第三十五話
その日の夜。
深呼吸をして共同寝室の扉をノックしてから部屋を開ければ、そこには既にエリアスがいて。
「ごめんなさい、私から約束を取り付けておいて待たせてしまって」
「そんなことは気にしなくて良い。俺も今仕事をしていたところだからな」
そう言って手にしていた紙の束をまとめながら笑うエリアスの気遣いに感謝しながら、私も小さく笑みを返すと、扉を閉じてベッドに座る彼の元へ歩み寄る。
そして、隣に座ろうとした私に、エリアスが悪戯っぽく笑って言った。
「ここに座るか?」
「……!?」
ここ、とエリアスが示した場所は、彼の膝の上で。
思いがけない言葉に慌ててしまう。
「こっ、この時間にその距離感はまずいでしょう!?」
「何がまずいんだ? 俺達は夫婦じゃないか。
それも、両想いなのだから良いだろう?」
「〜〜〜っ」
静まり返った夜に二人きりという空間だからか、妙に艶っぽく聞こえて。
確かにエリアスの言う通りだけど、と迷う私を見て……。
「っ、ふふっ」
肩を震わせ笑い出すエリアスを見て、信じられない思いで怒る。
「かっ、揶揄ったの!?」
「まあ、そうだな。半分は」
「は……!?」
ではもう半分は一体、と尋ねるのは憚られ、誤魔化すように隣に座った私に、エリアスがポツリと呟く。
「……まあ、この距離感でも理性は十分試されているが」
「っ!?」
あまりにも心臓に悪すぎる言葉にバッと耳を押さえて見やれば、エリアスがさらりと髪を揺らして言う。
「だから君も、たとえ俺に対してでも出来るだけ無防備にならないでほしいということだ」
「……」
その言葉に少し考えてから口にする。
「……でもエリアスは、私の嫌がることはしない。そうでしょう?」
「!」
エリアスは私の言葉に固まった後、自身の前髪をかき上げて言った。
「逆に俺の気持ちを知っていてそういうことを言う君は、ずるいんじゃないか?」
「ふふ、私もそう思う」
「全く。アリスには敵う気がしないな」
苦笑交じりに笑うエリアスに私もクスクスと笑ってから、本題を切り出す。
「今日は私に付き合ってくれてありがとう。貴方がいたから、きちんと家族と向き合えたわ」
エリアスは私のお礼を受け止めるように微笑んでくれてから、私の手元を見やって言う。
「まだ、その日記は読んでいないのか?」
エリアスの言葉に小さく頷いてから、日記帳……お父様方からいただいたお母様の日記帳に目を落とす。
「やっぱり、一人で読むのは少し……、勇気が要って。
何が書いてあるか分からないから、怖くて。
だから、エリアスにも一緒に読んでもらえたらなって……」
知りたいけど、知りたくない。
そんな矛盾した気持ちを抱えながら口にした私に、エリアスが答える。
「無理もない。今までずっと、何も知らないまま生きてきたんだから。
急に誤解だったと言われても信じられないだろう。その気持ちは、俺にも痛いほど分かる。
だが今は、一人じゃない。俺も、君も、今共にここにいることが何よりの証拠であり、この日記のことも、君は俺を頼ってくれた」
そう柔らかな口調で紡がれる言葉に目を向ければ、彼は私と視線を合わせて言葉を続けた。
「断る理由などない。何を置いても、俺はアリスの願いを聞き、アリスの望む通りのことを叶えてやりたい。
アリスがその日記を俺と共に読んでほしいと言うのなら、俺も一緒に読もう。君の気が済むまで」
「……エリアス」
その言葉は、今の私にとってとても嬉しい言葉ばかりで。
エリアスはそれと、と更に言葉を続けた。
「その日記に何が書かれていようが、アリスはアリスだ」
「……っ」
私は私。
それは今一番、何よりエリアスに言って欲しかった言葉で。
耐えきれず涙が瞳から零れ落ちる。
エリアスはそんな私の目元を拭いながら笑って言った。
「なんだ、まだ日記の表紙を開いてすらいないぞ?」
「っ、エリアスが優しすぎるのが悪い……」
「そうか、俺のせいか」
エリアスはきっと、私の気を紛らわそうとしてくれていて、日記に何が書かれても傷つかないよう、味方だと言い続けてくれている。
そんな彼の気遣いが心に響いて、涙が溢れて止まらなくなってしまうのは不可抗力で。
「……エリアスは、やっぱり私に対して甘すぎると思うの。甘やかされすぎて、いつか私、駄目になりそう」
そう言ってぐりぐりと彼の胸元に頭を押しつければ、エリアスは笑ってその頭をポンポンと優しく撫でてくれながら言う。
「アリスは何事も頑張りすぎるところがあるからな。
せめて二人きりでいる時くらい、甘やかしたいと思う」
「……本当、あなたには敵わないわ」
「それはこちらの台詞でもあるが」
エリアスの言葉にそっと顔を上げれば、彼は変わらず笑ってくれて。
その笑みに見惚れている間に、エリアスの顔が近付いて……。
「ちょ、ちょっと待って」
「……なんだ?」
思わず彼の口を掌で覆えば、エリアスが少しだけ不服そうに尋ねる。
それを見て思わず吹き出しそうになってしまったけれど、堪えてから口にする。
「無防備にならない方が良いのよね?」
「……言わなきゃ良かった」
そんなエリアスの呟きにクスッと笑ってから、そっとその耳元に顔を近付けてある言葉を囁けば、エリアスは目を丸くして私を凝視して。
それ以上は突っ込まれないよう、話題を素早く転換する。
「さてと。気を取り直して、お母様の日記を読んでみても良い?」
そう笑みを浮かべて言えば、エリアスは先ほどの私の発言が余程聞いてしまったのか、顔を赤くさせたまま「あぁ」と小さく頷いた。
お母様の日記は、余命半年という宣告をされた日から始まっていた。
ベッドの上で何もせず一日を過ごすという生活が続き、もう一人子供が欲しいという希望は打ち砕かれ、日に日に容態が悪化していくことに、お母様はただひたすら日記の中でお父様とお兄様に謝っていた。
そんな心が締め付けられるページが続いていたけれど、あることをきっかけに日記の内容がガラリと変わる。
それが、“私”という存在を見つけたからだ。
『普段ベッドから起き上がることさえも出来なかったのに、その日はなぜだか誰かが私を呼んでいる気がした。
耳に届いた泣き声は、赤ちゃんのもの。
探し出さなければ、と制する声を振り切って走った。
今思えば、なぜその時走れたのか、声が聞こえたのか分からないけれど。
運命だと……、神様のお導きだと思った』
そうしてついに、まだ生まれたばかりだろう女の子の赤ちゃんを庭先で見つけた。
こんな場所に誰が捨てたのか分からない。
その人に対して腹が立ったけれど、小さな命を私が守らなければ。
それからのお母様の日記は、病状は日に日に悪化する一方だったはずなのに、生き生きとした文字に変わっていた。
内容はどれも、私とお兄様、お父様と過ごす日々が綴られていて。
だけど時は残酷なもので、お母様の日記は不意に途絶える。
それは、お母様の死を意味していた。
日記を読んでいただけなのに、どうしようもなく胸が締め付けられる衝動に襲われ、日記を閉じようとしたけれど、最後のページに何かが書かれているのを見つけて……、私とエリアスは息を呑んだ。
だって、それは……。
『あなたの名前はアリス。私の小さな可愛い娘。
不甲斐ない母親だけれど、あなたのことをいつも、いつまでも見守っているわ。
私達家族の元へやってきてくれてありがとう。
愛しているわ』
お母様から私への、最初で最後のメッセージ。
血の繋がりもなく、私の記憶にはないお母様。
だけど、どうしようもなく胸が締め付けられ、同時に温かな気持ちが広がっていくのは、きっと、お母様の字を通して私を本当に愛してくれていたのだということが伝わってきたから。
独りぼっちだった頃の記憶がなくなるわけではない。
けれど、私は“フリュデン侯爵家のアリス”として認められていたのだと。
そう今はもういないお母様の言葉に、救われた気がして。
エリアスの胸に顔を埋めてただ泣きじゃくる私を、エリアスはそっと抱きしめながら一緒に泣いてくれたのだった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
またまた別作品となり大変恐縮ですが、先日コミカライズをご紹介させていただいた『その政略結婚、謹んでお受け致します。〜二度目の人生では絶対に〜』がついに、第二巻として完結巻を、講談社様Kラノベブックスf様より刊行していただけることとなりました!
そして、第一巻に引き続きすざく先生に担当していただいた書影はこちらです↓
書籍化デビューをさせていただいたシリーズなので、とても感慨深いです(泣)
応援してくださる読者様のおかげです、本当にありがとうございます!
こちら、Xが最速、活動報告でも続報入り次第更新中ですので、是非お手に取って頂けたらとても嬉しいです…!