第八世 這い回る手首
人というのは慣れる生き物だというのをどこかで見た、もしくは何かで聞いた事があるがあれは本当だと思う。
白銀の髪を持つ鬼の住む鬼観世界へやってきて三日も過ぎれば彼女の前で緊張する事も無くなり、今日でちょうど一週間──すっかり馴染んだ自室の畳ベッドから上半身を起こし、両手を天井に向けてグッと伸ばす……そういえば最近コリというものを感じなくなっている気がする、以前であれば一つ立ち上がる度に全身の至る所から関節達が大合唱していたというのに。
今となってはあの感覚が懐かしい気すらしてくる、何度か首を横に曲げてみても一向に鳴らないので諦め、顔を洗う為に洗面所へと向かう。
「……ぷはぁ」
澄んだ冷水で顔を洗い、ふんわりと炭の香りのするタオルを押し当てると冷えた頬がじんわりと温められていく……名残惜しさを感じながら顔に残った水気を拭き取り、ふと鏡に映った自分に目が留まった。
現実世界と鬼観世界、二つの世界に存在した俺だが……同じではない。現実世界の俺は死に、鬼観世界での俺はこうして生きている。
二人の外見がこうしてそっくりなのは俺の魂が自分を自分だと認識する為だと墨白は言っていたが……どうせならもう少し格好良くなって生き返りたかった、顔は変えられないにしろせめて身長をもう少し伸ばすとか……なんて、こんな事を考えられるようになった事自体が余裕が出てきた証拠かもしれない。
「あの頃は鏡なんて見たくも無かったからな……今も別に好きじゃないけど」
ピン、と鏡を指で軽く弾くと洗面所を出てすっかり着慣れた作務衣に袖を通す……着慣れたとはいってもこの柄は初めて見る、以前墨白に俺用の服を何着作ったのか聞いた事があったが嬉しそうにニヤリと笑って『たーくさん、じゃ』としか教えてくれなかったのを思い出した。
我ながら気持ち悪いが思わず口の端が上がってしまう、俺を愛……可愛がりたいという墨白の言葉に嘘は無く、今日まで俺だけの為に料理を作り俺だけの為に世話を焼いてくれるし……何より俺だけの傍にいてくれる、今こうしてまっすぐに立てていられるのは間違いなく彼女のお陰だ。
「……少し早かったか」
ベッドの奥、丸く切り取られた障子窓の向こうがまだ薄暗い……どうやら起きるにはまだ早かったようだ、寝直すには眠気が足りないしどうしたものかと小さくため息をついてソファに深く腰掛けて天井を見上げる。
壺の一件があってからというもの、墨白に世界について様々な質問をした……聞きたい事は沢山あるのに何を聞いていいか分からず取り留めのない質問を繰り返す俺に彼女は何でも、同じ事でも答えてくれた。
数は無限……大きさも特徴も違うが隣同士と言っていい程に近く、決して干渉し合う事は無いという世界の在り方を『多層世界』と呼び、個々の世界には必ず一つだけ『鍵』がある。この鍵を持つ者が世界の主となり作り変える事も生み出す事も自在に行う事が出来るらしい……世界を支配するなんて悪の親玉が壮大な夢のように口にする言葉だが意外や意外、世界の鍵というのは手続きをすれば割と安価で買えると墨白は笑いながら言っていた。
ではどこで買えるのか? やはりと言うべきか常識の中には例外というやつがあるようで他の世界へと繋がるという特徴をもった世界が存在しているようだ、ややこしいが店やら何やらが揃った巨大な駅のようなものだと言われてようやくあの時の俺は理解出来たのだったか。
俺をこの世界へ引き込んだあの硝子玉もそこで買ったのだと言っていたので、じゃあこの世界も? という俺の問いに彼女は首を横に振る。
『ここはな、儂が自分で取ってきたんじゃよ。まぁ随分と昔の話じゃがな』
ポカンとした表情を浮かべる俺の顔を見てケラケラと笑い転げる彼女は更に言葉を続ける……どうやらこの駅の特徴をもつ世界には時折、別の世界へと繋がっている扉が出現するらしい。扉の先は大きさも特徴も規模も完全なランダムな上に誰の手にも触れられた事の無い完全に未開拓な世界……危険極まりないこの扉をくぐり、世界の核である鍵を取って戻って来るのが墨白の役割……早い話が仕事という訳だ、関わりこそ無いが他にも同じ事をしている人達をまとめて『旅人』と呼ぶのだとか。
手続きさえ終えれば鍵は売ってもいいし自分の物にしてもいいらしく、この鬼観世界がその一つだと話す彼女はどこか誇らしげに見え……気が付けば俺にも出来るかと反射的に口にしており、今度は墨白がポカンとこちらを見つめる番だった、あの時の呆けた顔も一瞬だけ浮かべた嬉しいような困ったような表情が今でも忘れられない。
恐らくはこの話をすれば俺が食いつく事が分かっていたのかもしれない。一度目を伏せ、次に目を開いた彼女は余裕を取り戻したかのように優しい笑みを浮かべて俺の頬に手を添えながらそっと呟いた。
『お前様はこちらでなら何でも出来るし何にでもなれる、儂が常にその背中を支えよう』
「……お、そろそろいい時間か」
いつの間にか障子窓から日が差していた、幾分か明るくなった部屋全体をゆっくりと見回すとソファから立ち上がり部屋から出る……少しだけひんやりとした空気が頬を撫でる感触が心地良い。
大きな屋敷だ、この数日の間はかなり彷徨ったつもりだが一向に全体を覚えられる気がしない……しかし今だけは足が迷う事は無い、思わず苦笑してしまいそうになるが食事をするあの囲炉裏の部屋の場所だけは早々に覚えてしまったので俺の根底は犬か何かなのかもしれない。
「……ん?」
いつもの廊下、いつもの角を曲がったところで……ピタリと足が止まる、視線を落とした先には一通の便箋。
大方、墨白が郵便物を回収した際に誤って落としたのだろう。深く考えずに拾い上げると物珍しさからかしげしげと眺めてしまう、真っ黒な便箋というのも珍しいが封蝋で閉じられた手紙など映画でしか見た事が無い……何か細長い物が同封されているのか便箋の中央がぽっこりと膨らんでいる。
「……」
しばらく便箋を見つめたまま廊下の真ん中で立ち尽くす……分かっている、いけない事だと脳内で警鐘が鳴り響いている。
酷い言い方をすれば墨白の俺に対する信頼の裏切りともなりかねない、しかし胸の奥で何か黒い物が噴き出すのを止められない……誰からだろう? 便箋のどこを見ても名前は書いておらず、封蝋には左回りの渦巻の刻印が施されているだけで何も分からない。広告には見えない、友人だろうか?……性別は? 墨白との関係は──。
「……っ、何考えてんだ俺は……」
ハッとして便箋を作務衣の内ポケットに押し込むと両手で自らの頬を何度も叩く……こんな物はさっさと渡して忘れてしまおう、そして彼女の料理を食べていつもの過剰なボディタッチを受けて心臓の鼓動を早めるんだ……早く、早く彼女に会いたい。
胸にたまったどす黒い煙を振り払うように長く息を吐き出し、廊下を足早に……彼女の、墨白の待つ部屋に向かって進んでいく。
「……?」
しかし数歩進んだところで再び足が止まる、気のせいか?……今、便箋が脈打ったような気がする。
恐る恐るポケットに手を入れて再び便箋を取り出す、黒い便箋に真っ赤な封蝋……改めて見てみると少々不気味な組み合わせだが手紙は手紙、気のせいかと封蝋を指先でトンと押す……すると次の瞬間、封蝋が赤く光り出したかと思えば激しく燃え上がり始めたではないか!
「あっつ!……はぁ!?」
反射的に便箋を廊下に叩きつけ、訳が分からず悲鳴を上げる。
便箋はすぐに燃え尽き、中に入っていた例の細長い何かが床の上を転がり続けている……あれはなんだ、万年筆のようにもチョークのようにも見える。
その正体はすぐに分かった、転がる事を止めた細い棒の周りに同じような棒が次々に現れて見た事のある形に変化していく……五本の長さや太さの違う棒、焼け焦げているのか俺のものとは見た目もまるで違うが間違いない……あれは、手だ! 理由なんて分からないがあの便箋には指が入っていたらしい。
細く骨ばっているので恐らくは女性のものだろう、魔女のような長い爪をもつ手はやがて手首まで出来上がったところで変化が止まった……爪で廊下をトントンと叩き、何かを探しているようにも見える。
墨白がいる部屋まではあと少し、手首のみなのでこちらが見えている筈は無いと思うが横を通り抜けて本当に平気なのだろうか……?
「……っ」
這いずるようにとはいえ指を使って器用に一歩進んだのを見て喉元までせり上がってきた悲鳴を必死に飲み込む、口も手で押さえ……しかし恐怖で涙が浮かんできた。
例えばここで叫んだらどうなる、あの手首に殺されるのと墨白が来てくれるのではどちらが早いのだろう? 頭の中でぐるぐると考え続けるが一向に答えは見つからない、そうこうしている間にも手首は廊下を爪で叩き続け……ふと動きが止まり、じりじりと向きを俺の方へと合わせる──間違いない、バレた。
「う、うわあああ!」
悲鳴が無様? 知った事か、手首に追いかけられるなど絵面がチープな事は分かり切っているがこの恐怖は手首に追いかけられた事がある者しか分かるまい。
先程の這いずりはなんだったのかと言いたくなるほど五本の指を巧みに操り蜘蛛のように加速する手首、必死に駆け出し横を抜けようとするが……すぐに逃げ切れないと心のどこかで悟った。
背筋に冷たいものが走り堪らず振り向くと大きく広げられた手がすぐ眼前まで迫っていた、もはや悲鳴を上げる隙も無い。
「おろ?」
目の前に青白い閃光が走り、思わず目を閉じて腕で顔を覆うと続いてどこか間の抜けた女性の声が耳に届いた、墨白のものではない……恐る恐る目を開くと焼け焦げ、黒い煙を上げる手首が死にかけの虫のようにピクピクと動いている。
「やるじゃないか少年!……いや、この感じは多分……まぁいいか、店で待ってるからあのバカに早く来るよう伝えといてくれるかい?」
呆然とする俺を気にも留めず一方的にそう告げると焦げた手首は小さな破裂音と共に弾け、辺りに紙吹雪のように煤が舞った。
次に瞬きする頃には墨白に抱き抱えられながら何があったのかと問われたがどう答えてよいものか分からず、とりあえず起こった出来事を一から話す事にした……最初こそ困惑といった様子の墨白だったが何が起こったのかを理解するにつれて呆れ、苦虫を噛みつぶしたかのような表情へと変化していく。
「……ごめん墨白さん、勝手に見ちゃって」
「よいよい、気にするでない。というより……あれは明らかにお主を狙ってのものじゃった、わざわざ音を遮断する術まで使いおって……あの、たわけが」
俺が叫んでも墨白が来なかったのが不思議だったがそういう理由があったらしい、『術』なんていう魅力的な単語を聞き流すのは惜しいが……今は他に聞きたい事がある。
「あの手紙の送り主は、知り合い?」
「……うむ、知り合いというか腐れ縁というか……奴が言うたように今のは催促のようなものじゃ、お前様を早く見せに来いとな。本来はここへ来たらすぐに連れて行ってやると言っておったんじゃが儂がいつまでも囲っておるから焦れたんじゃろうな、悪質な悪戯までして……どうしてやろうか」
「イタズラ……今のが」
心の底から怖かった、だというのにあれがただのイタズラ?……爪をわざと尖らせるように構えて悪い笑みを浮かべる墨白を眺めながら廊下に座り、壁に寄り掛かっていると俺の様子に気付いた彼女が隣に座って俺の頭を撫でる。
「仮に少しでも悪意、お前様を傷付けようという意思があれば追いかけられる事無くこの家の壁や床が即座にお主を守る。それが起きなかったという事は……まぁ、大方本当にお主を見に来ただけじゃろう」
深くため息をついた墨白が俺の手を握り、そのまま俺の片手を抱き抱える。
「儂はお前様をずっと見ておった、故に人間の……どう言えばよいか、ルールと言えばよいか常識と言えばよいか……とにかくそれを何となく理解する事は出来ておるつもりじゃ、しかしここは現実世界ではないしこれから行く世界も違う、儂の言いたい事は分かるかのう?」
「……うん」
深く考えるまでもない、隣にいる彼女が……鬼が、俺の理解できる範疇で行動してくれている事自体が奇跡という話だ。
あの便箋の送り主が鬼なのか悪魔なのか、それとももっとヤバい何かなのかは知らないが俺の……人間の常識なんて今後出会うであろう誰にも通用しないと考えた方がいい、つまりはそういう事だろう。
俺の常識から外れているなんてことはこの世界で過ごして心のどこかで分かっているつもりだった、何かとんでもない事をしでかす前に浅い覚悟を消し飛ばしてくれたあの手首には感謝する必要があるかもしれない……俺は墨白に守られている、しかしどんなに小さくても良いからこの世界で生きていくという覚悟があるかどうかでは大きく違う。
「墨白さん」
「なんじゃ?」
空いている方の手で顔を拭い、胸に溜まった弱い気持ちを一気に吐き出す……空元気でも虚勢でもなんでもいい、呼吸を整えて震えないように全身に力を込める。
「……俺、お腹空いたよ」
一瞬の静寂の後に弾けたような笑い声が廊下に響いた、抱えられている右腕が一瞬強く握られる。
「儂もじゃ、お前様よ」
視線を絡めて微笑み合い、並んで廊下を進む。
──俺はもう間違えない、意味も無く負け続けるのはもう御免だ。