最後の一押し
「我々は隠れ里に住む民だが、それでも情報を得る方法はいくつもある。あの子のことも、この村の秘密を話さないか、秘密裏に監視していた。あの子はこの二年間、冒険者として修行を積み、剣士としても冒険者としても一人前の実力を持っている。今なら、この村の記憶を無くしても、立派に生きていける」
森の民の長はそう言った。
違う――とルシアナは思った。
森の民の長は、ここの人たちは、キールが村の秘密を話すだなんて微塵も思っていない。
彼らがキールのことを見ていたのは、本当に彼が一人で村の外でやっていけるか不安だったからだ。
森の民の見張りをしていた男がキールを追い返そうとしていたのは、村の掟がどうとか関係ない。
彼が帰らなければ、キールが罰を受けるとわかっているからだ。
さっきから森の民の長がキールのことを「あの子」だと言っているのは、キールのことを自分の子供のように思っているからだ。
だから、ルシアナは言わないといけない。
「その記憶を消す薬を飲んでも、絶対にキールは幸せになんてなりません」
「なぜ、シア殿はそう言い切れる」
「私は知っているからです」
ルシアナはずっと不思議に思っていた。
前世で出会ったキールと、この世界の彼があまりにも違うことに。
この世界のキールは優しかった。
自分を育ててくれた森の民のために、自らが罰せられる覚悟とともに、ルシアナを攫った。
それは許せないが、しかしルシアナは彼の森の民を想う気持ちに共感し、彼と共に行動することに決めた。
しかし、前世で見たキールは違った。
彼は――何もなかったのだ。
ルシアナを刺したとき、キールは笑っていた。だが、その目の奥は全然笑っていなかった。感情が全く読み取れなかったのだ。
一体、何があったら、この優しいキールがあんな無感情になるのかと思ったが、ようやくその理由がわかった。
「キールさんは優しい人です。その理由は、森の民の人たちと――あなたたちと過ごした十五年間があったからです。あなたたちの優しさが、キールに優しい心を芽生えさせたのです。でも、その記憶が失われたら、キールさんは心も失ってしまいます。優しい心も失われ、冒険者としての仕事だけを覚え、そのうちお金のためだけ、生きるためだけに働くようになり、犯罪に手を染め、人を殺しても何も思わなくなります」
ルシアナの言葉を、皆が黙って聞いていた。
彼女の言葉には、有無を言わせぬ力があった。
「長! キールに薬を飲ませるのをやめてくれ!」
そう言ったのは、洞窟の入り口でキールと言い合っていた男だった。
「あいつのことは俺が責任をもってここに来させないようにする! だから――」
「私からもお願いします!」
「俺からも頼む、長! キールは俺たちのためを思ってやったんだ! あいつが罰を受けるなら、俺が代わりに受けるから」
聞いていた森の民の皆が、口々にキールを擁護するように言った。
それを聞いて、森の民の長は後ろを向く。
「わかった……キールはそのまま帰す。だから――」
「キールさんは私が病気の皆さんを治療をしなければ、絶対に帰りませんよ。たぶん、無理やり帰しても戻ってきます。私がダメでも、全財産を使い果たして、体力回復ポーションを何度も持ってきます」
「あれは……そうか……」
体力回復ポーションがキールの全財産を使って用意されたことを知らなかったのか、森の民の長はため息をついて頭を抱えた。
もう一押しだと思った。
ルシアナは最後の一押しに出た。
「今なら冒険者シアへの依頼、成功報酬銀貨三十枚のところ、今日は八の付くハッピーデイで三割引き、さらに出張費無料、村の浄化を無料でつけちゃいます! あ、お金はキールさんに支払ってもらうんですけどね」
まるでタイムセールのたたき売りかのようなルシアナの謳い文句に、
『……………………』
場が一気に静まり返った。
そして静寂が場を支配した後、誰かが小さな声で、「金を取るのかよ」とボソっと言った。
本当にこれが最後の手段だったのだけれども、効果がないのかな? とルシアナが不安になった時だった。
「はははは、そうか。三割引きか。それは運がいい」
森の民の長はそう言うと、後ろを向いたまま天井を見上げた。
そこには、犬のような動物の彫刻が掘られていた。
おそらく、神獣をモチーフにした石像だろう。
その石像に祈りを捧げた森の民の長は振り返って言った。
「シア殿、其方はあくまで修道女ではなく、冒険者として我々を治療してくださると言うのかね?」
「はい。お金のため、そして依頼主の笑顔のために一生懸命仕事をするのが冒険者ですから。あ、これ、冒険者カードです」
ルシアナはそう言って、シアの名前が書かれている冒険者カードを見せた。
最後の一押しは、教会の世話になりたくないと森の民の長老が言うのであれば、教会から派遣されてきているのではないとアピールすればいいというアピールだった。
「そうか、冒険者に依頼をしてはいけないという掟はどこにもないからな」
そして、森の民の長は真剣な目をして、ルシアナに頭を下げる。
「シア殿、どうか我ら民をお救い下さい」
「はい、任せてください」
こうして、ルシアナは冒険者として、初めての依頼を受けた。
ルシアナは森の民の人たちのところに行き、病気の人たちの治療を始めた。
かなり重症な人が多かったが、全員分、中級体力回復魔法を掛けるだけの魔力は戻っていた。
あとは自己治癒能力に任せておけば完治するところまで回復している。
キールも竹を編んで作られた牢屋に入れられていたらしいが、今は解放されて、ルシアナについて回っている。
「シア様、随分と迷惑をかけたな」
「いいえ、迷惑だなんて思っていません。でも、どこの世界でも掟とか決まりとか法律とか面倒ですよね」
「仕方がない。頭では理解していても、教会と森の民の対立はそれだけ根深いんだよ。特に長の世代の人間はな」
森の民の長は、ファンバルド王国との戦いを直接経験したことはないが、その父は子供の頃に森から逃げることができた民の一人だったらしい。そして、その時に両親を殺されていた。
そのため、森の民の長は幼いころから父親に、教会がどれだけ恐ろしいかと聞かされて育ったそうだ。
そう聞かされると、教会の修道服を着ているシアに助けを求められなかったのも仕方がないように思える。
「キールさん、休んでいる暇はありません! 急いで村の浄化をしないと」
「ああ、そうだな。シア様の帰りを待っている人がいるからな」
「それだけではありません。村に、白くてかわいい犬が残されていたんです。森の民の皆さんを優先しましたが、助けられるなら助けないといけません!」
その時、キールが何か不思議そうな目でルシアナを見てきたのだが、彼女は何故見られているか全く理解できなかった。