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第七話:青子

それからの毎日は苦痛だらけだった。

しかし、その後、三年に進級する時にクラス替えがあり、運がよかったのか、僕は木庭達のグループの誰一人とも同じクラスにはならなかった。

それでも、進級してすぐのころは二年の時のように放課後呼び出され散々お金を払わされて、リンチされた。

でも、受験が近づきはじめるとさすがの木庭達もそれに必死にならざるを得なかった。バカな高校ですら上がれないような成績と頭と行為しか、あいつらは今まで持ってこれなかったからだ。

少しだけ、いい気味だと思ってしまった。

僕はというと、勉強は唯一の逃げ場であることに変わりは無く、あれ以来続けていたおかげで何とかそんなに必死にならなくてもいい高校に入れたのだった。

受験勉強をしていたとき、時々『いい高校に入ったら、父さんや母さんは喜んでくれるかな』という淡い考えが浮かんでいたが、すぐにそれは打ち消され、あの日父さんに聞かされた真実が心の中にかけめぐるのだった。


そんな風に僕の心の中にはいまだに大きな暗やみが始終居座っているのだ・・・・・。


合格発表の時もそうだった。

1146

僕は掲示板を見た一瞬で自分の番号を見つけた。

一瞬意味がわからなくて、ずっとまわりが歓喜や悲劇の声をあげているなかで、ただぼうっと突っ立って自分の番号を見つめていた。

するとだんだん“受かった”という声が頭にじわーっと広がってきて、ものすごく久しぶりに心が喜びの興奮でみたされた。

そうして改めてあたりを見回してみると、僕と同じようにただじっと掲示板を眺めている女の子がいた。

この子も僕と同じように感じているのかな、と一人でほほえましくも思ってしまった。

それから、合格証書と、入学の様々な書類と春休みの課題を受け取り、これから通うだろう学校を後にした。

帰宅途中に電話をして親に知らせると、一緒に合格発表を見に行った奴がいった。僕は意気揚揚として「僕も」といった。まだあの心地よい興奮は冷めていなかったのだ。

しかし、公衆電話ボックスに入り、受話器をとった時、さっとそれが引いてしまった。あの暗闇が落ちてきた。

隣では本当に嬉しそうに合格を報告する友達の姿があった。

僕はそっと受話器をおいて、ボックスからでた。

僕が報告して何になる?

いや、きっと父さんは喜ぶ。母さんだって喜んでくれるだろう。今言えば帰るころには母さんがお赤飯を炊いて待っていて父さんはケーキを買って早めに帰ってくる。それは嬉しいことだ。そんな幸福な家族はそうそうないかもしれない。でも・・・・・・それは嘘だ。

父さんを疑う母さん。

母さんや家族を騙す父さん。

そして・・・・・その原因の異質な僕。

とんだ茶番劇だ。

こんな役者でホームドラマをやっても、どうせ僕は部屋に入ったら泣くんだから。しょうもない。

そうしてまたもとの大きな暗闇に戻った。


結局帰ってから合格を知らせても、母さんは晩御飯にお赤飯を出して「受かると思っていたから用意しといたの。」と、嬉しそうにいった。

母さんから連絡がいったのか、父さんもケーキを買って帰ってきた。

姉さん達はあんたのおかげでケーキが食べれらて嬉しい、と変に喜んでくれた。

ホームドラマをやった。

姉さん達が羨ましかった。僕もちゃんとしたこの家の子供になりたかった。

部屋にかえってから泣くことも、僕の想像したとおりだった。



そうして、僕は高校生になった。今はもう二学期だ。

だいぶ高校の生活にもなれた。

高校は中学ほど甘くなかった。逃避のための勉強だけでは、授業についていけなくて、予習は欠かせなかった。でもその忙しさは、僕にとってはありがたかった。余計なことを考えなくてすむ。

クラスはさすがの進学校だからだろうか、なんの問題も無くとても居心地がよかった。でも・・・・・・・・。なんだかそれはだんだんと僕の首を締め付けるようになっていた。幸せな人が多いのだ。この学校は。そして純情にこの世の中のことにうまく馴染んでいく人たちばかりだ。表面だけの友達を、僕はたくさん作った。それで十分だった。

絶望が居座る毎日。僕はただただすべるように毎日を送った。


放課後学校に残って勉強をして帰るころ、日がもう沈むときだった。薄暗いけど、ぽわぁっとした光が空にそして街に広がっていた。

歩道橋を登ったとき、一人の女の子がいた。

その女の子は歩道橋の真ん中に立っていた。

「何してんの?」

口が勝手に動いていた。

「何してると思う?」

女の子が笑っていった。

「わかんない。」

「わかんないの?しょうがないな、ここに立ってみて。」

と、女の子が立っていた場所に立たされた。

「これって・・・・。」

下の車がびゅんびゅん動いて、まるで・・・僕が動いてるみたいだ。

「ね。飛んでるみたいでしょ?気持ちいいでしょ?死にたくなったらここに来るの。私、生まれ変わったら絶対にトンビになるから。」

「トンビ?普通の鳥じゃダメなの?何でトンビ?」

「トンビじゃなきゃダメ。ああいう風に空を飛ぶの。」

と、女の子は歩道橋の真ん中で腕と長いストレートの髪を広げた。

飛んでるみたいだ。

「名前は?」

と、突然女の子が聞いてきた。

「アオ。」

「アオ?私と同じ名前ね。私、青子って言うの。」

「青空のアオ?」

「そうだよ。きみは違うの?」

「ちがう。碧玉のアオ。」

「じゃあ、みどりのアオだね。」

みどりのアオか・・・・。そうか、そうだな。となんだか父さんから真実を聞いて今まで憎らしかったこの名前を、受け入れることができた。

そうして青子に目を向けた・・・・・・

その時、目が合った。あの、瞬間に僕の人生は意味のあるものになった。

青子と目が合ったんだ。

絶望的な、この世界に、僕の世界に笑い声をくれたんだ。

たとえ青子が女の子じゃなくて、男の子だったとしても、人間でなくても、鳥でも、木でも、なんでも、きっと僕は出会ったと思う。

青子に。



その日は、そのまま別れた。

ただ、なんとなく出会って別れた。また会えるという不思議な確信があった。

その確信は当たった。


次の日の昼休み、友達に言った。

「ゴメン、なんか気分悪いからちょっと休んでくる・・・・。先に昼、食べてて。」

「大丈夫か?保健室?次休む?」

「や、ちょっと・・・・トイレとか、行ってみる・・・。」

そうして屋上に続く階段に足を運んだ。

僕にはそこに行く癖があった。

どうしようもなく疲れたとき、どうしても笑う演技ができなくなった時、ここにくるのだ。

この屋上に続く階段は、誰も近づかない場所だった。

“屋上に続く”とは言っても、屋上にはいけないのだ。屋上への入口の扉はびっちり閉められ、鍵が二つもかけられていて、その上針金まで何十にもまかれている。窓には板が貼り付けられ、屋上に広がっているだろう光を全く遮っていた。

だから、誰もここへ来ないのだ。

来ても無意味だから。

たまにいちゃいちゃしたカップルがいたりするけど、僕の階段をのぼる音をきくと、彼らのほうからすぐいなくなるのだった。

だから、ここは僕の地球上の居場所。

僕が僕でいられる場所なんだ・・・・・・。

そしてまたいつものように、一番上の階段の踊り場にねっころがって、ただぼーっとしていた。

きゅっきゅっきゅっ・・・・

誰かが階段を上る音がする・・・・・

なんだかきれいな音だ・・・・

鳥が飛ぶような・・・・・

きれいな・・・・・・・

「あれ?」

突然僕の顔の上に髪の長い見覚えのある女の子の顔が現れた。

「アオ君じゃない?」

「青子・・・さん?」

「あはは、そうそう、“青子さん”だよー。」

そう言ってくるっと回って見せて、隣りに座った。

「あーあ・・・ここ、私だけの秘密の場所だと思ってたのにな!君もよく来てたの?」

僕は起き上がりながら答えた。

「僕だってこんなトコくるの僕だけだと思ってた。」

「そう。私、入学してから結構すぐ、しかも結構きてたよ?」

「僕も。」

・・・・・・。

「あはは・・・・なんの比べあいっこなの!!?あはは・・・・でも、君ならいいかな。ね。」

と、こっちを見る。

僕も、同じことを思っていた。

この子なら、いいな。って。

「でも、あれだね、二人ともよく来てたのに、今まで会わなかったなんて、不思議だね。」

「ああ、僕、透明になれるからさ。」

と、にやっとして見せた。

「なにそれ!!あははは・・・」

それにしても、青子はよく笑うな。

青子の笑う顔はなんだか、僕を嬉しくさせた。

「たまにカップルとかいない??」

「ああ、いるいる。」

「で、私が来る音がわかるのか、来るころにその人たちのほうから、いなくなっちゃうの。」

「そうそう!!」

「なにしてんの?ここで。」

「僕?なんにも。なんにもしてない。」

「あ、私といっしょだ。ここ、なんにもしないことをする場所なの。

あれ?なんか、私の言葉変?意味、伝わってる??」

「あはは、僕が頭いいから、わかるよ。」

「なにそれ!!」

「あ、予鈴だ。」

「行かなきゃ。」

「じゃあ」と青子にいった。

すると、青子は僕のまねをして「じゃあ」といった。

僕のなかはドキドキしていた。

それも居心地のいいドキドキだった。

なんだか、幸せだった。


家に帰ってからも僕はなんだかふわふわしていた。

明日も青子に逢えるかな?

なんて考えたりしていた。

どうしてなんだろう。

他に、家族の、そしてこの僕のこと以外ずっとどうでもよくて考えないでいたのに。こんなにあの女の子のことを考えているんだろう。

次の日の放課後、僕は屋上へ続く階段の一番上にいって、寝そべって音楽を聴いていた。

「わっ!」

目をあけるとまた昨日と同じ顔があった。

「青子・・・・・さん」

青子はにこっと笑って「“さん”付けるの変な感じしない?」といった。

「青子」

「照れるゥ」

「ばーーーか」そういって起き上がってヘッドフォンを外した。

青子は隣りに座った。

「何聞いてたの?」

「ピンクフロイド」

「あ!私も!好き!」

「聞くの?」

「うん。」

「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォールとか好きなの。」

「ああ、いいよね。」

「何が好きなの?」

「みんな好きだよ、結構。」

「じゃあ、特に!」

「うーん・・・・アルバムでね、ファイナルカットが好きかな。特にならね」

「最後の?」

「そう、聞く?」

「うん」

ヘッドフォンを差し出した。

青子が受け取って、つけた。

スタートボタンを押す。

きっと一曲目が流れているだろう。

青子は目を閉じてじっと聞いていた。

青子はいつのまにか泣いていた。

ずっ、と鼻をすすりながらヘッドフォンを返してきた。

「いい曲だね。」

「うん」

僕はただじっと座っていた。



次の日の放課後は、青子が先に来ていた。

なんだかじっと本を読んでいる。

「何読んでんの???」

「桜井くん!!」

「桜井くんで―す。」

「碧?」

「はぁい。」

「あのね、詩。」

「どんな?」

「骨」

「は?」

「中原中也の。」

「教科書?」

「うん。教科書にのってたの。今日の現代文の時間に見つけたの。」

「で?なんでまた読んでんの?気に入ったの?」

「ん・・・・ていうか、なんだか、気に入ったって言うか、気になるっていうか・・・・なんか、うん、なんか、ね、ここ、どう思う?」

そう言って、教科書の一文を指差した。

“生きてゐた時の苦労にみちた 

あのけがらわしい肉を破って、”

「どう思うって・・・・どういうこと?」

「私、なんだかわからなくて、生きていたときの苦労にみちているのは骨なの?そうしてこの、この肉体はいったいなんだっていうのかしら・・・・。」

そういってまた、じっと見入っていた。

「骨だ。」

「え?」

「僕は骨だと思う、苦労にみちているのは。骨だけが白いだろ?この身体で。そうして、この世界とじかに触れ合っていないじゃないか。骨は。肉体は、この世界と同化するためのものだから。汚らわしいんだ。」

「じゃあ、この世界は、けがらわしいの?」

はっとした。

僕のこの世界は汚らわしいものになってしまっているけど、もし、青子の世界は違かったら・・・・?

もしそうなら・・・・・・・・。

僕が一生守ってあげたい。

青子の未来に、この人生に、青子があきらめて腐ってしまわないように・・・・・・・。

僕は微笑んで、青子の問いを曖昧にごまかした。


僕はこのときから・・・だと思うけど、青子が笑うことを、探すようになった。

お笑い番組をチェックして、手品の練習をした。


またの日、僕は太宰治の小説を寝そべって読んでいた。

「目ぇ、悪くするよ。」

と、小説を取り上げられた。

「ふぅん、人間失格。」

「なんだよ。」

「私も読んだ。」

「で?」

「途中で挫折!」

「なんだよ。」笑って、小説を取り返した。

青子も手に本を持っていた。

それを指差しながら「それ、何?」と聞いた。

「中也。」

と表紙を見せてきた。

“中原中也詩集”

「・・・・。」

しばらく二人とも、読書していた。

「“雨があがって 風が吹く”」

いきなり青子が言った。

「“雲が流れる 月かくす  

皆さん今夜は春の宵

なまあったかい風が吹く”」

青子はにっこり笑って「じゃあね。」

といって帰った。

あ・・・・今日はなんも笑わしてないや・・・、でも、笑ってたな。



また次の日。

青子は中原中也の詩集を読んでいた。

「君ねぇ、明日からテストだよ。」

「知ってますよ。てか、君こそいいんですかー?こんなトコにきてて。」

「僕はこつこつタイプだからいいの。」

「じゃあ、私も。」

「なんだよそれ。あっ!今日新しい手品、できるようになったんだ。」

「どれっ!!!」と、青子はすばやく中也の本を閉じた。

トランプを取り出して、よく、テレビでやってるきり方をした。

「一枚とって。で、覚えないで。」

「え?」

「うそ、覚えて。」

「ふふ、なによっ」

「戻して。」

青子はそっと戻した。

しゃっしゃっと、トランプをきった。

「見てて、青子が選んだのだけ、表になって出てくるから。」

青子の目の前にしゅっとトランプを広げた。

ハートの2だけが、表になった。

「すごい!!!」

「あたり?」

「あたり!!!すごい!!碧、才能あるんじゃない???」

と、笑っていた。


ずうっと、続くといいな。

こんな毎日が。続くといいな。そう思っていた。大嫌いだった毎日が続くということが、いとおしくなった。

なぜなんだろう。

わからないけど、放課後、屋上に続く階段に行くのが待ち遠しかった。冗談を言って、覚えたての手品を青子にみせて、お互いにもくもくと本を読んで、そんなことが、うれしくて、世界が、明るく見えた。

死んだように生きていた毎日を、忘れてしまうほど、素晴らしかった。

本当に、毎日がずうっと続けばいいと、思ってたんだ。

青子が、笑ってくれるといいなって・・・・・・・。


それから、僕らは毎日放課後、それがあたりまえのように、屋上に続く階段で逢っていた。中也、ピンクフロイド、最近のバラエティ番組、映画、とにかく、いろんなことを話した。トランプで手品もしたし、ゲームもした。

お互いに、いろんなことを知った。ずいぶん親しくなった。

なのに、放課後だけだった。

学校外では、もちろん、校内でも、廊下とかであっても、挨拶すらしなかった。お互いにそれが自然だった。屋上に続く階段だけが、僕らの場所だった。


高校二年になった春。クラスがえの発表掲示板を見た。

僕は・・・・・一組だ。

ざっと、他の人の名前を見た。2,3人しか知ってる人の名前がなかった。でも、この学校だ、すぐに、友達なんかできるさ。

そうして、教室に向かった。僕の席は、前から4番目。廊下から2列目。

席についた瞬間。風が吹いたような気がした。

隣りに、青子がいた。



「あれ・・・・」

思わず声が出てしまった。

青子が振り向いた。

「碧・・・・。」

「え・・・・」

ガラッと音がして、担任が入ってきた。僕と青子の会話は止まった。



青子といっしょのクラスだ。

・・・・・・。

嬉しい。素直にそう思った。

この学校に来て、青子に出会えて、同じクラスになれて、本当に嬉しい。

生きていてよかった。

死ななくて本当によかった。

ああ、毎日が続きますように。

初めて思えた。本当に心からの嬉しさがあった。あの悲しい事実以来・・・・。

どうして青子に関することだけで、こんなにも嬉しい気持ちが、幸せな気持ちが、湧いてくるんだろう。これを言葉にできたら、どんなに素敵な言葉になるんだろう。この世のなかのすべての詩を集めても、すべての歌を歌っても、間に合わないくらいだと思う。幸せなんて言葉じゃ、ずっとずっと足りないくらいなんだ。もどかしい。どうして僕は、言葉でないと何も表せないのだろう。この気持ちを、この感じを青子に伝える術が言葉しかないのだ。

僕はまだ習っていない言葉なのかな?僕はまだ知らない言葉なのかな?それとも、この気持ちは、世界に存在しない、僕だけのものなのかな。




「びっくりした。」

始業式の終わった後の放課後、僕はいつものように屋上に続く階段にいって生徒のいなくなった校舎でお昼御飯のパンを食べていた。そこに青子がやってきて、いきなり言った。

「本当に、びっくりした。」

「僕だって」

「なんかー・・・・・・変な感じ。」

「いやだって?」

「ちがう。・・・・。」

青子は隣にしゃがんで、こっちにむかってにっこり笑った。

「うれしい!」

「ぼくだって」

と、さっきと同じ口調でいった。

「ほんと?ほんとっぽくない。」

と、青子は口をとがらせた。本当だよ。さっきの考えを思い出した。なんてもどかしいんだろう。この気持ちを、この感覚を、この幸せを伝える言葉がわからない。伝える術がわからない。

「だから、今日ここにいるんじゃん。普通来ないよ、半日で学校が終わる日にさ。」

口は一生懸命今の気持ちを伝えようと必死だった。うまく伝わったかはわからない。

「いえてる。」

青子の声は僕を救った。そして思った。言葉だけじゃない。そして、きっと青子に伝わっている、と思えた。それに、青子のことも、僕に伝わっていることを知っていたことを思い出した。むしろ、そういったものが、僕らにはずっとずっと多かったんじゃないかな。言葉ではない、何か。それを僕等は知っている。


ピアノ。

ピアノが聞こえた。

誰かが、ショパンの別れの曲を弾いている。卒業式でもないのに、なんでまた?と思ったけど、とてもきれいだから、いっか。

屋上はきっと今日も晴れているだろう。

一面に光が満ちて、きれいな青の空が広がっているだろう。

それはここからは見えないけれど、そう思えた。

「青子、空が青くてよかったよね?」

「うん。」

「青子」

「うん?」

「青子にあえて、本当によかった。」

僕は、自分でもわからなかったけど、なぜか涙が頬をつたっていた。

青子はゆっくり笑って、じっと見つめて、顔を近づけて、僕に、

キスした。

そしてまた、青子はゆっくりと笑った。

「私も、碧にあえて本当によかった。」


今日はなんだか変に明るい。

いつもの薄暗い屋上に続く階段なのに。

ショパンの別れの曲が流れ続けてる。

今日は僕の誕生日。今日は一七年間生きてきて最も幸せな誕生日だ。

青子のためになら、なんでもしたいな。青子が僕のうれしさの、幸せのすべてだから。死んだ毎日を消しさる人だから。青子がいれば、なんだっていい。なんだってできる。僕が人間じゃなくたっていい。どんな形だっていい。青子と一緒にいられれば。青子が笑ってくれることは、僕のすべてなんだよ。だから、僕はなんだってできる。そうだ、なんだってできる。


次の日、青子と一緒に授業をうけて、青子と一緒に御飯を食べた。

つまり、“一緒の教室で”。教室でも、ろくに話さない。

僕らはあの場所でだけ、僕らとなり、会話する。

桜餅や柏餅、クレープ、アイスクリームやメロンパンいろんなものを食べて、いろんなことを話した。それはきっと言葉だけじゃなかった。


「青子さん」

「はあい。」

「何読んでるの?また中也?」

「ふふ・・・教えない。」

「なんだよ。」

あまりにも本に夢中で、青子に話しかけるのを遠慮しようかとも思った。でも、今日は、することがある。

「青子さん。」

「はあい」

「これ、あげる。」

と小さな鍵を渡した。

「何これ?」

「手品の一つ。」

「え!新しい手品?」と言って、青子は本を閉じて、床の上においた。

「ううん。まだ、練習中。でも、そのうちできるから、それまで持っててよ。」

「何それ。」青子は怪訝そうな顔をしていた。

「なくさないでよ。それ、僕の心の鍵なんだから。」と笑いながら言った。

「何それ。」さっきと同じ言葉を、今度は青子も笑いながら言った。

「わかったよ。大切に、肌身離さず持ってるよ。碧の心が漏れちゃったらやだもん。」

「よろしい。」


それから、その鍵は青子のペンダントになった。青子は文字通り肌身離さず、僕の「心の鍵」を持っていた。だけど、その鍵を使う手品なんて、本当はなかった。ううん。それが解けるときは来るよ。でも、手品とは、少し違うと思う。どういう形にしても。でも、それは青子の手にあるべきものなんだ。


2カ月ほどすごし、もう、夏がこようとしていた。

今日はよく晴れた7月の最初の日。

今日は早くに学校に来た。昨日、なぜだか眠れなかった。いや、いつもよく眠れないのだけど、昨日はいつもにまして眠れなかった。いつもは数時間ほど寝られるのに、昨夜は時々うとうとしたくらいだった。夜は闇が襲ってくるからだ。どんなに忘れたふりを装っても、どんなになんでもないフリがうまくできても、ひとりになれば、涙が溢れるように、夜の闇は、僕を恐怖に陥れる。「お前は嘘のもだよ。」という声が聞こえる。「生きていても意味なんてないよ。」と冷たい声が聞こえてくる。「憎い」という言葉が頭を駆け巡る。「死ねよ。」という声が聞こえる。怖くて、怖くて、ヘッドフォンで音楽を聴いても、その声は止まらなくて、いつも眠れないんだ。

でもね、青子に出会ってからは、少し違うんだ。怖くなったら、どこかでトンビの鳴き声みたいなのが聞こえるの。それで僕は思い出す。あの鳥が飛んでいるようなきれいな足音。そして、僕はキミと出会う。何度だって。そうしていると、いつのまにか数時間眠れていたんだ。

だけど、昨日は違った。昨日は青子の足音が聞こえてから、青子が消えたら?と思ってしまった。


あおこが、きえたら?


それは、とてつもなく恐ろしかった。この世界にとって大きな痛手になるような気がした。地球の命がなくなるんじゃないかと思った。だって、青子は世界の明るさのすべてだから。

青子をずっと笑わせてあげて。

青子をずっと守ってあげて。

青子が・・・・ずっと、ずうっと、笑っていれば、世界は光に満ちているから。


青子が笑っていれば、世界はずっと明るいんじゃないかな?

ずっと、平和なんじゃないかな?


ずっと・・・・・・・・・・・・・・・・・



そうだ。いつだっただろう?

あ。そう。木庭たちのいじめのときだった。

「おい、見ろよ。」

「ぎゃはははは!!!やべえよ、これ、さすがに。」

「やべえけど、うけんだけど!!!そのうちやりかねなくね?」

「最近多いしな!」

「金入んなくなんじゃん。」


なんだ?

気がついたら眠っていたのか?

いや、殴られたんだった。

それで、意識なくなったんだった。

あれ?

目を開けたのに何も見えない。

真っ白だ。

布?

「冥福をお祈りしますってか?」

「ぎゃはははははは!」

「おい、目が覚めたみたいだぜ。」

「行こーぜ。」

「じゃあな!死人さん」

「ひでえ。ぎゃはははは!!!」

「死ねよ。」



僕の死は、笑えるのか?

笑えるのかもしれない。

この世界の何よりも。

ああ、そうだ。

この世界を明るくするあの子に、一生笑ってもらえるように・・・。

僕は決心した。

そうだ。

死。

それは何も暗いだけじゃない。

そうだろ?

だって、それを知った今、僕の出生を知ってしまった時の死とは全く違い、生きるということ、そして死ぬということを、そして、なにより、「人」というものを、素晴らしく思えているのだから。



僕は夢みていたことがあって、それは本当にどうしようもなくバカみたいなことなんだけど・・・

それは、それは、本当の・・・・父さんと母さんの子供になることだったの。

ごめんね、僕と同じ名前の碧さん。

ごめんね。

でも、ずっとずっとそう思ってた。



シンと静まった学校の朝。

光が満ちている。



青子、今日は暑いね。

もう夏だ。

空は真っ青。

青子の色だね。


メモを取り出して、走り書きをして、靴に詰め込んだ。種明かしだ。

ペンチを技術室から取り出して、ゆっくり歩いた。

窓の外は今日もきれいな空。青い空だ。


この屋上に続く階段は、僕の天国、楽園、そして、僕の場所。

屋上へのドアはあかない。

だけど、窓は、割れる。

窓をふさぐベニヤ板をペンチではがした。

明るい光が飛び込んでくる。

世界はこんなにすばらしいのか。

窓をペンチでぶち壊した。

そこから屋上にでた。

かごからでた鳥の気分がわかった。

世界は美しいよ。

どんなことがあっても。

ねえ、そうだろ?

青子・・・・・・・・・・・・


さあ、笑って。ねえ、1回だけしか出来ない僕の道化。

きみの笑顔のためだけの道化。

笑って。

十七歳の僕の精いっぱい。死ぬって怖いと思ってた。

僕が家族のなかで異質なやつだと知っても、悲しくても、いじめられて本当につらくても、怖くて死ねなかったけど、今はね、とってもおだやかなんだよ。なんでだろうね。

僕は今死ぬことで、とっても幸せを感じているんだ。

ねえ、青子。

僕は幸せです。





僕は幸せです。












ゆめと、あいと、何かを


探して生きることも忘れてた


でも目を閉じれば


ねえ、君の笑顔


たったそれだけが、


いや、


それこそが


僕の生きたしるし




                    碧の物語  完







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