第七話
それから一ヶ月程が経ち、ようやく結婚式(契約)の日取りも決まったところで、ついに彼の家……、ロディン公爵邸へと出立する日を迎えたのだけど。
「あら?」
どうして貴方がここに、と尋ねるよりも先に、彼……エリアス・ロディン公爵様は口を開いた。
「仕事を切り上げてきたんだ。君を、迎えに行こうと思って」
(……うわ)
そう爽やかな笑みを湛えて言う彼とは裏腹に、私は少し引いてしまいそうになる。
(これも仲良しアピール、というものなのかしら)
契約内容に書かれていた内容を思い出しつつ、いや、私の邸でわざわざそんなことをする意味が分からない、という意味を込めて苦笑いで返す。
「ありがとうございます。ですが、そうお気を遣って下さらなくても結構ですのに。
後で邸でお会いできるのですから」
要するに、来なくても良かったのにということを遠回しに伝えたことに気が付いたのだろう、彼もまた苦笑いを浮かべて口にする。
「そうはいかない。何せ大切に育てられた君を親元から引き離してしまうことになるのだから」
「え?」
その言葉の意味がよく分からず首を傾げれば、後ろから彼に声をかけてきた人がいた。
「エリアス・ロディン公爵」
(……げ)
言わずもがな、お父様とそれからお兄様の登場に、私は振り返ることはせず無表情を貫く。
そんな私に反し、彼は胸に手を当て紳士的な笑みを浮かべて言った。
「フリュデン侯爵、アリス嬢を必ず幸せに致します」
(わ、わざわざ来てそんなことを言うの!?)
小説の中では見送りなし、勿論お迎えだってなしでしたけど!?
そんな私の心の叫びには構わず、後ろにいるお父様が口を開いた。
「……大切な私達の娘です。呉々も、不幸になどさせませんよう」
(は!?)
聞き捨てならない言葉に思わず振り返れば、お父様と目が合う。
そして、更にお父様は私に向かって衝撃の言葉を告げた。
「アリス、辛くなったらいつでも帰っておいで」
「……!」
それを聞いて、私の頭の中で“何か”が切れた。
「お父様」
私は淑女の礼をすると完璧な笑みを浮かべて言った。
「今までお世話になりました。魔力のない出来損ないの私を住まわせて頂けたことだけは感謝しています」
「アリス?」
お父様が戸惑ったように名前を呼ぶ。
その態度は私の神経をより逆撫ですることに気が付いていないのだろうか。
(まあ、良いわ。もうお別れだもの)
私は居住まいを正すと、きっぱりと口にした。
「ご心配には及びません。
私はもう、二度とここへ帰ってくるつもりはありませんので」
「っ、アリス!」
「さようなら」
「「!?」」
そう言って踵を返せば、彼の見開かれた氷色の瞳と目が合うが、私はすぐに視線を逸らし、停まっている馬車へと向かって歩き出す。
(振り返ることなんてしないわ。もう一生ここへは帰ってくるつもりはないもの)
そうして馬車に乗り込もうとした私の目の前に、スッと手が差し出される。
見上げれば、その手の主は他ならない公爵様で。
「……ありがとうございます」
私はそう口にし、その手を取ると、公爵家の豪奢な馬車に乗り込む。
すぐ後に公爵様が乗り込むと、馬車は静かに走り出した。
二人しかいない車内の中、暫くの沈黙の後唐突に前に座っている彼が口を開いた。
「君は……、フリュデン侯爵のことを、その」
「嫌いですよ」
「!」
言葉を濁す彼の代わりにはっきりと口にしたのに対し、彼は首を傾げた。
「どうして、そこまで?」
「一生分かり合えないからです」
「!?」
彼が息を呑んだのが分かる。
(そこまで驚くことかしら? 貴方も、その気持ちが分かるはずじゃない)
私は長く息を吐いた後、言葉を続けた。
「お父様にもお兄様にも優しくされたことなどありません。きっと、私のことをあちらも嫌いだからでしょう」
「そうだろうか」
公爵様の言葉に顔を上げる。彼は私をじっと見て言った。
「俺の目には、侯爵が君を蔑ろにしているようには見えなかったが。むしろその逆で」
「失礼ですが」
私は彼の言葉を遮ると、にこりと笑って言った。
「人の家の事情に、首を突っ込まないで頂けますか」
何も知らないくせに、という言葉は喉の奥でグッと我慢する。
それでも、私の怒りを感じ取ったのだろう。
彼は驚いたように目を見開いた後、僅かに視線を落とし、「すまない」と一言謝罪した。
私は息を吐き口にする。
「人それぞれ事情はあります。私にも、きっと貴方にも。
そして、私達はあくまで“契約結婚”なのですから、お互いのことには無干渉と致しましょう。
話したくないはことは話さないこと。それがお互いのためになるでしょうから」
私の提案に、彼は黙って頷いたのを確認してから続ける。
「それから、契約書を作成して頂きありがとうございました。全てに目を通して一通り頭に入れましたが、私の方からも先程のような契約内容の追加の提案を認めて参りましたので、後でお渡し致します」
「あ、あぁ」
「それともう一つ、お尋ねしたいことがあるのですが」
「何だ」
「公爵様の好みの女性の服装はありますか?」
「っ!?」
公爵様の目がこれ以上ないほど見開かれる。
(そんなに驚くことかしら?)
と疑問を浮かべていると、彼はコホンと咳払いをして口にした。
「ど、どうしてそんなことを?」
「公爵様の“お飾り妻”を演じるにあたって、洋服やドレスを新調したいのです」
「し、新調」
「あ、ご安心ください。お金は全て自分で出します。家にあった自分のドレスを全て売ったら、多少の金額は入りましたので」
「……全て売った!?」
「はい」
私が頷いたのを見て、彼は呆然とした様子で「道理で荷物が少ないわけか……」とどうでも良いことに納得していた。
そう、私は邸にあった自分のドレスをほぼ全て売却してしまったのだ。
(無駄にゴテゴテと派手なものが多くて、本当に趣味を疑ったのよね)
そこも悪女らしく、“飽きた”の一点張りで取捨選択をして、侍女に売却手配を頼んだのだ。
あまり期待していなかったというのに、予想外にも金額が入ったのだ。
(さすがは侯爵家、というべきかしら)
全てお父様が買っているはずだし、お金の面では甘やかされていたのだろうなとは思った。
そして、新しく無難なものを適当に見繕おうと思ったのだが、ふと考えたのだ。
「公爵様の“お飾りの妻”を演じるに相応しい格好をしなければと思ったので」
「!」
そう、小説中のアリスは自分の好きな服を着ていたのだけど、どれもあまり趣味が良いと言える服ではなかった。
それももしかしたら、彼の気に障っていたのではないかと考えたのだ。
「私は流行に疎いので、自分で選ぶよりも公爵様に選んで頂いた方が良いのではないかと」
「だがしかし、俺も流行には、ましてや女性の服装に関しての知識は皆無に等しいと思うが」
その答えを聞いて頷いた。
「分かりました。では、とりあえず一人で決めたいと思いますので、ご存知のブティックまたはデザイナーをご紹介頂けますでしょうか」
「……それなら、俺も一緒に行こう。君のことも紹介したいし。それでも良いだろうか?」
「はい、公爵様がお望みならば」
私の返答に、彼は「ありがとう」と礼を述べてから言葉を続けた。
「それと、俺からもう一つ頼みがある」
「はい、何でしょう」
「呼称を変える、もしくは敬語を外すのはどうだろうか」
どうしてそんな面倒臭いことを?と一瞬考えた後、あぁ、とその意図に気付き答える。
「確かに、契約とはいえ結婚するのに、いつまでも“公爵様”とお呼びするのは良くないですね」
「あぁ、不自然だと思う」
彼の言葉に考える。
(敬語を外すのは馴れ馴れしいわよね。あくまで契約なのだから、適切な距離は保っておくべきよ)
そう結論付け、「では」と口を開いた。
「これからは、“エリアス様”とお呼びしますね」
「あぁ」
「では、エリアス様も私のことを“アリス”とお呼びください」
「……“アリス”」
呟かれた名に、私は僅かに目を見開いた後、「はい」と返事をすると、彼が私を見て言った。
「改めてこれから宜しく頼む」
「はい、エリアス様」
私も彼の瞳をまっすぐと見つめ、頷いたのだった。
こうして私の、“一年間の契約結婚”は幕を開けたのである。