第九世 この世界で生きる、ということ
「こんなところあったんだ……」
「くふふ、どこでも行ってよいと言っておいたのにお前様は随分と控えめな範囲ばかり見ておったからのう」
開けた事の無い扉を一枚抜けた先には左右に分かれた中庭を一望できる真っ直ぐに伸びた渡り廊下……ここを進むと玄関へ辿り着くらしいが、確かにこんな道がある事などちっとも気付かなかった。
「……この屋敷が広すぎるんだよ」
言い訳をこぼしながら視線を落として渡り廊下に分断されている大きな池をぐるりと見回す、やはりというか鯉などは泳いでいないが青々とした水草と苔が広がっており水底が見えるぐらいに透明度が高く、心なしかこの辺りの空気は特に澄んでいる気がする。
「さぁお前様よ、どれがいい!?」
「どれって……まさかこれ、全部俺の?」
渡り廊下を抜け、想像通り広い玄関に墨白があれよあれよという間に様々な靴を端から端まで並べてどうだと言わんばかりに両手を広げた……スニーカーにブーツは勿論、下駄や草履まである。
「当然じゃろう? ほれ、儂の顔ほどもあるんじゃぞ、儂の足には大きすぎるわい」
並べられた靴の片方を持ち上げて自らの顔と並べながらケラケラと笑う墨白に苦笑するしか無かった、しかし困った……ここに並べてあるだけでも俺が人生の内で買った靴の数よりも多いのもそうだが、今着ている作務衣に合う靴など考えた事も無い。
「……ん?」
ふと一つの靴に目が留まった。運動靴のようだが紐や装飾も無く実にシンプルな作りをしており、試しに玄関内を数歩歩いてみるがかなり履き心地が良い。
「俺はこれにするよ」
「決まったか、よしよし……では行くとするかの」
見れば墨白は小さな黒いブーツに足を通していた、着物にブーツを合わせるのかと首を傾げかけたがこれが意外と似合っている。思わずジッと眺めているとニヤリと笑う墨白と視線がぶつかってしまい、慌てて目を逸らす。
「何故目を逸らす? いくらでも見ていんじゃぞ、それこそ舐め回すようにのう?」
「い、いいから! ほら、遅くなるよ?」
このままではいつもの調子でからかわれると慌てて墨白の横を通り過ぎると磨り硝子の嵌め込まれた木製の格子戸に手をかけ、一気に開く。
すると勢いよく一陣の風が玄関へと吹き込み、思わず腕で顔を覆う。風はすぐに収まり、腕を下すと……目の前に広がる光景に思わず息を呑む。
「こ……れは、凄い迫力だな」
考えてもみれば知識としては残っていても本物の竹を見たのは何年ぶりだろう、竹というのはこんなにも力強かっただろうか? こんなにも美しかっただろうか? 群れて並ぶその姿は高波のような恐ろしくもあるが風にその身を揺らし、笹が擦れる音は静寂に包まれた竹林の中で耳を楽しませてくれる。
気が付けばフラフラと玄関から歩き出していた、首が痛くなるほどに見上げたままぐるりと周囲を見渡し……やがて開かれた扉の向こうでにこやかにこちらを見つめる鬼と目が合う。
常人であれば足を踏み入れる事すら躊躇する深い竹林の奥に建つ豪奢な屋敷の主である白銀の鬼、世界の境目化のように扉の向こうに建つ姿は先程までの靴を並べてはしゃいでいた人と同一人物とは思えない程恐ろしく絵になる。
「墨白さん」
「なんじゃ、お前様よ?」
そんな彼女が何者にもなれなかった俺の声に応えてくれる、俺自身を見てくれる……たったそれだけで、俺の人生にもキチンと意味があったような気がしてくる。
しかし人間というやつは本当に貪欲らしい、胸が張り裂けそうなくらい充足感が満ちているというのに今度は今この瞬間をを失う事を心底恐れている……故に鬼に向かって手を伸ばし、声をかける。
「行こう!」
「……うむ、そうするとしよう」
深い竹林を分断するようにまっすぐに伸びる石畳、見れば周囲は草が生い茂っているのにここだけ一本も草が生えていないではないか。
「ん、どうしたのじゃお前様よ? 何を笑っておるんじゃ?」
「なんでもない、いい眺めだなって思っただけだよ」
問い掛けるだけ野暮というものだ、どうせ『歩くのに邪魔だから』とかそんな答えが返ってくるだけなのだから。
──随分と遅くなったが、今までとは違う世界へやって来たという実感がようやく今になって全身に湧き上がってくる。
屋敷内とは違う少しひんやりとした風が頬を撫でる、静かな竹林に響くのは石畳を叩く墨白のブーツの踵と彼女の口から止めどなく溢れ出る俺の昔話……本当に色々な事を覚えられており気恥ずかしいのもそうだが、どこか話に集中出来ないのはやはりあの一件が心に引っ掛かっているからだった。
「墨白さん、俺達ってこれからあの手首の人のところに行くんだよね……どんな人なの? その人も鬼?」
「ううむ、どんな奴かと聞かれると少し困るのう……ああそれと奴は鬼ではない、あやつは屍術師……ネクロマンサーと言った方がお前様には分かりやすいか?」
話が一段落したところで質問をぶつけてみたがあっさりと、更に頭を抱える返事が返ってきた。ネクロマンサー……ゲームキャラクターとしての知識しか無いが、死体や幽霊を操る種族だった筈だ。実在を疑うなんて今となっては野暮も野暮だが、友好関係が広いにも程がないだろうか?
「……どんな店に連れてかれるんだ俺、ゾンビとかいないよね……?」
「くかかっ! そんなに怯えるでない、ただの喫茶店じゃ……ああだが確かにアンデッドの助手がおったのう、百にも満たん若い娘じゃったか……」
「百って……墨白さんって今何歳なの……?」
色々と教えてくれている筈なのにこんなにも次から次へと疑問が増える事なんてあるのだろうか、妙な疲労感を感じながら下唇を爪でなぞっている彼女に問い掛けると視線を一瞬こちらに向け、更に考え込むように空を見上げた。
「はて、いくつじゃったか……五百までは数えておった気はする、まだ千はいっておらぬ筈じゃが……ううむ」
「……ははっ」
規模が違いすぎる、一回りも二回りも違うとはよく言うがまさか十回りしても追いつけないとは。
それにネクロマンサーの営む喫茶店だって? 目玉のゼリーとか血液ジュースでも出てくるのだろうか?……脳裏に妙に生々しくイメージが浮かんでしまったので慌てて唾を飲み込み、喉の奥に感じる酸っぱいものを無理やり戻していく。
「それで……その喫茶店で何するの、ご飯はもう食べちゃったよ?」
「今回は食事ではなくお前様の体を診てもらおうと思っての、奴は屍術師……とりわけ肉体構造の把握やお前様の体に適した薬の調合については奴の方が秀でておる」
「へぇ、なんか……健康診断みたいだね」
「その認識で間違っておらぬ、儂はどうもその方面は苦手じゃが奴ならばまぁ……悪いようにはしまいよ」
餅は餅屋という事か、いつの間にやら緩やかな山道へと変化していた石畳を進みながらぼんやりとそんな事を考えていると不意に竹林が途切れ、視界が一気に開けた。
「うお、なんだ……あれ」
まるで竹達が避けて出来たかのような平坦な丘、その中央には周囲を金属の柵で囲われた大穴が大きく口を開いているではないか……更に異様なのは穴の中央から飛び出た太い石柱だ、表面がびっしりとフワフワとした何かに覆われており異様さをより一層際立てている。
「お前様よ、扉はこの穴の底じゃ。さ、何も怖がる必要は無いぞ……こっちへ来るがよい」
隣にいた筈の墨白がいつの間にやら柵に後ろ手で寄り掛かり、片手でこちらを手招きしていた。
背後の石柱の存在も相まって周囲を包み込む雰囲気が只事ではない……これが都市伝説かホラー映画なら絶対に行ってはいけないやつだと分かる、繰り返しになるがこの状況が都市伝説かホラー映画なら……だ!
「おっ?」
ズンズンと前に進む俺を見た墨白が意外そうな声を上げた、そう……肝試しにやって来た人がこの状況にポンと放り出されたならば全力で引き返すべきだろう、しかし世界中のオカルト本に目を通したところで……彼女は、墨白と言う存在は決して出てこない。
「っ……ふぅー……! 墨白さん、もう俺は……こっちの存在なんだよ?」
ポカンと開かれた二つの赤い月が俺の姿を捉え、花が咲いたかのような笑い声が辺りに響く。
痛いほどに脈打つ心臓の音を聞かれていないだろうか、震える手を見られていないだろうか?……知った事か、俺は彼女と過ごすと決めたのだ……騙され上等、先の事を考えればこの程度の脅しに怯んでなどいられない。
「くふふっ!……ああ、ああ。そうじゃったな……お前様よ」
力強く腰に回された両手の感触を味わいながらぼんやりと考える、何故彼女はこんな俺を怖がらせるような事をしたんだろう?……考えつくのはやはりあの手首の一件だ、あの一件で俺がこの世界に嫌気がさしていないか確認したかったのだろうか?……何にしても、これで多少は良いところを見せられた……筈だ。
どのくらい抱き合っていただろうか。ゆっくりと離れた墨白が立ち上がり、俺の手を握ってにこりと笑った。
「いつまでもこうしていたいが……そろそろ向かうとしよう、すっかり遅くなってしもうた」
「それはいいけど……穴の底ってどうやって降り……」
最後まで言い終わる前に穴の壁面に沿って下に伸びる階段がある事に気が付いた、墨白に優しく手を引かれながらゲート状になっている柵の一部を開いて穴の中へと進んでいく……ここは更に空気がひんやりとしている上に時折底の方から冷たい空気が噴き出してくる、全身を吹き抜ける風に思わず身震いしているとケラケラと笑われてしまった。
「その恰好では寒かったか、何か上着でも着るかの?」
「い、いや大丈夫……それより、あれって何?」
階段を下りながら穴の中央を指差す……あれとは勿論石柱を覆い尽くしている柔らかい羽毛のような謎の存在の事だ、全体的に白っぽいが角度によっては紫のようにも黄緑のようにも見える上に植物なのか生物なのかすら判断がつかない。
「あれはヒカリゴケじゃよ、元々の光量では心もとないゆえ少々手は加えておるがの。ほれ、下の方を見てみたら分かりやすいじゃろう?」
……なるほど、背の高い階段の手すりを掴みながら下を覗き込むと確かに柱が発光している……しかも手を加えたという言葉の通り光量が半端ではなく、井戸よりも深い底だというのにどこも昼間のように明るい。
「ヒカリゴケ……はぁ、何かと思った」
「すまぬすまぬ、しかし……改めて思うとあれじゃな、お前様を脅かした事に今更腹が立ってきたのう……あやつめ、どうしてくれようか」
爪を擦り合わせながら何やらよからぬ思案を巡らせているであろう墨白に思わず引き気味に苦笑する、先程は自分にも言い聞かせるように虚勢を張ったが彼女を見ていると本当にどんな世界でもどうにか何そうな気がしてくる。