ大事」
遂に車両は両津港に帰ってきた。やれやれ多恵さんのお役目もここ迄。国谷さんとそれぞれの車の責任者が車の返却しに向かう。
腹ペコさんの胃袋を満たしたら、さていよいよお土産を選ぶ時がやって来たようだ。
みんなで両津港ビルの中にある土産店を見て回る。
「やはりいご練りは買うべきよね」
「そうね上げる人が居なくても自分で食べればいいんだし買って損はないと思う」
「うーん、やっぱりおけさ柿は加工用でまだ手に入らないみたい」
「でもそれが入ったケーキはあるわ」
「あこれね、これはこれはベースがチーズケーキよ、わたしこれにするわ」
「あらわたしもそれにする,美味しそうじゃん」
「わたしもええっと5個貰うわ」
「一人で5個も食べるの?太るわよ」
「一人で食べる訳ないでしょう、まあ2個は我が家用だけど後3個はお土産ね。それに宿で頂いたお酒が美味しかったので、2種類4本ずつ。それに佐渡の人のソウルフードのいご練りも添えれば完璧なるお土産よ。え、ホシイカ?それも絶対好評を得るの間違いないわ。それも頂くわ」
「良いわねえお土産待ってる人が多くて、わたしは隣のおばさんしかいないわ」
「そうそう、だから甘いものばっかりよ。うん、これで太るなと言う方が無理と言うものだねえ」
「あら、お酒は買わないの?あのお酒、気に行ったんじゃないの」
「あー、お酒はこりごりよ、暫くは禁酒よ、禁酒」
「わたしも禁酒。でもイカは美味しそう、晩御飯のおかずにももってこいだわ」
「男性諸君は結構お酒買ってるわ、男性諸君も酷く酔ってたはずだけど」
「喉元過ぎればって言うからね。それに二日酔いでも又直ぐ飲みたくなるのがお酒好きの悪い習性と言うものよ」
「わたしは肉食が好きなの、このサラミが断然好いわ、これとこれ、2種類貰うわ」
「えーそう、本とこれ好いわ、わたしも貰うわ」
「わたしもお願い」「わたしもね」
多恵さんも勿論購入。
「さあて皆さん、お土産買って宅急便頼む人は早く頼んで。そろそろ乗船の時が迫って来たから」
久しぶりに国谷さんの声が響く。
荷物を持って船に乗り込む。向こうに着いたら懐かしき我が家が待っているのだ。
多恵さんの傍にお父さんが立つ。
「もうお酒は堪能したから要らないって言いに来たの」
「じょ、冗談じゃない、あれはあれ、これとは全く酒そのものが違うんだよ。あの新潟生まれの兄ちゃんに是非もう一度約束して欲しいんだ」
「本とに酒飲みって死んだ後もこうだから困るのよねえ、兎も角もう一度頼んでおくわ」
「へへへ」
父の嬉しそうな顔。多恵さんの呆れ顔。母はこんな父が好きだったなんて信じられない。
「ねえ関根さん、わたし、少し前、何とか寒梅と言うお酒頼みましたよね」
「ああ、何とか寒梅ね、ちゃんと覚えていますよ。でももう要らなくなったって事?」
「違うの、改めて頼んで来たのよ、その人が。念を押すようにって」
「そりゃ大変だ、忘れないように親父に言わなくちゃあいけないな」
「本当に迷惑かけて申し訳ないわねえ、お父様には宜しくお願いしますとこの私目が頼んでいたと伝えて下さい」
「うん、我が美術会の中でも1,2を争う美女が頼んだと言っておくよ」
「まあ、とんでもない1,2を争う美女だなんて。お父様に顔を見られなくって良かったわ」
周りがどどっと笑う。
「でも、若い時の河原崎さんならダントツ一番と言っても嘘じゃなかったなあ」
「うんうん俺もそう思うよ、今だって本とに綺麗だけどさ」
「そうそう、あの哲学の教授が現れなかったら、俺がプロポーズしたかったなあ」
「でもさあ、金がないのにプロポーズしたってなあ、二人とも日干しになちゃうぜ、さっき買ったホシイカよりもっと干からびた干物の出来上がりだよ」
船が新潟港に到着。もうすっかり夜の世界だ。そこから新幹線にお乗り換えだ。
多恵さん我が家に無事帰ってきた。
「ただいまあ」
ドアを開けると、真理ちゃんのお出迎え。
「お帰り、佐渡は楽しかった?」
「ええ、色々あったけど楽しかったし、収穫も沢山あったわ」
「トキにはあえた?」
「ああトキねえ、合ったわよ行った時と帰る時2回ね」
「わあ運が良かったのねえ、さあ早く荷物を下ろして着物も着替えて座りなさいよ。お父さんが美味しい夕食を準備中だから」
我が家が何と言っても一番だと多恵さんは改めて深く感じた。
続く お楽しみに