第三十一話
「ん……」
目が覚めたのは、月明かりが照らす部屋の中。
ハッと目を開ければ、自分が床にへたり込んでしまっていることに気が付く。
そのせいで、長い桃色の髪の毛がまるで花のように広がっている……、光景に既視感を覚えた。
(っ、これは)
既視感どころじゃない。
私、この光景を確かに知っている……。
そう感じた瞬間、まるで冷水を浴びせられたように身体が硬直する。
今すぐこの場から逃げたいと思っても許さないとばかりに、身体が金縛りにあったように動かなくて。
だというのに、そんな私の口から勝手に言葉が飛び出る。
「どうして、愛してくれないの?」
自分の口から発せられた言葉で、確信に変わる。
……そうだ。私、全部知っている。
この後に“彼”の口から……、今、私の目の前にいるであろう発せられる言葉を。
「そんなことも分からないのか」
(あぁ、やっぱり)
このやりとりは、間違いなく記憶の中にある。
だって私は、“アリス”だから。
確認するため、顔を上げる。
そして、目の前にいたのは氷色の瞳でこちらを見下ろしている“彼”……。
(……エリアス)
この後、私から紡がれる言葉は……、分かっているけれど、今は違う。
(もう私は、アリスであっても悲劇を生んだアリスではない)
だから、笑ってみせた。
自分の心を叱咤するように、悪女を演じる。
そんな私を見て目の前にいる“彼”は驚いたように目を見開いた。
それだけで、優越感に口角が上がる……わけがない。
代わりに込み上げてきたのは、はっきりとした怒りだ。
「あなたは一体どちらさま?」
「は……?」
出来るだけ落ち着こうと思ったけど、発せられた声音は自分でも驚くほど冷え切ったもので。
私の言葉に眉間に皺を寄せる姿は、確かに見た目だけはエリアスにそっくり。
だけど。
「私が愛したエリアスは、あなたなんかじゃない。
その身体を返して。勝手に“彼”の身体を使うなんて不愉快極まりないわ」
今度こそ笑顔を消し、怒りを露わにした私の言葉に、紛い物である“彼”は笑みを浮かべると、エリアスそっくりな容姿と声のまま言った。
「さすがはアリス。よく本物じゃないと気が付いたな」
「簡単なことよ。こんな悪趣味な場面をわざわざ再現してくれるなんて、フェリシー様の時と同じように人の心に入り込む“魔物”の仕業としか考えられないわ」
「悪趣味、か」
「っ!」
顔に影が差す。
エリアスの外見を模っている魔物と分かっていても、記憶の中にある場面と重なり、一瞬怯んでしまった隙に魔物が私の前で膝をつき、顔を覗き込んで笑う。
その笑みがエリアスの顔だからかゾッとするほどに美しくて。
「そういう割に、震えているようだが」
「……!」
顔に手を伸ばされる。
それがエリアスの顔にも拘らず、ゾワッと全身の毛が逆立つのは、本物のエリアスではないからだ。
(っ、いや……っ!)
避けられない! と目を瞑ったその時。
「こんな偽モンに惑わされてんじゃねぇよ」
「っ!」
パシッと腕を取られ後ろに引かれたと同時に耳に届いたのは、口の悪いよく知る声……、今度は本物の俺様神様のものだった。
「ソール……」
「ったく、なんて面してんだ」
「いたっ」
こんな時までデコピンを喰らわしてくるソールにムッとしたものの、冷え切って硬直していた身体に血が巡り、温かくなっていくのが分かって。
「落ち着いたか?」
「……えぇ」
深呼吸を数度繰り返して頷けば、ソールも頷きを返してから魔物に向かって口にする。
「ま、確かにこれは心乱されんのも無理ねぇわ。
ほんと、悪趣味というか害悪以外の何物でもねぇ。クソすぎて反吐が出る」
そう吐き捨てるように口にするソールの言葉に、思わず笑って賛同してしまう。
「そうよね、やっぱりクソすぎて反吐が出るわよね」
「……さすがにその言葉遣いはやめろ、今のお前は一応公爵夫人なんだから」
「ここだけよ」
「エリアスの前でも言わなそうだ」
「そうね。幻滅されはしないと思うけど、エリアスの前でこんな汚い言葉遣いを使いたくないわ」
と笑って言えば、ソールは渋い顔をした後魔物を見据えて言う。
「それで? 人の精神の中に勝手に入り込んでお前は一体何が目的だ」
「目的? 決まっているだろう」
相変わらずエリアスの容姿を保ったまま、魔物は迷うことなく私を真っ直ぐと指差して言う。
「その女を排除するために決まっているだろう?」
“彼”のものでないと分かっていても、心のどこかで傷ついている自分がいるのを誤魔化すように、悪女を演じて答える。
「排除? この私をこんなお粗末なやり方で排除しようとするなんて、私も舐められたものね」
「……何?」
魔物の口調に緊張が走る。
その調子よ、と心の中で笑いながらあえて挑発を続けた。
「だって人が眠っている最中に寝首をかこうだなんて卑怯だとは思わない?
それってまるで、女神様と同じ魔法を操る私が怖いみたいではないの」
「そんなわけがないだろう!」
「そう? なら、正々堂々勝負しましょう?
精神世界ではなく、現実世界でね」
私の言葉に、悪魔は少し間を置いてから答える。全ては私の、目論見通りに。
「良いだろう。一ヶ月後、お前達魔法使いと今度こそ決着をつける。
そしてお前を、必ず排除する」
「ふふ、お手並み拝見ね。望むところよ」
一ヶ月後。
魔物の口から言質を取った私の視界が揺れる。
ソールが私の手首を握ってくれているおかげで、なんとか持ち堪えていた私の耳に、魔物であるエリアスの声が耳に届く。
「その言葉、忘れるなよ」
「ん……」
決して爽快といえない混濁する意識の中で目を覚ます。
外はまだ薄暗く、遠い空が微かに明るいところを見るに、もうすぐ日が昇ろうとしている頃だとぼんやりと思った、その時。
「アリス」
「……!?」
まさか。ここにいるはずのない声に危うく悲鳴を上げかけた私の口を、その人に慌てたように塞がれる。
「しーっ」
「……っ」
口に触れた感触に思わず身体を強張らせてしまうと、氷色の瞳を持つ彼……エリアスは、ハッとしたように手を離し、眉尻を下げる。
「すまない、怖い思いをした後だったな。
ソールから全て聞いた。連れてきてもらったんだ」
私に諭すように話す、柔らかな声や雰囲気、そして瞳の奥に熱を宿す氷色の目……。
「エリアス、なのよね?」
「あぁ、俺だ。……ソールの瞬間移動魔法で誰にも言わないで来たから、あまりここにいることは出来ないが」
申し訳なさそうに言う彼は、確かに紛い物でない本物のエリアスで。
ブンブンと首を横に振ってから、耐えきれなくなった私は……。
「っ、エリアス……!」
「わっ」
エリアスに縋り付くように抱きつき、彼の胸に顔を埋めて子供のように声を上げて泣いてしまう。
「っ、ごめん、守ると言いながら守れなくて……。本当に、ごめん」
何も悪くないのに、私を想ってくれているのが痛いくらいに伝わってくる涙交じりの悲痛な声は、紛れもないエリアスのもので。
そんなことない、と言おうとしても、言葉が上手く口に出来なくて。
ただ首を横に振って泣くことしか出来ない私の頭を、エリアスの大きな手が何度も撫で、きついくらいに抱きしめてくれたのだった。