第六話
……って。
(私は一体何をしているのかしら……)
思わず遠い目になりかけながらも視線を逸らすことなくその小さな生き物……ではなく子犬の見目をした魔物の後ろ姿を追っていた。
魔力を持たない平民には魔物の姿が見えない。
それを良いことに、悪さをすると言われている魔物から目を離すわけにはいかないと追ってきたは良いものの。
(これでは、ただ犬と散歩している飼い主よね……)
そう、私の心配は杞憂だった。
なんでも、その魔物は太陽の下を楽しそうに歩き、道端で咲いている花を見れば近寄ってその匂いを嗅ぎ、少ししたらまた歩き出す。
そんな風に、私が知っている犬の行動と何ら変わらない仕草で歩いているのだ。
(ただし、他の犬と違うことといえば、身体から放出され続けている魔物特有の青白い光、なのよね……)
でもそれ以外ではやはり、とてもではないけれど人々に危害を加えるようには見えない。むしろ……。
「ふふっ」
楽しそうにブンブンと小さな尻尾を振りながら歩いている姿を見て思わず笑みを溢すと、その笑みが聞こえたのか子犬はふと立ち止まり私を見上げる。
その円な瞳を見て、やはりどうしてもこの子が悪さをするようには思えずにいた、その時。
「あ、わんわんだ!」
「!?」
そう口にした四、五歳くらいの男の子が私の横をすり抜け、魔物目掛けて走って行く。
(……わんわん!?)
それは間違いなく、魔物である子犬のことを指しているのだと分かって。
子犬の見た目をした魔物も嬉しそうにパタパタと尻尾を振る。
そうして子犬めがけて一直線に走って行く男の子の姿を見て疑問に思う。
(ちょっと待って、なぜあの子には魔物の姿が見えているの……?)
あの子にも魔法の力があるというのだろうか。
でも、その時点で魔物に近付くなと教わるはずでは、と戸惑いどうすべきか迷っている間に、その男の子の身体が不意にグラリと揺れた。
「っ、危ない!」
手を伸ばすも虚しく、その子は地面に倒れ込む。
大丈夫? と私が声をかけるよりも先に、その子のお母さんらしき人がその子に駆け寄って声をかけた。
「大丈夫!? 血が出ているわ……、すぐに手当てをしないと」
そう言って男の子の身体を抱き上げたお母さんに向かって、男の子は泣きながら口にした。
「いやだー! わんわんとあそぶのー!」
「わんわん? ワンちゃんの姿なんてどこにもないけれど……、まさかあなた魔物の姿が見えるの!?」
「まもの……?」
お母さんの言葉に男の子はキョトンとしたような表情をするけれど、お母さんの顔色は変わり、すっかり青ざめていた。
「そうよ、きっと怪我をしたのも魔物の仕業に違いないわ! 早くここから離れないと!」
「ちがうよ、ぼくはかってにころんだだけで」
「それが魔物のせいなのよ! よしよし、痛かったねぇ」
戸惑う男の子の頭を撫でながらかけたお母さんの言葉。
それは、魔物のせいで男の子が怪我をしたのだという意味であるけれど……。
(違う。確かに魔物は近くにいたけれど、魔物は何もしていない)
今までの魔物なら、明確な敵意を向けていたはず。
だけど、お母さんに見えていない魔物は……。
「……くぅーん」
引き攣った顔で辺りを見回しながら、足早に去って行く彼らの姿を見て悲しげに尻尾を下げる魔物の姿で。
(……やっぱり、どうしてもこの子が誰かに危害を加えるようには思えない)
それに、男の子のお母さんの言動にも違和感を覚えた。
いくら魔物の姿が見えないからと、ああいう風にいつも悪いことがあったら魔物のせいだと子供に教えるのだろうか。
(見えないものを恐れるのは、間違いではないし誰しも普通に抱く感情でもある)
それは分かっているけれど……。
「あっ」
突然魔物が走り出した。
その後ろ姿を今度は迷うことなく追いかける。
そんな私を周囲は何事かと驚き見やる視線を感じるけれど、今はそんなことよりもあの子から目を離してはいけない、そんな気がして。
(待って……!)
緩むことのない速さに段々と疲れを感じながらも、何とかその小さな身体を見失わないように走っていた、その時。
「危ない!」
「え……」
不意に鋭い誰かの声が飛んできたと共に、馬のいななきが耳に届く。
ハッと顔を上げれば、私だけが道の真ん中にいて。
そして視界には、猛スピードで私の方目掛けて走ってくる馬車が映って。
(あ……)
フラッシュバックしたのは、前世クラクションを鳴らしながら迫ってきた眩いばかりの光を放つ車……―――
「わんっ!」
「え……」
動けずにいた私の目の前に躍り出たのは、他でもない魔物で。
その小さな身体が一際強い光を放ち、馬車全体を覆う。
すると、馬は少しずつ落ち着きを取り戻し、やがて私達の目の前で停車した。
「お嬢さん、大丈夫か!?」
馬を操っていた御者から慌てたように尋ねられた私は、言葉を返す間もなくその場に座り込んでしまう。
そんな私に近寄ってきた魔物は、円な瞳で私を見上げた。
その瞳から目を逸らせなくなっている私に、御者は慌てたように馬車から降りると私に向かって手を差し伸べた。
「どこか怪我をしたのかい!? 大変だ、今すぐ医者に」
「大丈夫です。驚いてしまっただけですから……」
チラリと魔物を見やりながら答えれば、御者は私を引っ張り起こしてくれながら口を開いた。
「すまなかった。不意に馬が何かに操られたかのように暴れ出してしまったものだから……、今までこんなことはなかったし、やはり魔物のせいなんだろうか」
「え……」
「お嬢さんも気を付けた方が良い。最近また魔物が出始めているらしいからな。とにかくすまなかった」
「……っ」
魔物のせい。
そう口にされ、反論しかけたけれど口を噤む。
(だって、この子の姿は誰にも見えない)
魔物は馬を操ったのではなく、私の目の前に立ち自ら助けてくれた。
そう伝えたいけれど、彼らには姿が見えないのだから私の言葉なんて誰も信じてくれるわけがない。
ここは黙るしかないと、庇えない自分にやるせなさを感じギュッと拳を握った、その時。
「こんなところで何をしている」
「「!?」」
聞き覚えしかない声にハッとし、後ろを振り返れば、そこにいたのは見たことのないほど不機嫌な顔をしている……。
「……エリアス」
紛れもない彼の姿があったのだった。