第五十五話
ロディン公爵夫妻を見送った後、不意に私の前に降り立ったその姿を見て、私は信じられない光景に目を疑った。
「……ク、ロ……? クロなの?」
クロは答えない。けれど、代わりに嬉しそうに尻尾をブンブンと横に振る姿が答えだと分かり、驚く私の頭に不意にお母様の声が届く。
『魔物に実体はない。だから、魔法使いの魔法が当たっても彼らは魔界へ還されるだけなの』
「っ……」
つまり、クロは私を庇ってくれたけど死んでいなかった、ということになる。
嬉しくて思わず抱きしめようとしたけれど、それよりも先にクロの身体が輝き出して……、その光が淡くなったのと同時に、やがて一人の女性へと姿を変える。
その姿は、以前フリュデン侯爵邸にある肖像画で見た、まだ赤子だった私を見つけてくれた……
「……おかあ、さま?」
お母様は嬉しそうに頷く。
その姿を見て、別れ際、女神様にかけられた言葉を不意に思い出す。
―――どうか忘れないで。あなたは皆から愛されているということを。
「う、ぅっ……」
「……アリス」
耐えきれず泣きじゃくる私の肩にエリアスの手が乗る。
せっかく会えたのだ、泣いている場合ではないと必死に涙を堪えながら、もう一人のお母様を見上げて涙声で言葉を紡ぐ。
「ずっと……、私を、見守ってくださっていたんですね」
お母様は微笑み頷く。その温かな表情に自然と笑みが溢れながら、ずっと言おうと思っていたことを口にした。
「私を、フリュデン家の……、家族の一員にしてくれて、ありがとうございました。
それから……、何度も、助けてくださって、ありがとうございました」
思い浮かぶのは、私を助けてくれたクロの姿。
小さな身体で必死に守ろうとしてくれていたのは、私を守ろうとする母としての行動だった。
そう思うと、何度お礼を言っても言い尽くせないし、もっと伝えたいことがあるのに言葉が上手く出てこなくて歯痒い思いでいる私に、お母様は口だけ動かして言った。
『アリス』
「っ、はい」
たとえ声は聞こえなくても、私の名前を呼んでくれたことが分かって頷いてみせると、お母様は嬉しそうに笑って口にした。
『大好きよ』
「……! はい! 私も、大好きです……!」
お母様は満足そうに笑い、私に向かって手を振ると、エリアスに向かって小さく頭を下げて天に昇って行ってしまう。
「無事に天に還った人達は、未練が消えた証拠。
そうしてまた、新たな命に生まれ変わるんだよぉ」
ノア様は息を吐きながら、「久しぶりに力を使いながら威厳を保とうと気を遣っていたから眠たくなってきちゃったぁ……」と眠い目をこする。
そう呟いたノア様に向かい、女神様が声をかけた。
『ノア、お疲れ様。後は魔物達を連れて帰ってゆっくりしてちょうだい』
「うん、そうするよぉ。……あ、でもその前に」
ノア様は私達に向かって言葉を発した。
「この通り、魔物は怖い存在じゃない。
だから、どうか恐れないであげて。
もちろん、悪いことをする魔物達にはボクからちゃんと言い聞かせておくから安心して。
……キミ達も、分かっているよね?」
「!」
その言葉と共に、後ろを振り返るように目深に被ったフードの中の瞳が怪しく光ったのは……、きっと見間違いではないと思う。
(ノア様は、普段温厚な分怒らせたら怖いタイプ、なのかもしれない……)
元の魔物の姿に戻った人々もそれを感じ取ったようで、なんとなくノア様から後ずさる。
ノア様はというと、何事もなかったかのように朗らかに笑い、「それじゃあ」と片手を上げる。
刹那、黒い靄が発生し……、靄が晴れた頃にはノア様も、魔物である亡くなった人々の姿もそこにはなくて。
「今のは、夢……?」
誰かがポツリと呟いた言葉に、天からの声は続く。
『夢ではないわ。これは現実よ。
魔物達と戦ったことも、“失われた歴史”も、魔物達の真の姿をあなた方に見せたことも。
全てが現実であり、全てが真実。
あなた方が受け入れ、生きていくべき運命よ』
お母様は、『そのためには』と少し間を置いてから静かに口にした。
『まずは、この惨状を元通りにしなくては。
……この状況を招いてしまった決定的な要因は、私達神が人間と魔物との間に壁を作ってしまったことにあるのだから』
お母様がそこで言葉を切ると、不意に甘やかな花の香りが鼻を掠めた。
『アリス。よく見ていてね。
これが、花の女神として……貴女の母としての力よ』
「え……?」
それは、私だけに聞こえたお母様の言葉のようで。
驚き空を見上げた私の視界に映った空の色は、桃色と緑色の暖かな魔法の光に染まっていく。
何が起こるのかとどよめく街いっぱいに、お母様の心地の良い声が響き渡った。
『神々を代表して、花の女神が大地に祝福を授けましょう。
元あるべきものは元通りに。
大地はより豊かな地に。
平和な地にこそ草木は芽吹き、やがて花を咲かせるでしょう……』
まるで御伽噺を紡ぐかのように、唄うように唱えていく女神様の呪文の言葉に世界は応え、魔法の光と共に鮮やかに色付いていく。
魔物との戦いによって壊れていた建物や石畳は元通りに。
最も花が咲かない季節で何もなかったはずの土には花や植物が。
そして岩肌が目立っていた遠くの山は、青々とした緑に染まっていく……。
『私達花の女神が神々の頂点に立つことを許されているのは、“癒し”の力のおかげであり、その力こそが平和の象徴とされているから。
……戦意を失わせることや、土地だけでなく元あったものを“再生”することすらも可能なその力は、万能であると同時にとても大きく特別な力なの』
私と、それから隣で息を呑むエリアスの頭にだけ響くその声が聞こえているかのように、人々が歓声を上げる。
女神様は言葉を続けた。
『だからこの力の担い手は、間違えないように使わなければならない。
あなたが試練を受けさせられたのには、そういう理由も含まれていた』
「そう、なんですね……」
『そしてあなたは、自らの運命を魔法ごと受け入れた。
だから私は、やはりあなたこそがこの力の担い手に相応しい……、この世界をあるべき姿へ導いていける力があると思うの』
「え……」
女神様の意図している意味が分からず尋ねようとした刹那、女神様の声が雲一つない青空に響き渡る。
『今こそ失われた歴史のやり直しの時。
今度こそ道を違えることがないよう、花の女神の名の下に選ばれし者達に祝福を授けましょう』