セミの声は宇宙(そら)へと
次の日、アリに運ばれるセミがいた。
母が言うには、まだ生きていたそうだ。
私はそれを見なかった。
その状態を説明する母の声を聞いただけで、確認をしなかった。
家の中は人のテリトリーだが、外は違う。
人智が及ばない場所。人間が何でもできると思っているのは、ただの傲慢なのかもしれない。それを思い知らされたくなかったのかもしれない。
だから目に入れないように素通りした。
ただ少し、思っていた場所とは違っていた。
それからしばらく経って庭を歩いていると、隣り合った紫蘭の葉に、セミの抜け殻がふたつあった。確証はなかったけれど、あのセミたちの抜け殻のような気がした。
彼らはここで生まれたのかもしれない。
一緒に育って、一緒に大人になった『友』だったのかもしれないし、そうではなかったのかもしれない。
たかが虫に、人が思うような友情などないかもしれない。けれど、私には偶然に思えなかった。私の前をぐるぐる飛ぶセミがいた。それはまるで、力尽きて倒れた友を、外敵から守るようだった。
そして、そのぐるぐる回るセミもまた、同じように力尽きたのかもしれない。
アリに運ばれていたセミは、私がほうきで履いたセミとは少し離れた場所にいた。
セミには羽があるから飛んで行ったのかもしれないし、アリが離れた場所まで運んで行ったのかもしれない。
後で知ったのだが、カチカチはやはりセミの声だったようだ。ひっくり返ったセミがカチカチ言っている動画があった。
その姿と私がほうきで履いたセミが重なる。
声が大きく、立派だったセミ。
梅雨明けに聴いたミンミンは彼の声だったのかもしれない。
ミンミンもカチカチも、とにかく大きな音だった。もしかすると、違うセミだったのかもしれないけれど、私には同じ音に聴こえた。どちらもいままで聞いたことがない程に、大きなミンミンとカチカチだった。
セミとしては、こちらのセミが強かったのかもしれない。そういうのは声の大きさで決まると聞いたことがある。昆虫に詳しいわけではないからそれがホントかどうかはわからないが。
とにかくホントにでかい声だった。音で敵を倒せるのなら、相当な数の敵を倒せただろう。私が聞いた中では伝説級の大きな音。クソうるさかったし、クソうるさかった。
しかし、彼が倒れた後、巨大な生物(私)から守ろうと、ぐるぐる飛んでいたセミ。
あのセミも勇敢だった。自分よりもずっと大きな生物から友を守ったヒーローのようなセミだった。彼は友を守ったところで力尽き、アリに運ばれたのかもしれない。
階段の上だったので、位置的に飛んでいたセミの方がアリに運ばれていたセミの可能性が高い。階段の下にアリの巣の出入口があるのを知っていたから、上に運んだのは無理がある気がした。
細かく調べたわけでもないから、どういうことかはわからない。
でも、家に入る時に聴こえたカチカチは、瀕死のセミの『俺にかまわず行け。お前は生きろ』だったのかもしれない。
そんなことを考えながら、ちょっとだけ妄想してみた。
それまでとても元気だったセミ。彼は声がバカでかく、異性にもモテたであろう。
そのセミも、とうとう命が尽きる時が来た。
外灯の明かりに誘われて、彼は人間の家の玄関の前に落ちた。
そこに人間が近寄ってくる。彼らにとって、味方ではない。
潰されるのを覚悟するセミ。
そこにやって来た友の姿。それはヒーローと呼ぶべきセミだった。
それを見たセミはカチカチと声を上げる。
「カチカチカチカチカチ。カチカチ、カチカチカチカチカチ」
しかし、無言で巨大生物(私)に挑むセミ。倒れたセミの上をぐるぐるぐるぐる回っている。
「カチカチカチカチカチ、カチカチカチカチカチカチカチカチカチ。カチカチカチカチカチ! カチカチ!」
瀕死のセミはひっくり返ったまま、カチカチという声を上げた。カチカチと必死に叫び、飛んでいる友を制止した。けれど友は止めなかった。巨大生物の前をぐるぐると回っていた。
そして巨大生物は逃げ去った。
「カチカチ、カチカチ。カチカチカチ! カチカチカチカチ。カチカチカチカチカチカチカチカチ!」
それを聞き、安心たように地面に落ちるセミ。
「カチカチカチカチカチ! カチカチカチカチ! カチカチ! カチカチ! カチカチカチカチ! カチカチカチカチカチカチ!」
「カ チ カ チ 、カ チ カ チ カ チ カ チ 」
瀕死になっていた強いセミと比べると、小さな声だった。小さくて弱々しい声だった。ヒーロー蝉は、はじめからヒーローだったわけではない。元々はとても弱いセミだった。強くて声が大きなセミに隠れているような、そんな弱いセミだった。
「カチカチカチ!」
「カ チ カ チ カ チ カ チ、カ チ カ チ カ チ。カ チ カ チ カ チカ チ カ チ……」
「カチカチカチカチカチカチ。カチカチカチカチカチカチ」
「カ チ カ チ カ チ カ チ カ チ カ チ、カ チ 」
記憶の中の元気なセミ。それは彼にとって眩しすぎた。
眩しすぎて手が届かないと思える程だった。
「カチカチ……、カチカチカチカチ」
はじめに落ちていたセミがカチカチ言う。
「カ チ カ チ、カ チ カ チ カ チ カ チ カ チ……」
命の灯が消えそうな、そのカチカチという声すら巨大な音だった。
「カチ、カチカチカチカチカチ。カチカチカチカチ」
怒ったように言うカチカチは、まだまだ飛べそうな響きがあった。
「カ チ 、カ チ カ チ カ チ……」
しかし、彼を守ろうとしたヒーローは、本当に飛べそうになかった。
「カチカチカチカチカチカチカチカチ!」
「カ チ 、カ チ……」
息をのむセミ。
「カ チ カ チ カ チ《一緒にいたのに》、カ チ |カ チ カ チ カ チ《置いて行くなんて》……
カ チ カ チ カ。カ チ、カ チ カ チ カ チ」
「カ チ カ チ? カ チ カ チ カ チ」
それまで無駄に元気にカチカチ言っていたセミに、ヒーロー蝉は聞いた。
「カチカチ、カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ……」
二匹のセミに、生まれてからずっと一緒だった記憶が蘇る。
「カ チ 。カ チ カ チ カ チ カ チ」
「カチカチカチカチカチカチ。カチカチカチカチカチ、カチカチカチ」
「カ チ 、カ チ カ チ ……」
そう言って、ヒーロー蝉は、目を閉じた。
「カ チ ……、カ チ カ チ……」
彼らの頭上には、満天の星空が広がっていた。しかし、彼らに、それを見ることはできなかった。
「カチカチ、カチカチカチ……」
「カ チ カ チ……」
「カチカチカチカチ……」
やがて、カチカチという音も、聴こえなくなった。
夜が明け、セミたちは小さなアリに運ばれる。
もう声を発することもできなかった。
(カチカチ……、カチカチカチカチ……)
( カ チ ……)
その想いは、その絆は、永遠に紡がれる。
それは、ただの私の根拠のない妄想。
でもそんな物語が浮かんだ。
喜びも悲しみも共に味わったセミたちは、お互いを気遣い合って、共に逝ったのかもしれない。
死して他の生き物の糧となる。
食物連鎖の中で生きる。
自然とは、人が思うよりも、はるかに大きい。
理解できていると思うのは、ましてやそれを制御できると考えるのは、浅はかなことなのだろう。
そんな気持ちにさせられた、ある夏の日の出来事。